始原の言語・日本語の可能性~(5) 母音が作り出す感性

始原の言語・日本語の可能性~(5) 母音が作り出す感性

日本語は、実体(対象)と発音が一致した美しい言語。その音を発する時の口腔内感覚→発音体感が、それが指し示す対象(実態)の様子と密接に関わっている。
前回までK、S、T、、、子音の発音体感について、黒川氏の見事な分析を展開してきました。
実体と発音が一致している美しい日本語(カ行、サ行、タ行の分析)
2重母音が作り出すやわらぎの意識(ヤ行、ワ行の分析)
ラ行(R)は哲学の響き/ナ行(N)は抱擁の感覚/ハ行(H)は熱さをあらわす
いよいよ今回は、日本語は母音言語と呼ばれる、その「母音」の発音体感について分析が展開されます。
以下、囲み部分は、黒川伊保子氏「日本語はなぜ美しいのか」より引用。

ことばの発音体感は、潜在意識に、ある印象を作り出す。
その印象の質は、K、S、Tなどの音素単位の発音構造に依存していることを、前章までに理解していただけたと思う。
ことばの音を構成する音素は、大きく子音と母音の2つに分類することができる。実は、この子音と母音とでは潜在的な印象を作り上げる際の役割が違うのである。
【子音が作り出す感性】
子音は、息を制動して出す音、すなわち息の流れを邪魔することによって出すのが特徴の音素群である。喉で息を溜めて「発射」させるのがKとG、舌に息を孕ませて弾き出すのがTとD、唇の破裂音がPとB、息を喉壁でこするとH、上あごにすべらせて歯茎でこするとSやZになる。、、、、、、、(中略)
このように息を制動する方法によって、発音の体感はかなり違う。物体を破裂させるのか、すべらせるかでは、見た目も感触も音も違う。(中略)ことばの発音体感の質、すなわち、口腔内で起こる力の質は、発音時の「息の邪魔のしかた」によって作られる。つまり、子音が、その主な担い手だ。

 【母音が作り出す感性】
これに対し、その力が、前に向かって強く出るのか、奥に退くのか、開放感を伴うのか、こもるのか、包み込むのかなど、三次元イメージを作り出すのか母音である。
こうして、ことばの音のうち、子音が質感を、母音が3次元イメージ(動きを伴う空間イメージ)を作り出して、ことばの全体イメージが出来上がっているのだ。
たとえば、上あごを舌で撫で上げるために、強い親密感を作り出すN音だが、高く開放的なaとの組合せナ(「そうだよな」)と、低くおもねったeとの組合せネ(「そうだよね」)では、親密感のイメージが随分違う。これこそが、母音のaとeの作り出す3次元イメージの違いなのである。
ことばのイメージを語るとき、どうしても子音の質感が前面に出やすいが、母音の作り出すものがたりは無視できない。
アサカはa→a→aの母音の流れで、高らかに明るい女性名だが、アサコは(a→a→O)になると落ち着いた大人の印象になり、アサミ(a→a→i)になるとちゃっかりした子供っぽさが漂う。「うちには娘が3人いて、ミカ、ミキ、ミクという名前なんだ」と言われたら、なんとなく、ミカは仕切り屋の長女、ミキは個性的な次女、ミクは内気な末娘のような気がしませんか。この「なんとなく」は、語尾の母音の違いだけで生まれているのである。
【母音の特徴】
さて、50音の縦の骨格をなす母音について、もう少し考察してみよう。母音は息を制動せずに、声帯振動だけで出す、自然体の発生音である。伸びをすれば自然に「あー」という声が出る。痛みに耐えるときには、自然に「うー」と唸っている。勢いをつけるときは。「えいっ」、のけぞるときは「えー」である。偉大なものに感銘したら、思わず「おー」と声が出る。
%E3%81%9B%E3%81%9B%E3%82%89%E3%81%8E%E3%81%AE%E6%A3%AE%5B1%5D.jpg
また、自然体で発生される母音は、音響波形的にも自然の音に似ている。例えば、木の葉がカサコソという音、小川のせせらぎ、風の音などである。自然物は、機械で整形したようなつるんとした形はしておらず、表面が不規則にでこぼこしているので、音が鳴るときも、いろんな方向への音のベクトルが交じり合って聞こえる。物性的には、ある一定以上の揺らぎが存在するのである。声帯も、当然、自然物なので、緊張させずに出す素の声帯音である母音もその特徴を有している。
自然体で素朴、ドメスティック(私的、内的、家庭的)な印象があり、ふと心を開かせる音。これが、母音の感性的な特徴になる。
【母音と身体性】
心を無防備にする母音には、もう1つ身体性と深く結びついているという特徴がある。先に述べたが、渋谷のセンター街で、深夜に、家にいるはずの妻を見かけたら、誰でも「あっ」驚いて立ち止まるだろう。
このとき、身体は、脳天からつられたような状態になって、余分な力がどこにも入っていない、完璧なニュートラルバランスを厳しく要求されるが、実際、ワルツのレッスンのときにはなかなかこのバランスはとれないものである。なのに、「深夜の渋谷で妻と遭遇したら、」ワルツのターンなんて考えられないような姿勢の悪いおじ様でも、すっと背筋が伸びる。これが、口腔部を高々と上げる「あっ」の威力である。
口腔部は、すぐ後ろの小脳に身体感覚を直截に伝える、このため、入力情報はかなり大々的に伝わるのだ。足なら1センチなんて誤差の範囲だが、口腔部の1センチは大きい。銜えるタバコの直径が今より1センチ太くなったら、まるで丸太を銜えたように感じるはずである。
さて、渋谷で妻を見かけた夫の話である。夫婦関係が健全なら、夫は近づいて声をかけようとするだろう。
このとき、「あっ」で吊られたようになっている身体の呪縛をほどくには、ほっと力を抜くオと、前に出るイの組合せ「おい」が一番効く。出だしの瞬発力が要求されるシーンなら「いけっ」もいい。しかしまあ、容疑者を見つけた刑事じゃないんだから、ふつうは「おい」だろう・「おい、きみ」でI音を追加するとさらに体が前に出て、歩くのが楽である。
しかし、、妻の隣に若い男がいたら、夫は「えっ」とのけぞって、再び立ち止るに違いない。エは、発音点が前方にありながら、舌を平たくして、下奥に引き込むようにして出す音だ。このため「広々と遠大な距離感」を感じさせ、前に出ようとしたのに、何かのトラブルでのけぞる感覚に最もよく似合う。

以上、囲み部分は黒川伊保子氏「日本語はなぜ美しいか」からの引用させていただきました。今回は母音(あ、い、う、え、お)の発音体感について展開しました。母音は自然界に豊かに存在する音で心開かれる音。そして、ミカ、ミキ、ミクの例に見られるようにア、イ、ウ、それぞれの母音には固有の「発音体感」があり、実体(対象)や主体の状況と、密接に結びついていることが示されました。
渋谷センター街で、妻を見かけてしまった夫の「あっ」「おいっ」「えっ」の例でも見事にそれぞれの発音体感が示されています。

次回は、引き続き母音の発音体感を扱いつつ、母音を豊かに含む日本語の特性へと迫って行きます。よろしくお願いします。