アンデス・マヤ2大文明の“伝え”5~人類は自然の一部であり循環の中に生きてきた~

アンデス・マヤ2大文明の“伝え”5~人類は自然の一部であり循環の中に生きてきた~

アンデス・マヤ2大文明の“伝え”4では「アンデスの人々は、根底的に、自然の摂理にそって集団を維持し、利器や技術に過剰に頼ることを避け、身体能力と観念機能をフルに使っていた。」ことが示されました。今回はその産物である「神殿」について追求してみたいと思います。

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太陽の神殿 月の神殿


アンデス文明は過去に繁栄した文明であり、物質的存在としての文明は壮大な遺跡を残すのみで既にありません。ですが、その精神的伝統は強い影響力を持ち続け、現在でも形を変えて存在しています。
これはアンデス先住民族に伝わる古代の伝統(アンデスシャーマニズム)、いわゆる先住民族自身の間でアンデスの宇宙観」と呼ばれているものです。

上記のマチュピチュの遺跡やナスカの地上絵などアンデスには気になる遺跡も多くありますが、この宇宙観・精神的伝統を追求していけば遺跡・神殿の目的が見えてくるかも知れませんね♪

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アンデス山岳信仰と精神

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アンデス山脈の最高峰アコンカグア
K’s Collection
『南米最高峰 アコンカグア遠征1989』
より


アンデスは世界最大の山岳地域であり、ペルー・ボリビアと南北2500キロ、東西数百キロに亘り、そこに存在する文化の多様性、伝統の地域性は大きいと思われがちですが、実態は非常に顕著な共通性、文化の同質性があります。
それはアンデスの人々にとってアンデス山脈山岳信仰の象徴であることです。これには2つの意味があり、その1つがアンデス山脈の巨大さ、6000mを超える霊峰が集中している地域に山の神信仰、山岳信仰が生まれるのは当然と言えます。
もう一つはアンデス山地の大半が高原であり、自然の恵みに富み、そこでは農業が営まれ、農作物は違えど高地であっても低地と類似した環境になっています。
こうした一帯にアンデスシャーマニズムが存在しており、自然の厳しさと豊かさを併せ持つ思想なのです。

◆農耕・土器より先行した神殿建設

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ワタ製の漁網…ラス・アルダス遺跡の出土品
『東京大学総合研究博物館』
より


アンデスと言うと高原をイメージしがちですが、アンデス最古級の神殿は海岸地帯(コスタ)で多く確認されています。そこでは魚の骨が大量に出土していることからも漁撈に依存していたと考えられます。また、当時、土器は出土していませんが、農耕は確実に行われていたようです。農耕と言ってもそれを食していた訳ではなく、主な栽培物は漁撈の道具をつくるためのワタやヒョウタンであったようです。
旧大陸ではムギやコメの栽培、メソアメリカではトウモロコシ栽培を基盤に文明が発生した。そして農耕社会に伴う土器は、文明の指標が現れる前に、必ず製作が始まっているべきだと考えられていた。ところがコトシュ遺跡では、先に建設されていた。土器がない時代ということは農耕による食料生産がそれほど進んでいないということを示しているが、それにも関わらずアンデス文明が成立したことになる。コトシュの発見は決して間違いや例外ではなく、その後多くの遺跡で、先土器時代の神殿が確認された。

「古代メソアメリカ・アンデス文明への誘い」より文明形成には安定した食料基盤が必要であると思われがちですが、インカ帝国で主食だったジャガイモやトウモロコシなどが、アンデス文明の始まりの時代に集約的に栽培されていた証拠はなく、漁撈・採取に依存した生産活動を行っていたようです。

つまり、神殿は安定した食料基盤(土器や農耕)より先行して建設されたことになります。古代アンデス人にしてみれば、神殿とは土器や農耕という生産様式よりも重要な存在だったのです。

では、神殿とはどのような存在だったのでしょうか?

◆地域共同体の基盤であった神殿
旧大陸での神殿というと国王の権力の象徴として存在しており、煌びやかで各地から装飾品や農産物が集中しますが、アンデスの神殿の趣はいくぶん違っているようです。

前3000年頃までに最古の神殿が登場し、その後アンデス各地に神殿建設が広まり、場所を移しつつそれは継続していった。また、神殿は一度建てたら終わりではなく、何度も建て替え、増築がおこなわれた。神殿の設計図、またそこでおこなわれる儀礼活動も時代によって変化していった。
(中略)
ディテイルにおいて差異はあるものの、神殿を建設するという点は形成期に共通する。世界の他の地域でも神殿はあるが、アンデスの場合は複数の地域で諸神殿が併存し、何度も建て直された点、また神殿を中心とした儀礼活動以外に、社会のまとまりを示す証拠がほとんどない点が特徴である。集落や共同墓地などが見つかっておらず、大規模な灌潮水路を用い食料生産を集約的におこなっていた証拠もない。町をつくらず、周囲にばらばらに住んでいた人が儀礼のときだけ神殿に集まってきたようだ。つまり神殿に社会活動の大部分が集約されているような社会であった。
(中略)
アンデス形成期の社会は国と呼べるような社会ではない。王様はおらず、神官集団が神殿での祭祀活動を指揮していた。世界のどの文明でも政治と宗教は結びついていたが、アンデスは宗教的側面が非常に強く、また大規模な神殿を建設しつつも王がいない状態が2000年以上も続いたことに特徴がある。

「古代メソアメリカ・アンデス文明への誘い」よ 

つまり、アンデスの場合、王様が居なくとも各集団が儀礼のために集まったとされる神殿は、旧大陸でみる神殿とは大きく性質が異なり、各集団が共同体の要素を色濃く残していました。
神殿は自然の恵みに対して感謝する場、あるいは各成員が繋がり統合する場=共同体の紐帯として機能していたと思われます。つまり、神殿そのものも重要でしたが、それ以上に共同体の紐帯としての重要性を理解していたからこそ、聖なる地・場所として神殿は幾度となく手が加えられたのではないでしょうか。

◆自然の循環に適応した儀礼(メサ)の本質

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メサ「光の祭壇」/アンデスの精神世界より


アンデスシャーマニズムの本質を理解する重要なカギは、神殿は行われていた儀礼の体系にあります。そして儀礼の中心を成すのがメサです。メサは重要な精霊に捧げる供物ですが、ただの供物ではありません。シンボリズムを込めた供物、つまり大自然の創造主に宛てた人間のメッセージ、自然と対話する具体的な手段であったのです。
メサは人間と自然をつなぐ結節点である。この結節点なくして人間は幸福に生きることができない。何故なら人間は自然から疎外されるからである。自然から疎外された人間は、自然の摂理を理解することなく、目的もなくただ、欲望に身を任せて生きる。その結果が意味するものは破滅以外の何ものでもない。(中略)厳しい自然に生きた古代アンデス人は自然の恵みが有限であることを知っていた。自然は人間に多大な恩恵を与えてくれるが、しかし人間はその恩恵に無条件に甘えてはならない。何故ならアンデスの自然はエデンの園ではないからだ。恩恵を与えてくれる自然に感謝し、敬い、かつそれに見合う償いをする必要がある。これが「パゴ」、つまり自然への支払いである。メサは「パゴ」の象徴的行為である。 

アンデスの人々にとってみれば旱魃や洪水、疫病などは、メサが捧げられなかったことや自らが撒いた種によって引き起こされた悲劇なのです。つまり、メサの本質は世界・自然を有限なものと捉え、自然からの恵は自然へと還すという物質の循環、あるいは生命圏として理解する方法であり、古代人が身をもって獲得した叡智だったと言えます。



◆まとめ
古代人はアンデス山脈という自然の厳しさと豊かさを併せ持つ地域であったが故に、自然に対する追求・同化をとことん実践し、世界・自然を有限なものと捉え、自然の摂理とは物質を循環させることと唯一の統合軸と捉えていました。
従って、その物質を循環させる場=地域共同体の基盤であった神殿建設を先行させていったのではないでしょうか。つまり、「自然の摂理」の象形化=『神殿』であると考えられます。

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【ティワナク遺跡 復元想像図】
ボリビア日系協会連合会
「ボリビアの遺跡と文化」
より

また、文明レベルの高さを考えると不思議なことですが、古代アンデス文明には縄文人同様に文字が存在していません。古代アンデス人は皆の思いをヴィジュアルに表現してきました。その無数の表象、シンボルが残されており、その代表的なもののひとつが今回扱った神殿なのです。

アンデスの十字架(ティワナク遺跡等)はその最もよい例で、階段状の十字架、あるいはチャカーナと呼ばれるこの表象は古代人の世界観・宇宙観を表しており、そこに存在するシンボリズムは複雑かつ重層的なものとなっています。
なお、この統合様式の基盤を成すアンデスの宇宙観」については別途、扱ってみたいと思います。

[参考図書]
アンデス・シャーマンとの対話:実末 克義/現代書館
古代メソアメリカ・アンデス文明への誘い
 :杉山 三郎・嘉幡 茂・渡部 森哉/風媒社