「鉄」を軸に古代史を読む~鉄を運ぶために結束した倭人

「鉄」を軸に古代史を読む~鉄を運ぶために結束した倭人

弥生時代朝鮮半島から渡来人によって、稲作が青銅器と鉄器とともに伝えられた時代」と我々は教えられてきた。最近、これが通説ではなくなりつつある。 稲作は中国から、鉄も渡来人ではなく、倭人が運んできた。 弥生時代の稲作と同様、鉄は九州に伝わってから、それから東に倭人によって運ばれたと言われてきた。途中、中国地方で加工されているのはまだわかるが、九州から運ばれていない筈の鉄器や高度な技術が丹後や北陸にある。どうも、「鉄路」が他にもあったと考えるのが自然であろう。

「鉄」を軸に古代史を紐解いていくと、

倭人」とは何か?

倭 国大乱による社会変革と日本の古代の活力ある国家像は何であったか?

古墳時代前方後円墳が何の目的でこれだけ作られたのか?

違った切り口でこれらの疑問を解消していくことができる。

これから数回にわたって「鉄」を切り口に古代史のさまざまな謎に挑戦していきたいと思う。

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以下、長野正孝著「古代史の謎は「鉄」で解ける」を引用しながら展開していきます。

■鉄を運ぶために生まれてきた海洋民族「倭人

倭国」は日本だと思われがちだが、実は定かではない。「論衡」や「山海経」で書かれた遼東半島の倭と「後漢書」の楽浪郡を挟んで反対側で活動する倭は距離「が離れすぎているが、中国から見れば一緒である。1世紀頃の中国人の倭に対する認識は、遼東半島以遠の、鉄の交易と漁業に従事していた人種としか見ていない。

港津を繫ぎ交易をする「倭」という民族が朝鮮半島に存在した事実は文献により明らかだが、一つの民族かどうかは疑いがもたれるところである。 考古学的に見ると、朝鮮半島の影響を強く受けた曽畑式土器が、倭人の生活圏と一致していた倭人は九州、西日本の島嶼部、朝鮮半島西部海域から遼東半島まで活躍していた海洋民族だったのである。

九州の鉄の遺跡で見ると、糸島平野の三雲南小路、平原などが鉄製品の交易の出発点であるといえる。私はこの倭人は同じ人種ではなく、日本海を渡る知恵と技能を身に着けた仲間たちで、海で助け合いをすることが宿命づけられた海洋民族ではないかと考える。 海を渡り、モノを運び、交易をする行為は、人間の大脳新皮質に、常に新しい情報を提供し、天候、潮の流れ、船の技術、体力の情報、人間関係など絶えず総合的に判断し行動する民族であり、そのふるまいを子孫や係累に伝えることで組織として進化していった。 したがって、五世紀頃まで彼らに首都や王の都という概念は無かった。群雄割拠でそれを結ぶ交易こそが倭国」の実態だったと考えられる。

倭人はなぜ中国に朝貢し続けたのか?

中国の多くの史書には朝貢したとあるだけで、なぜ来たか理由が書かれていない。 時代背景から推測すると、倭人が鉄の交易の莫大な利益を生むために、中国にその交易の権利を守ってもらうのがその目的だろう。 朝鮮半島で鉄づくりが始まってから三百年経った紀元57年に、有名な「倭の奴国の王の金印」が授けられたことが「後漢書」に期されているが金印の意味するところは何であったのか。 紀元25年に漢が建国されて約30年、楽浪郡高句麗の襲撃を受けてから10年後で、高句麗はこの時期、さらに力を増強しつつあった。光武帝は奴国を味方につけたがったが故に厚遇したと考える。高句麗から圧力をかけられてなお、多くの船で帝都洛陽に来た倭人の交易ネットワークの強靭さに驚いたのではなかろうか。奴国だけでなく、東夷の遊牧民の雄、扶余にも令を尽くしている。

 ■日本列島は水世界

弥生時代は寒冷化が進んだ小氷河期であった。海の水は急速に沖に引き始めていた海退期で、現在ある全ての都市が水底から浮かびあがり始めた時期で、川と海を結ぶ「水世界」であった。 地球の海水面は約1万9千年前から気候変動などで上昇、下降を繰り返し、日本では一番温暖化が進んだ縄文時代から弥生時代に移る頃の我が国の海水面は、現在より数メートルは高く、沿岸主要都市は海の中で、沖積平野の形成も進んでいなかった。 この時代、弥生人は、遺跡から見る限り洪水や高波を受けやすい大きな川や外洋を避け、谷筋の水路から水を引き、その周辺にはクリ、カシ、クワなどの樹を植え、いろいろなものを食べて生活していた。平野は海の底で国土全体が水世界であり、山地を開墾する灌漑技術はまだ持っていなかった。 古墳が少し高い土盛りになっているのは、水世界の中で、絶えず発生する洪水から避難するためでもあった。 関東平野濃尾平野大阪市街地は言うに及ばず現在の平野部分は全て海の底で、船でしか旅ができない状態だった。 陸化が進み始めた潟や湖でも、水際を追いかけ集落も移動した。すなわち、瀬戸内海から当時、時代によって河内潟と呼ばれた河内湖から、比較的簡単に船で琵琶湖や奈良まで移動することができた。淀川水系から琵琶湖まで、大和側経由で当時は奈良盆地まで到達できた

このような地理的状況から、倭人は現在の内陸部にまでその交易の足を延ばすことが可能であり、日本列島様々な地に鉄がもたらされた