伽耶を知れば古代日本が見える6~日本建国は百済系―伽耶系の権力闘争の果てにあった

伽耶を知れば古代日本が見える6~日本建国は百済系―伽耶系の権力闘争の果てにあった

日本建国は諸説ありますが、明らかに大陸の記録に日本が登場するのは百済滅亡後の670年代です。この日本建国直前には様々な渡来人の思惑がありました。
前回の記事では大和朝廷伽耶人が興した国家であり、本国伽耶を失って以降は、対高句麗、対唐、新羅を前に百済人を取り込んで国家としての体制を整えていく決意をしたことを書きました。今回第6回では、伽耶百済の古来からの関係を見ながら、伽耶人が後発で日本に乗り込んできた百済をどのように見ていたか、どう扱ったのかを見ていきたいと思います。歴史書などでは一般に日本は百済人が作ったと書かれることが多いですが、実態のところは伽耶人が大和朝廷の骨格を作り、後に百済人が乗り込んで合流した国家が大和朝廷であり日本国と思われます。
朝鮮半島内での百済伽耶
百済伽耶は共に国土を侵略され、日本に移住した国家ですが、朝鮮半島の時代からこの両国には複雑な関係がありました。
まず最初にまだ馬韓弁韓と呼ばれていた時代、この地には呉越からの難民が多く流れ込みました。馬韓には呉人が陸伝いに到達、弁韓には越人が海を渡って到達します。したがってこの両国はかつては江南人の氏族が多く分かれて小国を作って定着していたことになります。その数は70国以上と言われ、国家という体裁を取らない状態が長く続いていました。やがて馬韓は3世紀後半に扶余人が入国し、百済という国家を樹立します。弁韓はそれよりかなり前(1世紀前半)に金官伽耶という国を建て、半島内で自立します。
高句麗の広開土王時代に百済伽耶は共に攻撃を受け、百済は首都を奪われ、南の熊津に遷都、実質上国土の半分を高句麗に奪われます。この4世紀から5世紀にかけての攻防は高句麗が半島全部を支配しようとする強い攻撃でしたが、新羅百済伽耶は抵抗し、高句麗の大王、広開土王の時代が終わると形成を逆転させ、新羅高句麗に代わって金官伽耶を収奪、百済伽耶の一部の譲渡を受けます。
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~国土を過半、高句麗に占拠された百済
伽耶百済新羅の関係は常に同盟関係でありながら敵対関係にもなり、中でも伽耶新羅と戦うときには百済と手を結び、百済と戦うときには新羅と同盟するという節操のない国交をしていました。それは前にも述べたように伽耶が貿易国家で、両方の国に商業を通じて国交があり、どちらにもよい関係を結んでおく必要があったからです。
ここで言いたいのは、伽耶百済の関係は半島内では決して一枚岩の同盟関係ではなかったという事です。
百済を取り込んだ伽耶人の策略】
話をいよいよ日本に移します。
伽耶は日本国内にも早くから伽耶系の氏族の拠点を各地に設けており、出雲を高句麗が押さえて以降は大和に結集し、高句麗対抗勢力を作ります。これは先の記事に書いた大和朝廷伽耶とする部分です。当初大和朝廷伽耶の王朝を奈良に呼び崇神天皇として迎え入れます。そこで本国からの鉄のルートを確定するだけでなく、伽耶と大和は連合国となっていきます。3世紀に奈良に箸墓古墳を立て、その後も岡山、河内に大型古墳を連立していきます。大王は伽耶系の日本国内の氏族で回しいていきますが、475年百済の遷都に伴い追われた百済人が日本列島に大量に渡来するようになると、対百済人戦略にも頭を悩ませます。そこで考えたのが百済人を取り込むという判断です。
既に伽耶系王族の日本への全面渡来は確実となり、迫りくる半島の圧力に対抗するには日本列島を国家として固める必要がありました。百済の王家である応神を天皇として大和に迎え入れ、百済系を取り込む戦略に出ます。応神はやがて河内に400mクラスの大古墳を作り、当時の百済系渡来人を結集します。
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河内にある応神天皇
伽耶系―百済系の権力闘争】
応神天皇以後は伽耶系、百済系で交互に天皇に付きますが、百済系の渡来人が増えてくるに付け、いよいよその整理が必要になります。伽耶は元々は連合国家で国家の体制を持っておらず、元百済の官僚である蘇我氏を招きいれ百済人の統制を担わせます。蘇我氏はご存知の通り、官僚としては極めて有能で、その後の日本の中央集権国家の基盤となる制度、システム、組織を作ります。また、本国百済からも仏教を取り入れ、神道中心だった物部を追い出します。百済人の統制を任されていたはずの蘇我氏は6世紀に入ると政治の中心に口出しをし始め、伽耶系で指示統轄されていた天皇を中心とする中央組織を百済色に塗り替える試みを始めたのでしょう。
元々伽耶系で作ってきた大和の王朝です。これでは王朝も黙っていません。当時信望を集めていた蘇我氏を暗殺し、再び伽耶系の王朝に戻す事を試みます。それが645年乙巳の変の実態です
暗殺の首謀者である中臣鎌足、その後の天智天皇伽耶系の一派です。さらに以後も百済の全面敗北が決定的になった6世紀半ば、斉明天皇による白村江の戦いが企てられます。既に敗北が決まっているにも関わらずはるばる朝鮮半島に舟で出向き、大量に死者を出します。表向きは唐からの百済奪回を目指す戦闘ですが、勝ち目は全くなく謎の戦争と言われています。数千人の百済人を一気に減らす、百済人減らしの戦略だった可能性があります。
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白村江の戦い絵図こちらよりお借りしました。
このように伽耶百済は日本国内では血みどろの争いをしており、唐、新羅との戦いより、こちらの争いが常に先行していったのです。幸い強い高句麗も滅び、唐、新羅も日本に手を付ける前に内部対立し、結果新羅が半島を統一します。日本が内部争いに終始していても侵略を受けなかったのはこの時期、半島内で戦力を互いに潰しあっていたからだと思われます。
【権力闘争の決着を差配したのは天皇制をつくった百済人「不比等」】
さて、それでもやがて迫る来る大国唐の圧力を前に日本ではこの百済伽耶の権力闘争を決着させる必要がありました。蘇我氏を失い伽耶系勢力の下劣勢だった百済人は本国の高官、藤原不比等を呼び、その調整に入ります。天皇制を建て、中央集権を整備、仏教を拡充し、さらに日本書紀による対唐に向けた歴史書を作り上げます。天皇制はそれまでの権力と祭事を掌握していた大王と異なり、祭事のみを担う制度とします。その初代天皇天武天皇でこれは伽耶系の天皇だったと思われます。その後は知っての通り、平安時代まで藤原氏実権の時代が続きます。
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天武初代天皇こちらよりお借りしました
この実権と象徴を分離したこの天皇制という制度こそ、百済人が考え出した伽耶―百済の権力闘争の決着のさせかたであり、実権を百済系が持っていたからこそ、天皇は伽耶系にという手当てをしたのでしょう。日本の天皇制がよく象徴天皇であり、この形態は中国にも朝鮮半島にもないシステムで、謎の一つとなっていますが、それは日本という国家が様々な渡来人によって作られた混成国家であり、その決着方法がいかにも取引的に行なわれていた事によると思われます。
伽耶系天皇は天武天皇の末裔として、その後奈良時代を通じて継続しますが、平安時代になるといよいよ百済系の天皇、桓武天皇が立ちます。それがはじめて実権と象徴が一体になった時期だったのでしょう。事実、平安時代以降は京に都を移し、百済系の文化が宮廷を支配します。伽耶系はこの時期に完全に地下組織に潜り込みます。それは長く、明治時代に再び登場してくるのです。
【まとめ】
最後にこのややっこしい伽耶―百済の関係を簡単にまとめてみます。
紀元前~伽耶系が日本に定着(主に鉄の交易拠点)
対高句麗戦略の伽耶系王朝として大和朝廷が出来上がる
 伽耶系崇人天皇が初代大和朝廷天皇として呼ばれる
475年 百済侵略を受け遷都
 それにより百済から亡命(百済人が日本列島に入る)
大和朝廷が百済人取り込みを決意 
5世紀末 応神天皇が大和朝廷に迎え入れられる
6世紀中頃 蘇我氏を百済人の統制役として抜擢⇒国の骨格が出来上がる
645年 出すぎた蘇我氏が邪魔になる⇒伽耶系による暗殺(乙巳の変)
663年 百済滅亡⇒大量の百済系亡命者
663年 無駄な合戦~白村江の戦いで百済人の人減らしを企む
672年 天武天皇による天皇制初代統治
 ~藤原不比等の百済―伽耶の権力闘争の決着手法(象徴と実権の分離) :
m282: 以後は対唐へ力を注ぐ~百済―伽耶合併王朝として国づくり
平安時代に百済系天皇が立つ。⇒伽耶系は地下へ潜伏。
江戸時代に京都公家勢力が解体⇒明治時代に伽耶系王朝の復活。
今回の記事で天皇制度の登場がどうやら日本建国の結節点にある事が明らかになりました。でも私たちの知っている天皇制は神武天皇が初代で、日本建国のはるか以前からあるように認識しています。次回はこの“作られた”天皇制の本質に迫ってみたいと思います。どうぞお楽しみに