弥生時代再考(4) 出雲とは縄文である!!

弥生時代再考(4) 出雲とは縄文である!!

出雲は渡来人と縄文人の合流地
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出雲地域は渡来人が入り込む前は、寒冷化に伴い東北から南下してきた縄文人が相当量住んでいました。
今も出雲地方にのみ東北弁が残っているのもそのためなのです。出雲の地は漁労採集を生業とする縄文人にとって安住の地となります。当然かつて東北でそうしたように、出雲を拠点に縄文(交易)ネットワークを形成していたであろうとは容易に想像できます。
そこに紀元前5世紀から渡来人が入り込んできます。地形を見ればわかりますが、朝鮮半島からは北九州を除けば最も近く、中海という良港を持つ出雲は必然的に、海を渡る渡来人が早くから辿り付く事になります。前5世紀、越滅亡に伴い朝鮮半島弁韓と出雲に別れて渡来したのが越人です。越人は既に呉人が先行して渡来して集落を形成していた北九州を避け、出雲を拠点に日本海側に広がり北は新潟まで辿りつきます。それらの地域は現在でも越の国と呼ばれており、この越の国の基盤が後の出雲の国づくりの基盤となるのです。
つまり、北九州は沖積平野によってきできた平地が広く、そこに渡来人がコロニーを作る事は容易でしたが、出雲に入り込んだ越人は、既存の縄文人ネットワークを上手く利用させてもらうためにも、縄文人集落の間にどっぷり入り込まざるを得えなかったのです。
そこでできあがったのが大国主命信仰です
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全国に広がる大国主命信仰
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大国主命で有名な神話として『因幡の白兎』があります。優しく、誠実な大国主命が兄弟たちからの迫害や無理難題などを克服して幸せになるさまは、庶民を大いに励ましたことでしょう。また、後の大和朝廷が作った(神が天から降りてきて人になるという)天孫降臨とは異なり、大国主命はイノシシを追ったり、多くの女神を訪れ求婚したり、たくさんの鋤を用いて国つくりをしたりと平和な開拓神の姿をしています。大国主命は、首長クラスは当然として、広く庶民にまで支持されたとても親しみ深い神だったのです。
出雲でなぜこのような信仰が誕生したのでしょうか?
先ほども述べましたように、これは出雲が縄文晩期から既に多くの縄文人の居住地になっていた事と関連します。同様に弥生文化が発達した北九州、大和、吉備での勢力は縄文人が居住していない地域を選んで縄文文化と住み分けた形で登場していますが、出雲においては異なっていました。多くの縄文人の集落に渡来人が入り込んだのです。
従って天孫降臨天照神話が全くの渡来人信仰であるのに対して、動物や自然との対話を神話に組み込んだ出雲神話大国主命信仰は縄文人と渡来人との合作でもあり、少数の渡来人が縄文人の集団に融合するために作り出したオリジナルであるとも言えましょう。
この大国主命信仰は出雲の繁栄と共に全国に広がっていきます。

東は千葉県、西は宮崎、日本海側は秋田から九州、もちろん近畿、四国にも拡大した。この拡大は大和朝廷支配後も続き、天孫降臨の異文化信仰よりはるかに馴染みやすく庶民が受け入れやすい大国主命信仰が縄文人を従える首長に受け入れやすかった事を物語っている。(「古代出雲王国の謎」武光誠氏より)

出雲はまた銅の一大産地でもありましたし、中国や伽耶、北九州などとの交易の拠点でもありました。

出雲は日本では有数の銅の生産地で、自然銅が塊で露出していたと思われる。それを用いて、出雲の首長たちは独自に金属器文化を形成し、弥生後期には日本有数の青銅器生産地になっていく。(「古代出雲王国の謎」武光誠氏より)

弥生時代中期、出雲王国と呼ばれるほど出雲は人口が集中していましたが、それだけでなく、日本各地に出雲の銅製品、銅鐸が拡大し、併せて大国主命信仰も広がっていた事を示しています。文字通り出雲とは弥生時代前期には北九州と相並ぶ一大拠点だったのです。
北九州は縄文人との混融が少なく伽耶の衰弱と共に滅亡していきましたが、出雲は土着の縄文人と確実に混融しており、影響力と言う点でははるかに強いものでした。
高句麗襲来
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この出雲に突然襲来したのが高句麗です。3世紀半、巨大墳墓である四隅突出墓が登場し、その後33基の前方後方墳が登場しますが、このことはそれまでの勢力である出雲族高句麗に支配されたことを示しています。(参考『弥生時代再考(2)渡来人が成した金属信仰~青銅に神が宿る』
高句麗の目的は朝鮮半島統一であり、出雲を拠点にして新羅伽耶の逃げ場を押さえ込み、また日本を支配下に置く事でそこを拠点に半島を攻撃することだったのでしょう。
高句麗はそれまでの土着系出雲族をそのまま上から支配しますが、渡来系出雲族は大和に避難します。
出雲族の大和への移動
高句麗襲来で慌てた大和は、時の国主であり最大の影響力を持っていた出雲の首長を招き、統合力を高めることを考えたことでしょう。もともと大和勢力は北九州や出雲を先に取られていたので仕方なく大和に入り込んだ経緯があります。当然、銅や鉄の資源産地でもあり、交易拠点でもある出雲の支配権を虎視眈々と狙っていたに違いありません。大和は高句麗に対抗して次々と古墳を築造し、弥生人を取り込んでいきますが、その際にも出雲の影響力、神通力は必要な力だったのです。大和に大国主命を祀る大神神社を建立、三輪山を背景に出雲神話を以って大衆の共認統合を図ります。(参考『弥生時代再考(3) 古墳の謎を一挙解明』
後に百済から応神天皇を招きいれ、天孫降臨神話を国の骨格にしていく大和ですが、出雲を否定する事はできず、国譲りという形で神話形態の中に組み込んでいきます。伊勢神宮出雲大社から信仰を譲り受けたとする体系(支配権の委譲)はこの時に出来上がったのです。
大和は信仰とその成果である古墳により磐石な基盤を作り、高句麗畿内進出を阻みます。
高句麗勢力は出雲の拠点は維持するものの、中心勢力は東国に移動。やがて高句麗本体の混乱により、その東国も大和勢力に占領されてしまいます。
そして高句麗滅亡を迎える7世紀に出雲族も出雲の地を取り戻すことになるのです。
スサノオ神話とは
出雲には大国主命信仰と重ねてスサノオ神話があります。暴れん坊スサノオが追放され、アマテラスが国を治めたという逸話です。しかしこのスサノオ、その実態は諸説があり実在したかどうかもわかっていません。私達はこのシリーズを追いかける中でスサノオとは高句麗の象徴であり、実在していないのではないかと思うようになりました。
暴れん坊の行為としての書かれている、灌漑水路の破壊や馬の皮を剥いで機織部屋に放り込むといった行為は、実はスサノオが弥生(稲作)の民ではなく騎馬遊牧民の象徴だからではないでしょうか。そう考えますと、騎馬遊牧民であり武力に強かった高句麗とも符合しますし、高句麗が出雲を結局譲り渡した結末とも一致するのです。
出雲大社はなぜ巨大だったのか
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大和朝廷が出雲を取り返したのが高句麗滅亡の直前だすれば7世紀半頃のことです。出雲大社の巨大神殿が構築されたのが670年ごろで、斉明天皇の時代と言われています。高句麗滅亡が668年。非常に近しいですよね。出雲大社高句麗への威嚇であり、見張り台だったのではないでしょうか。海からでも見える高さに建て、出雲の地は大和が押さえたことを誇示したのでしょう。
出雲とは縄文である
改めて出雲とは何かを考えてみたいと思います。
出雲は渡来人の最大の拠点でありましたが、そこで作られたものは縄文人と渡来人の合作である大国主命信仰でした。これが象徴されるように、渡来人が支配する際に必ず図ったのが縄文人との共認形成であり、出雲とはそれを真っ先に実現し、その後の日本に広げて行った本丸ではないでしょうか?だからこそ、大和は出雲をないがしろにできなかったのです。これは、武力だけでの統合にはそぐわなかった日本ならではであり、それ以後も、日本の「為政者の大衆への配慮」という点において引き継がれているようにも思うのです。
渡来人と言えども、縄文人との共認を無視できなかった。だから、出雲を祭りあげる必要がありました。それほど、縄文人の共認形成力、地場と結びついたネットワークは強力で、それをないがしろにして支配は成立しなかったのです。