「神社ネットワークの解明」6~神社ネットワークの完成と発展~

「神社ネットワークの解明」6~神社ネットワークの完成と発展~

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天岩戸神話の天照大神の図
 前回は、神社ネットワークの誕生をお届けしました。神社本来の姿は常に「性」と結びついていることが分かりました。改めて、五穀豊穣・子孫繁栄を願う先人たちの生々しい息遣いを感じました。
 渡来系民族が神社ネットワークを構築していく際に、元々あった集団の性充足の場を壊さず、「祭り」として性充足の場を神社に組み込んで行き、混乱なく上下関係を構築して共認統合を実現していったことが、最大のポイントだったと思われます。
 今回は、古墳時代から奈良・平安時代の神社ネットワークの成熟と完成過程をみていきたいと思います。
 当時の日本の政治は、中央集権体制へと邁進した時代でした。大陸や半島の情勢より渡来民とともに、力の序列原理(戦争と権力争い=私権社会と制度)が押し寄せ、百済伽耶の滅亡より、大量渡来人が列島に到着します。各有力豪族が作り上げたネットワークは、それまでの認識では、統合できなくなってきたようです。
その時代に、私たち祖先が選んだ国体として統合様式はいかなものであったのでしょうか?
それでは、4~8世紀前後の神社ネットワークの成熟期と完成、発展過程を見ていきましょう。
この時代に私たち祖先が選んだ統合手法は、殺戮、戦争、皆殺しなどの力で屈服させる部族間統合様式とは、到底、思えません。太古の昔より、母系性的性格、本源的性質、受容文化(受け入れ体質)、大らかな性文化をもった我々の祖先は、過去の列島のシステムを壊さず、塗り重ねる形で部族間統合を行っていったのではないでしょうか?これは、集団内統合を集団外に適用したという縄文人が同類に取った手法と同じともいえそうです。
 その中心をなす観念が、扶余系民族の百済伽耶王族に共通する天孫降臨神話と万世一系の現人神信仰であったように思います。性充足をベースとした神社ネットワークの上に、更にこれらの観念を塗り重ね、共認統合社会を実現していった流れを追ってみましょう。
まずは、神社ネットワークの歴史を概観できる記事を紹介します。
「大和政権の源流と葛城ネットワーク」 最終回~葛城ネットワークは日本を守る共認ネットワークだった~
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・・・前略・・・
こうして見ていくと、日本人は、上(統合階級)も下(庶民)も共認原理に可能性を見出した民族と呼べます。
そして、このような統合システムが実現できたのは、日本が島国で本格的な略奪闘争に巻き込まれることなく、縄文体質を残していたからです。
だからこそ、日本にやってきた葛城も、共同体を残存させる統合システムに舵を切ることができたといえます。
もっと言えば、葛城ネットワークの前身である徐福一団やその後の渡来人達は、本格的な略奪闘争を経験しているからこそ、共同体を破壊すれば、大陸のように日本が荒野と化すことをわかっていた可能性もあります。
・葛城ネットワークおよびその一派である藤原氏不比等)の目的は、「日本の安定」。そのために事実よりも共認統合のための方便(万世一系天皇制)を優先させた。
・葛城ネットワークの力の基盤は、神社ネットワークを使って共認統合のための方便(万世一系天皇制)を民衆レベルまで浸透させた「共認形成力」にある。
・結果、共同体を破壊することなく縄文体質を残存させた日本人は、上(統合階級)も下(庶民)も共認原理に可能性を見出した民族となった。
これらから導き出される葛城ネットワークの正体とは、日本の安定を実現するために「縄文体質」「共同体」を守る共認ネットワークだったと考えられます。

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また、下記も参考になります。
「神社ネットワークとは、性充足の基盤の上に万世一系天皇制という観念統合を塗り重ねたものだった」(新川様)
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7世紀の半島情勢
時代背景
 3~4世紀頃から、半島や大陸での動乱や内乱が激しくなり、安定した秩序を保てなくなってきました。中国では三国時代から五胡十六国時代に入り、国家が乱立する時代となります。半島でも少し遅れて三韓時代に入り、高句麗の圧力に晒され、中国との関係を睨みながら、離合集散し、百済新羅伽耶諸国が形成されます。
 これらの圧力を受け、半島や大陸から多くの人々が日本に渡来してきます。特に、先行して渡来した勢力(主に葛城、賀茂、秦、物部氏などの氏族)は、半島での高句麗の圧力を看取して、対抗する勢力=大和朝廷(≒AD350年 伽耶系の崇神王朝)を形成していきます。祭祀をベースとした巨大古墳をネットワークでの力の誇示につながります。
 その中で、中央(大王=葛城氏等を中心とした連合政権)では、物部氏は武器を管理し、賀茂氏は賀茂(鴨)神社を創立・管理、秦氏八幡神社・稲荷神社を創建・運営して、祭祀としての神社ネットワークの基礎を形成しました。祭祀族の忌部氏と同族の賀茂氏(卜部氏と同族)は、秦氏と婚姻を結んでいるようで、同族意識があり、ともに祭祀を司る氏族という自負があったようです。徐福と同時に渡来した物部氏卑弥呼の系譜をもつ海神族の海部氏、尾張氏(=海部氏の支族)や宗像氏(応神天皇の妃=宗像三女神など)も連合政権に参加します。また、海部氏・尾張氏は大王家の葛城氏と同族で、葛城氏は、徐福より早い時期に中国の江南地方から日本に移住してきた部族のようで政治中枢を担っていました。各豪族は、4世紀には、既に婚姻によるネットワークの祭祀として神道をベースとした観念を構築していました。
 475年に高句麗高句麗好太王、長寿王)の南下によって北百済漢城百済)が滅亡し、南百済(熊津百済)は660年に唐-新羅連合軍によって滅亡しました。また、伽耶地方は、532年金官加羅滅亡、562年任那滅亡と相次ぎ新羅に併合されていきます。その時、百済人、伽耶人が大量に日本に渡来してきました。
 一時期、列島では百済人、伽耶人の人口が増え、国内秩序が乱れてきます。また、日本の豪族たちも、半島から逃避した百済王族に付くものも現れ、中央豪族といえども、謀反を起こす可能性が高くなっていました。(ex葛城氏等の連合政権は表向きの顔としての蘇我氏を立てましたが、百済系渡来民寄りとなり、中央に従わなくなってしまった等)言い換えれば、いままでの手法では、共認統合が困難になってきたということです。
 このように、国内秩序が乱れていき、支配層が多様化し、争いごとが絶えない状況に陥りました。
 その後も大陸や半島の戦乱や動乱、国家乱立が7世紀初頭から中期まで続き、中国では、隋→唐の統一、半島では、新羅三韓統一を果たし、秩序が形成されていきました。日本でも、いくつかの乱を経て、天武天皇と中臣氏が祭祀を、その一派の藤原氏が政治を司る体制となり、中央集権の道を歩み、秩序構築に入り始めます。
 
 改めて共認統合する必要から、共同体→神社ネットワークの上に、塗り重ねる形で、伽耶系・百済系王族に共通する扶余系の天孫降臨万世一系の現人神信仰の観念を中心に据え、歴史書の編集を天武-藤原不比等より開始するのでした。
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日本書紀平安時代の写本)
共認の方便たる天孫降臨・現人神信仰と万世一系の観念
 この天孫降臨・現人神信仰と万世一系の観念により作られた虚構・神話の世界は、現政権を正当化する観念であり、かつ、対外的にも天皇家天孫族系)が長い歴史をもつ由緒ある血統・皇統であるという権威付け(力の誇示)が必要でした。その結果、国内外の統合の必要から太陽神である天照大神が作られます。
 この観念に、新政権の重臣たちが異を唱えなかったのは、天皇家という血統(力のある渡来系の支配民)に繋がることが大切で、共認統合上も体制の確立上、事実よりも、方便としての天孫降臨・現人神信仰の架空の物語の方を重要視したのだろうと思います。
 これらの観念を神社ネットワークに組み込み、過去の自然信仰や古神道、その他の神々に塗り重ねていく(つなげてゆく)ことで、各氏族を系統だて、中央集権化を目指していったのです。
 もともと集団間の統合を誓約という婚姻によって性的につなぐ文化が日本に根付いていたということなのでしょう。古代より、私たちの祖先は、母系集団同士の婿入りという婚姻形式を実現し、性のつながり=血のつながりで争いを避け、仲間として受け入れるという受容文化(=受け入れ体質)を作り上げてきたのでした。この同類闘争を止揚する統合様式は、深いところで列島各地に共認されていたのだろうと思います。
※参考「大和政権の源流と葛城ネットワーク」~5.母系万世一系の葛城ネットワークをご覧下さい。
 全く事実からかけ離れた架空小説に過ぎなかった記紀でありますが、官僚たちが、事実と異なるが有益と判断した理由のもう一つは、縄文以来の充足系の統合をなした母系集団や誓約文化を継承しながら、力の原理を導入するという事態を再統合するために、『力の原理・私権原理・万世一系の支配構造は、架空としておいたほうがいい』と判断したことも一つの要因であったのだろうと思います。要は、日本文化にそぐわない観念であったために、嘘としておくことで捨揚しようとしたのかもしれません。
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賀茂御祖神社下鴨神社)     京都伏見稲荷大社         宇佐神宮
神社ネットワーク
 葛城氏から派生した、賀茂氏秦氏による神社管理のネットワークは、その後、対外圧力や政治の影響を受けていきます。彼等は、7世紀後半に藤原氏が選定した天孫降臨神話を代表する天照大神を、既存の神社ネットワークに塗り重ねていき、現在の神道の基礎を作り上げたのだろうと思います。
 俗な諺に「鴨が葱を背負ってやってきた」という言葉がありますが、「鴨鍋をしようとしていたら、鴨のほうからやってきて、葱まで自分で背負ってきた」→「罠に自分から進んで、しかもおまけまでもってくるめでたい人間」の例えとして使われてきたようです。
 しかし、もう一つの意味は、鴨が背負ってくる「ネギ」とは野菜の「葱」ではなく、「禰宜(ねぎ)=宮司を補佐する神職」のことで、また、動物の鳥としての「鴨」ではなく、「鴨氏=賀茂氏」と読めるようです。「全国の神社を管理する神道の一族、賀茂氏秦氏禰宜を連れてやってくる。」と・・・それは、全国の神社に、賀茂氏秦氏の息のかかった禰宜を送り込んでくるという意味をもっているようです。元々とあった神社をつぎつぎと乗っ取っていった手法の多くは、婿入りという方法がとられたらしく、神官の娘と結婚させ、いずれ婿が神社を仕切るようにすることで中央の天照大神を流布していったようです。賀茂氏秦氏等の祭祀族は、こうした婚姻を媒介にして、全国の神社を支配下に収めていったようです。このような藤原氏賀茂氏秦氏(彼等の基盤は葛城氏)による大規模な神道再編計画があったのでしょう。
 それは、史実には記載がありませんが、架空の天孫降臨神話=現人神信仰に基づく万世一系の皇統を既存の神社ネットワークに塗り重ね、共認せしめる神道再編事業だったのだと思います。
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伊勢神宮(内宮)
まとめ 
 かつて、極東の地=日本には、多くの民族が渡来してきました。列島内は、渡来民族との混融や彼等の文化の影響を受けて、古代氏族(主に葛城氏ら)からの分派・独立が相次ぎ、統合不全に幾度か陥ります。それらを立て直し、統合し直す手法として、神社・神道ネットワークが選ばれ、7世紀に既存の神社ネットワークに塗り重ねる形で、共認の方便たる万世一系、現人神の観念が流布されていったのだろうと思います。大衆の期待は、あくまでも、原始時代~採集生産時代の自然圧力に適応した共同体そのものの体制を温存してほしいという期待であり、渡来系支配層もそれらを力づくで変えようとは思っていなかったと思われます。この大衆期待に応えるために、各部族長には祭祀能力が求められ、神道が主流となっていったのでしょう。
 実際は、大陸や半島での同類闘争圧力が高まり、戦争の圧力が迫ってきましたが、日本では、防衛や闘争勝利の期待はあったものの、大衆の期待が力の原理による統合(武装・闘争・戦争)へ向かわず、古墳造営という巨大建造物の構築と祭祀祈祷をベースとした神道ネットワークが政治の表舞台で活躍する形となり、支配層の力を国内外に知らしめるだけの物語にし、内実は、何も変わらない母系万世一系が継承されていったのだろうと思います。
 これで一旦、神社ネットワークの解明のシリーズは、終了します。今後も新しい歴史認識を発見次第、さらなる神社や神道の歴史=皇統の歴史を紐解いて見たいと思います。
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国宝真福寺古事記