日本の源流を東北に見る(3)~水稲を拒否した縄文人

日本の源流を東北に見る(3)~水稲を拒否した縄文人

こんにちわちわわです
今回は東北の産業としての農業に焦点を当てる前に日本における農業の変遷について押さえていこうと思います。
イネ科植物が枯れたとき、有機物は分解されて土に還りますが、珪酸体はガラス質であるため腐ることなく、そのまま1万年でも土の中に残留することになります。その珪酸体をプラントオパールと呼び、植物の種類によってその形状が異なるため、土中から検出されるプラントホールを分析すれば、その植物の属や種を特定することが出来ます。%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%AA%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB.jpg
1999年時点でプラントホールが出土した遺跡は表の31例に及んでいます。
さらにその後2005年には、岡山県の難崎町にある彦崎貝塚の縄文前期(約6000年前)の地層から、イネのプラントオパールが大量に見つかりました。その量は土1g当り2000~3000個という大量のもので、上表の縄文前期の遺跡、朝寝鼻貝塚の数千倍の規模であり、これは、単にイネが何らかの理由で持ち込まれたというレベルではなく、まさに栽培されていたというレベルです。
世界最古級の稲作遺跡である長江下流の河姆渡遺跡から、わずか600年でこの列島にイネが伝播したことになります。
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縄文時代の稲の栽培は果たして農業なのか?】
プラントオパールの検出状況から見ると、かなり活発な稲作が推測できるのに、不思議なことに考古学的な直接な証拠、たとえば、耕作の跡や、それに伴う道具類が出てこないのも事実です。
これは何故でしょうか?
上表の31例の遺跡のある地形を見てみると
  沖積低地       9例(29%)
  大地及びその縁辺  18例(58%)
  山間・山麓      4例(13%)
これで見ると水田に向きそうな沖積低地は30%足らずしかありません。さらに、イネに加え、アワ、ヒエなどの大量の雑穀類も同時に検出されており、縄文のイネは主穀物ではなく、雑穀のなかのひとつとして位置づけられ、かつ、水田稲作ではなく、陸稲の畑作農耕が営まれていたと推定されます。
稲の品種はDNA分析法で熱帯ジャポニカ米であることが証明され、この品種は江南の河拇渡遺跡から出土する品種と一致しており、中国江南地方から直接渡来したと考えるのが無理がないように思います。
さらに遺跡の所在地を見ていくと、岡山、有明海、その他に分類できます。
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   岡山ブロック   9箇所(30%)
   有明海ブロック  12箇所(40%)
   その他地域    9箇所(30%)
驚くべきことに、岡山、有明海ブロックで全体の70%を占めることがわかります。
この内海に面した両ブロックの地形は、長江下流域の地形と相通じる所があり、農耕技術を携えた江南人が、縄文の前期の段階から定住し、縄文人と融合したのではないかと考えられます。後に伝播する水田稲作を受け入れる素地がこれらの地には既に形成されていたものと思われます。
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但し、この稲作は低湿地に種籾を撒くだけの粗放稲作であり、藤尾信一郎「生業からみた縄文から弥生」によると、生業としては、あくまで狩猟・漁労・採集であり、作物の管理を伴わない粗放栽培は農業の範疇に入らないとしています。
水田稲作を拒否した縄文人
前述した、江南の河姆渡遺跡では、数十センチの厚さに堆積した籾と、大量の高床式建物の柱群跡が出土し、本格的水田稲作が行われていたことが証明されています。
この河姆渡遺跡の出土品と、日本の鳥浜貝塚福井県若桜町、12000年~5000年前)や、三内丸山の遺物には、いろんな共通性が見出されています。
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こうして見ると、河姆渡村を含む江南地方から縄文前期(6000年前)に直接文化が伝播したと考えてもさしつかえないでしょう。
しかし、長江文明の基盤であった水田稲作を受け入れることはありませんでした。
それは何故でしょうか?
安田喜憲氏は、次の4点を理由に挙げています。
1、長江流域からやってきた人の数が少なかった。
2、稲作農耕を営まなくても縄文人は狩猟・漁労・採集生活で豊かな暮らしを実現しており、手間のかかる稲作農耕を行う必要がなかった。
3、縄文社会は、貧富の差のない社会であり、稲作という初期農耕社会は生産性が低く、収量不安定で、全ての人々が豊かで平等な生活を保障するものではなかった。
4、イネを栽培するには灌漑や水田開発など、多人数での共同作業が必要であり、必然的にリーダー層と被支配者層という階層分化を生む。さらに大きく天候に左右されるため、豊穣儀礼と、それに伴う生贄というような犠牲を伴う。循環と再生を基本とする穏やかな社会で暮らす縄文人には、それらを受け入れる素地がなかった。
大筋は的を得ていると思いますが、根本的理由は集団統合様式の違いにあったように思います、
すなわち、呪術的リーダーの意見を全員が賛同することで集団を統合する共認原理の社会では、自然外圧をそのまま受け入れる狩猟・漁労・採集といった生産様式が適しており、序列で単純労働を強い、自然外圧を技術で克服せんとする水田稲作という生産様式は受け入れられなかったと考えます