百舌鳥・古市古墳群が、世界遺産に登録~古墳の謎を解く!

百舌鳥・古市古墳群が、世界遺産に登録~古墳の謎を解く!

百舌鳥・古市古墳群が、世界遺産に登録されることが確実になりました。

この世界最大規模の古墳は、歴史の空白の時代に当たり、この古墳自体が何なのか、何のためにこんな巨大な土木工作物が作られたのか、実ははっきりとは解明されていません。

るいネットや、このブログでもさんざんこの謎に迫ってきました。 今回はそれらの記事の中から、古墳の確信に迫る記事を集めて、古墳が発生し、無くなるまでの真相について迫ってみたいと思います。

 

【出雲文化の開花~四隅突出型古墳の時代】

-奇妙な形の墓-出雲ブランドの登場-

神庭荒神谷での大量の銅剣や銅鐸・銅矛の発見、そして加茂岩倉での銅鐸の発見は、弥生時代後半(およそ2千年前)の出雲に豊かな青鋼器文化が花開いていたことを強く印象づけた。しかし青銅器が消えた後、古代出雲がどのような道をたどったのか。あまりに派手な青鋼器の陰に隠れて、このことは意外と知られていない。  弥生時代の終わり頃(今からおよそ1800年前)、出雲を中心に奇妙な形をした墓が作られる。四角い高まりの四隅が突き出し、ヒトデのような形をしたこの墓を「四隅突出型墳丘墓」と呼んでいる。高まりの斜面に石を貼り、裾には石を立て並べた姿は壮観で、当時の出雲のいわばブランドマークといったところであろう。この墓こそ、青銅器文化の後を受けて花開いた出雲文化を物語る主役である。

-出雲の王墓-西谷三号墓の時代-

この時代の四隅突出型墳丘墓は、出雲で20を超える数が見つかっている。その代表が出雲市大津町の西谷三号墓である。西谷三号墓はさしわたし(直径)50メートルを超える大形の墳丘墓で、当時の墓としては全国最大級の規模を誇る。  昭和58年から10年におよぶ島根大学による調査で、数多くの注目すべき事実が明らかになった。頂上の平坦面の中央から二つの大きな墓穴(第一主体部、第四主体部と呼ばれている。)が見つかり、それぞれ二重構造の木棺が置かれていた。棺の底には貴重な朱が一面に敷かれ、玉類や剣などの副葬品も見つかった。さらに二つの墓穴の上から数百個体に上る土器が出てきた。墓穴を埋めた後、大量の土器を使って盛大な祭りが行われていたらしい。第四主体では、巨大な四本柱に支えられた上屋があったことも明らかになった。 これらの調査成果からみると、西谷三号墓に葬られた人物は、出雲各地の有力者たちを束ねた「出雲の王」と呼んでもよいかもしれない。さらに彼の影響力は、一つ出雲だけにとどまらなかったようである。

-壮大な地域間交流-

西谷三号墓の墓穴の上から出た土器をよく観察すると、地元出雲の土器に混じって見慣れない土器が合まれていることがわかる。一つは吉備地方(今の岡山県を中心とする地域)で墓の祭りに使われる大形の器台と壷、もう一つは丹後地方から北陸地方にかけての特徴を持つ土器である。どうやら当時の出雲の王の葬儀に、遠く吉備や越(北陸地方)から代表者が出席していたらしい。 これらの地域との密接な関わりを示すのはそれだけではない。それぞれの地域では同じ頃、やはり大形の墳丘墓が作られていた。岡山県楯築墳丘墓と福井県小羽山三十号墓である。それぞれの地域の王の墓である両者が、西谷三号墓とよく似ているのである。  例えば楯築墳丘墓は西谷三号墓と同様の二重構造の棺を持ち、その底に莫大な量の朱を敷き詰める。小羽山三十号墓は同じ四隅突出型墳丘墓だ。墓穴を埋めた後の祭りも両者とも西谷三号墓とよく似ている。 この時期、中国の歴史書によると、倭(当時の日本)は戦乱状態にあったという。混乱した情勢の中で、西谷三号墓の主は、中国山地を超えて吉備の王と、日本海を通じて北陸の王と密接な関係を取り結び、出雲の存在を全国にとどろかせていたのではないだろうか

-新しい時代への胎動-

 弥生時代の後期、近畿地方や北部九州地方で巨大な鋼鐸や鋼矛を使って祭りを行っていた頃に、出雲ではすでに青鋼器を使っていなかった。そして入れ替わるように四隅突出型墳丘墓が現れる。出雲ではいち早く伝統的な弥生の祭りを捨て、王個人を祭る四隅突出型墳丘墓の祭りを取り入れたようだ。神庭荒神谷や加茂岩倉に大量の青銅器を埋めたのは、古い祭りへの決別の儀式だったのかもしれない。 やがて大和政権による統一的な墓、「前方後円墳」によって地位や身分を表す時代がやってくる。西谷三号墓の時代からおよそ百年後のことだ。古墳時代の始まりである。きたるべき新しい時代への胎動は、出雲から始まった のかもしれない。

弥生時代再考(3) 古墳の謎を一挙解明】

巨大古墳の造営は、最大で延べ500~700万人、工期15~16年を要する一大土木事業です。しかし、この事業は生産力向上に直結しません。にもかかわらず、そのような労働力を振り向けるには、相応の理由があったはずです。全国的に様式が統一されているということは、中央政権にとっても、各クニの首長にとっても、それだけの労力を掛けるべき課題だったと考えられます。そのような連合国のトップから平民までをも貫く重要課題は、国家レベルの外圧=戦争圧力です。 そこで、彼らはいかに戦争を回避するかを考えたのです。

 敵は強国高句麗

山陰の中海は天然の良港であり、かつ、出雲には鉄・銅資源もありました。軍事、交易の両面から適地でした。  高句麗族はもともと方墳を築造する文化があり、出雲支配と同時に巨大な方墳=四隅突出型方墳を築造します。

それまで、銅剣・銅鐸(守護・豊穣)で集団統合を図っていた弥生人は、高句麗の脅威を目の当たりにします。巨大な方墳は彼らの力のシンボルであり、圧倒されます。  弥生人は、戦争を回避するため、彼らに対抗し、巨大古墳の造営に着手します。威嚇のためには、相手を圧倒する大きさと数が必要です。かつ、連合の結束を表す“かたち”の統一も必要でした。     古墳造営は内部統合の秩序を強化する役割ももたせました。各国の力(主に生産力)の大きさに応じて、つくる古墳の大きさを決めていきました。これは各国の序列を明確にすることで内部抗争を封鎖する狙いもありました。    ヤマトと双璧をなす吉備は大型の古墳を志向し、5世紀には箸墓を超える古墳を造営します。ヤマトはこの勢いを越えるために、4世紀末、大型古墳が造営できる領地(生産地)が得られる河内へと進出しました。

古墳のかたちは、それまでの墳丘墓には無い前方後円墳を導入します。前方後円墳の起源は吉備国にあり、そこでの最先端の統合様式と古墳造営技術が取り入れられました。

その形の意味は前方部にあり、元々は円墳の“参道”だった部分が徐々に強調され発達したものです。それは王位継承の儀式を行い、これを皆に知らしめる場として大きな台座状に造られるようになります。これは、王位の世襲を確立し、各クニの内紛を防止する効果を狙ったものです。

古墳造営は平民が担いました。その労働は統率のとれた集団行動が行われることで、いざというときの軍事行動の訓練にもなっていたのです。また、一大公共事業は、余剰労働力(生産力)を活用する機会としても機能し、間接的に生産力を向上させるという狙いもありました。

前方後円墳連合が大和を拠点としたのは、対高句麗防衛連合にとって、吉備と尾張の2大勢力との連携が不可欠だったからです。日頃から密に人と情報が行き来し、有事にはすぐに支援が来る立地である必要があったのです。最古級の前方後円墳で出土する土器が、尾張や吉備のものが多いのはそのためです。大和は吉備とは水路でつながり、尾張も近い。更に、地形は盆地形状で防衛しやすかったのです。    もうひとつ重要な視点として、大和の資源があります。高句麗に出雲を取られた弥生人三輪山を死守しようとしたと考えられます。近畿への進出は残された資源確保の経路として、瀬戸内海、東海、丹後を防衛する必要もあったと考えられます。

東国の古墳はなぜ前方後方墳なのか    

前方後円墳の造営は西日本が中心です。中部地方より東では前方後方墳が一般的です。

西日本では、対高句麗で連合を組み、中核勢力である吉備が出雲に睨みをきかせます。これが効いたのか、高句麗勢力は南下せず、東へと勢力拡大を目指します。目的は軍力と経済力の拡大です。東日本は、朝鮮系の領海を通らずに本国と行き来ができ、交易路としても都合が良かったのです。     高句麗は“前方後円墳国家”という思わぬ対抗勢力の出現に、対抗策を打ち出します。強豪高句麗といえども前方後円墳連合は厄介に映ったのです。目には目を、ともいうべき古墳造営です。今度は高句麗勢力が自らの方墳をベースに前方後方墳を築造し始めます。そのカタチの効用も理解したからでしょう。 その結果、高句麗の東国支配に呼応するように、前方後方墳が広がっていき、東国での一般的古墳となりました。

【輝ける古墳造成時代】

古墳は、どこを見ても平らな土地に土を盛って造ってある。人工的な盛り土だ。もしも天皇や豪族の墓だとするなら、いったいその膨大な量の土砂はどこからどうやって運んできたのか。  墓にするなら、自然の小高い丘にでも埋葬すれば十分なのに、なぜわざわざ平地に造らせたのか、はなはだ疑問である。

古墳の周囲は平地だから、現在は住宅街か田んぼが広がっている。造られた当時も、田んぼか畑だったはずである。  ここから、日本歴史学会の定説にぼちぼち異議が唱えられている。  稲作は縄文前期には日本にあった。弥生時代に〈弥生人〉が渡来して持ち込んだのではない。ずっと小規模の水田で、河川や湖のそばにあっただけである。菜畑遺跡(佐賀県唐津市)を見れば明らかだ。

それが古墳が造られる時代になると、かなり大規模化した水田が登場する。そして当然、稲の収穫量も飛躍的に増えている。  これは大規模な灌漑工事が行なわれたことを指している。  本来、自然の土地は起伏があって当たり前である。河口付近は土砂の堆積で平地が多いが、太古から手つかずの自然ならば、大なり小なり土地は真っ平らではない。

そこを開墾して平らにならし、水田にする工事をすれば、大量の土砂が出る。灌漑だから、水路も確保しなければならず、また溜め池も掘らねばならない。どうしても掘った土砂を捨てなければならない。それで土砂を集めて、盛り土にし、古墳にしたのである

古墳は各地にあるが、とりわけ近畿地方に多い。それはつまりヤマト朝廷が近畿で勃興し、強大な権力となったからである。そして大阪平野奈良盆地などを灌漑して、余った土砂を小山にした。  それによって、民は米がたらふく食べられるようになり、人口も増え、国家が隆盛していったのである。    したがってサヨク史家が言うように、天皇や豪族が人民を奴隷としてこきつかって、見栄や私欲で墓を造らせたわけがない。  みんなが食べられるようになり、食糧をめぐっての争いも減って、平和になって、どれほど人民が幸せになったか。  仁徳天皇陵も灌漑で盛り土したところに、家来や人民が天皇は偉大な方だったとの感謝を込め、また死後も魂としてみんなを見守ってほしいと願って、その盛り土を利用して陵墓にした、というわけだった。結果として陵墓になったのだ。

七世紀末ごろに古墳の建設が行なわれなくなるのは、そうした古式の灌漑工事をやらずに済むようになったからだ。  多くの土地が開墾され、土地が平らにされ、水路も発達していたから、新たに荒れ地を開墾しても、土砂は水路を利用して船でどこか(海?)に運んだり、大規模な堤防を造るのに利用されるようになったと言われている。

実際、明らかに古い盛り土で古墳なのに、豪族の埋葬品もなく、墓とは言えないものが多いことが、古墳建設の目的が墓ではなかったことを示している。

【古墳はなぜ無くなったのか】

時代とともにだんだん大きくなり、そして小さくなり、最後にはなくなってしまいました。 これはいったいどういうことでしょうか。

古墳は西から生まれ、東へと移動して行きながらだんだんに大きくなり、それがさらに東へと移動していくなかで、だんだんと小さくなって、最後にはなくなっています。 その理由です。

これを考えるにあたっては、2つのことを頭に先に入れておく必要があります。 ひとつは、古墳が誕生する以前は、集落社会であり、田んぼも集落前の小規模なものでしかなかった、ということです。

ところが古墳が築造される大和朝廷の時代になると、広大な土地が開かれ、開墾されるようになります。 つまり、大規模な土地の造成と灌漑工事が行われるようになるわけです。 そしてこのことが、つぎの2つめです。 それは、「技術は蓄積によって進化する」ということです。

つまり、大規模造成地の開墾は、技術の蓄積があって、はじめて可能になるということです。 もっというなら、残土処理としての古墳築造の技術が誕生したことによって、大規模な開拓が可能になり、そしてその大規模開墾事業の事業規模がだんだん大きくなるにしたがって、古墳も徐々に大型化していった、ということがわかるのです。

ところがその古墳は、大型化したあと、今度は逆に小型化し、最後にはなくなってしまいます。 なぜでしょうか。

これも答えは、実は容易です。 大規模な土地の造成が行われるようになると、目的は田んぼつくりですから、田んぼは水を使いますので、当然、水路も切り開かれます。

そしていったん水路ができてしまえば、次に必要になるのは、洪水対策としての河川の堤防工事です。 つまり、水路つくりのために掘った土を、以前は盛土にしていたのですけれど、こんどは、その土を、水路を使って運搬し、河川の堤防工事に活かすようになっていったのです。 こうなると、大量な土が必要になりますから、こんどは、盛土(古墳)どころか、山を切り崩して、そこから河川を使って土を運んでくる、といった技術まで生まれてきます。 そしてそうした技術がどんどん進化することで、気がつけば、東京の江戸川や、玉川上水、あるいは神田川のような人造河川さえも築かれるようになっていくわけです。

要するに、土地を開梱した際の残土が、水路が開かれることによって、堤防工事や護岸工事に使われるようになり、結果として、古墳が必要なくなった。 だから、古墳はだんだんに小さくなったし、最後にはなくなってしまったのです。