伽耶を知れば古代日本が見える(2)~『伽耶』とは最後まで抵抗した倭人諸国

伽耶を知れば古代日本が見える(2)~『伽耶』とは最後まで抵抗した倭人諸国

みなさんこんにちは。
シリーズ【伽耶を知れば古代日本が見える】は第3回目となりました。
前回は「古事記日本書紀がついた嘘とは」を扱いました。私達が学校の歴史で学んだ事と、現実に起こってきた事とは随分かけ離れていましたね。昔の紙幣に印刷されていた聖徳太子が架空の人物だったのも驚きでした。
日本の歴史の事実を明らかにした時、どんな現実がみえてくるのでしょうか?楽しみなのとちょっと怖い気もします。
さて、今回はシリーズ第3回目という事で伽耶とは最後まで抵抗した倭人諸国】を扱います。
みなさんは「倭人」と聞くとどのような人を想像しますか?
倭人」では魏志倭人伝などが有名ですが、一般的には「倭の国」=「ヤマトの国」、「倭人
=「日本人の祖先」という事を想像されるのでは?と思います。
ところが、実際、調べてみると事実はそうでは無いようです。ここも歴史の教科書とは違いますね。今回はこの「倭」というのをキーワードに『伽耶』とは何か?に迫ってみたいと思います。
みなさんいつも応援ありがとうございます。
■「倭の国」とはどこにあるのか?
「倭」とはどこにあるのかについて、中国の史書を参考に想定していきたいと思います。
古事記日本書紀はイマイチ参考にならなそうなので・・・)
当時の史書と、その時の地図を重ね合わせていくと何かヒントがあるかもしれません。
①BC6世紀の「倭」
中国の史書の中で初めて「倭」という語が現れるのは、紀元前6世紀頃作られた『山海経』という書物です。そこには「蓋は燕(北京が都の国)の南、倭の北にあり、倭は燕に属している」と書かれています。
また、『三国史記』『高句麗本記』には高句麗王の弟が倭山で狩猟した旨が書かれています。
つまり「倭」とは中国から見て、朝鮮半島の中部、すなわち現在のソウル付近より南側の辺境の地を「倭」と呼んでいた事がわかります。
よってBC6世紀頃の「倭」の範囲は下のようになります。
「倭」というのは今の北朝鮮・韓国・日本がスッポリと入ってかなり広域だった事がわかります。
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②BC3~2世紀の「倭」
この時期の事が書かれている書物に『魏志〈韓伝〉』があります。
ここでは「韓は帯方の南、東西は海を以て限りとなし、南は倭と接す」と書かれています。
帯方とは、二〇四年頃に遼東太守公孫度の子公孫康が、楽浪郡の南部に設置した帯方郡のことで、韓は帯方の南で、東と西とは海をもって限りとし、南は倭と接続するとした倭であることから、「倭」は朝鮮半島南部にあったことになります。
ちなみに、それまで「倭」であった朝鮮半島中部には燕人、衛満に追われて北方から逃れてきた朝鮮の箕氏が王となり「韓」を建国し、倭人を支配していきます。そしてその後、韓は馬韓弁韓辰韓へと分割されていきます。
以上の事を踏まえると、BC2世紀の「倭」の範囲は下のようになります。
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画像はこちらからお借りしました⇒http://www.eonet.ne.jp/~temb/1/wajinden_5.htm
③4~5世紀の「倭」
4世紀初めに中国の羈縻支配が弱まると馬韓辰韓は自立して百済新羅を形成します。
そして②の地図示した「倭」と呼ばれるの場所はそのまま「伽耶」と呼ばれるようになります。
4~5世紀の地図が下のようになります。こちらはわりと馴染みのある地図ですね。
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④6世紀以降
そして6世紀以降は新羅朝鮮半島を統一し、その後は「日本列島」のみが「倭」と呼ばれるようになります。「倭」は701年に国号が日本へ改名され、その後は呼ばれなくなります。
下が6世紀以降の「倭」です。
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伽耶とは最後まで抵抗した倭人諸国
「倭」とは結局何だったのか?そして「伽耶」とは何だったのか?
「倭」と聞くと、それがあたかも国であったように思われがちです。けれども実際は「中国から見て、未だ国となっていない(それらしき支配者がいない)辺境地域」を中国では「倭」と呼んでいた。というのが正確な捉え方のようです。
ちなみに元々『倭の国』という言葉は、古来中国では「野蛮な国」とか「辺境の国」という見下された意味が含まれているそうです。
そして注目すべきは朝鮮半島で、②-1:韓が勢力を拡大した時期、②-2:馬韓辰韓弁韓が勢力を持っていた時期も、その後「伽耶」になっていく地域だけ、支配を受けず「倭」として存在し続けたという点です。
改めて地図を見てください。単純になぜこの小さなエリアだけが支配を受けていないか奇妙な感じがします。そして、このエリアが後に「伽耶」と呼ばれるようになっているのです。
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この事は何を意味するか?
まだ仮説の域を超えませんが「伽耶」という地域は700年もの間、最後の最後まで隣接する強国に抵抗し続け、たくみにの遊牧民の支配から逃れた倭人地域だったと考えられます。
それを可能としたのは山々や大河に囲まれた攻められにくい地域特性と、強国に対抗しうるだけの稲作や鉄器を作り出す文明、さらにそれを結集する集団結束力を持っていたからだったと考えられます。
また、「伽耶」は最後まで連合諸国として存在し、それぞれが自治を行なってたというのも注目に値する点です。
これらの事から朝鮮半島の中では辺境ではなく、先進地域だった可能性すらあります。
伽耶」は6世紀以降、新羅朝鮮半島を統一をきっかけに無くなりますが、その後大量に日本列島に流れ込み、日本の統合階級に君臨していきます。そして「伽耶」時代に培われた独自の統治手法が、その後の日本統治へ大きく影響を与えた事は容易に想像できます。
これは次回以降、伽耶諸国がどのような統治をしていたか?、そして日本の統治にどのように関わっていったかを紐解く事で明らかにしていきたいと思います。