江戸時代は縄文の再生~1.家康が江戸を目指した本当の理由

江戸時代は縄文の再生~1.家康が江戸を目指した本当の理由

江戸は縄文の再来では?を検証すべく、新しく江戸シリーズが始まりました!
今日はその第一回「家康が江戸を目指した本当の理由」です。
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画像はこちらよりお借りしました。
確かに。そう言われれば、なぜなんだろう :roll: ?家康自身は三河の出身ですし、戦国時代は西の京都と大阪が中心でした。天下を取るならそこに幕府を置くのでも良かったような・・・。
江戸に幕府を開いた理由としては、一般的には以下のように言われています。
京都の朝廷の影響から出来る限り逃れるため。
幕府が開かれた当時、徳川家に反逆する可能性があった大大名は島津家・毛利家・前田家・伊達家くらいで、それらの大名の侵略を考えた場合、大阪・名古屋よりも江戸が防衛上適していた。
戦国時代の技術革新で土木技術がすすみ、単なる湿地帯だった武蔵野が有力な穀倉地帯になる見通しがついた。
領地が変わると、家臣も引越しで負担がかさみ、現地で徴収される兵士の忠誠度も低い&これまで忠誠を尽くしてくれた支配民と別れなければならない。ほぼ敵なしだったとは言え、既に基盤のできている江戸から他の地域に拠点を移すことは徳川家にとってやはり大きなリスクだった。
また最近では、水運(経済・流通)の要所としての重要性が取り上げられてもいます。

江戸は中世かあるいはそれ以前から水運の重要なポイントとなる土地であって、ずっと昔から栄えていた場所だと言います。それなのに、鎌倉幕府などが江戸を拠点に選ばなかった理由の方が重要であると言います。その理由として、関東は、(本来の)利根川を境に強く対立する歴史が続いていたため、大きな勢力の根拠地には適さなかったのだと言います。しかし、太田道灌の時代の後、後北条氏の時代には関東は1つの勢力に統合され、ここを根拠地にする安定性ができたと言います。後北条氏は小田原を根拠地にしていましたが、その後で関東に入ってくる家康から見れば、江戸を根拠地として選ぶことは必然だと言います。(こちらより引用させていただきました。)

しかし、東北→関東を扱ってきた縄文チームとしては、果してこれだけなのだろうか :roll: と思ってしまいます。
家康は東日本を組み込むことが天下泰平に繋がることを、直感していたのではないでしょうか?
家康がそう直感したのは、なぜでしょうか?
応援、お願いします!!


円仁→天海→家康と引き継がれた、縄文の心
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円仁       天海       家康
画像はこちらこちらこちらより。
縄文チームは、家康のブレーンであった天海が、東北会津出身であることに着目しました!

江戸時代初期に活躍した天海僧正慈眼大師)は、徳川家康をして、初対面の時、「天海僧正は、人中の仏なり、恨むらくは相識ることの遅かりつるを--」と言わしめたほどの傑僧であった。天海僧正天台宗の僧として将軍家康・秀忠・家光の3代にわたり、ブレーンとして絶対の信頼を受けたばかりではなく、織田信長に焼かれた後の比叡山の復興、川越・喜多院の再興、東照宮の造営、上野・寛永寺の建立などにも深く関わった人物だ。家康の神号「権現」の名付け親ともいわれる。(こちらより引用させたいただきました。)

徳川3代にわたってかなり影響を与えた天海ですが、彼はどういった人物だったのでしょうか?
108歳まで生きたと言われる天海が、家康に長寿の秘訣を問われて答えた言葉に、
気は長く勤めは堅く 色うすく 食細くしてこころ広かれ
というものがあります。
「あせらず気を長く持って、仕事はしっかりこなして、色欲をおさえて、食事は腹八分に、心はゆったり保て」ということです。この教えを守ってか、家康も七十五歳の長寿を保っています。
またエピソードとして、
あるとき、三代将軍・家光の御前で柿をいただいた天海は、食べたあと、その種をフトコロに入れた。家光が「何にするのか」と問うと、「持ち帰って植す」と答えた。家光があきれた様子で「高齢の者には無益のことじゃ」と言うと、「天下国家を治める御方そのような性急なお考えではこまります。いずれこの柿の生長するのをご覧に入れましよう」と答えた。そして数年後、天海がたくさんの柿を献上したところ、家光は「どこの産物か」と聞いた。「これは御前から賜った柿の種が大きくなって実ったものです」と答えると、家光や同席していた者は感嘆しきりだったという。
というものもあります。
これらは一般的には養生訓として知られているものですが、現在見直されている「もったいない」意識に通じる、質素で、真面目、堅実な生き方(贅沢を戒める)を表す教えのように思われます。
では、これほどまでに徳川家に影響力を及ぼした天海の思想はどこから来ているのでしょうか?
天海には明智光秀説を初めとした諸説があるのですが、1536年に東北会津で生まれ(大名の一族だったそうです)、8歳の時父親が暗殺され、11歳で出家、円仁が開いた天台宗(密教)の寺々で(のちには比叡山でも)僧侶として学びます。このころの僧侶は哲学者、総合医のようなもので、天海は薬草にも詳しく(ここは家康と意気投合したところだそうです)、風水などの知識を江戸の街づくりに反映させてもいます。
天海の思想のルーツ円仁。その円仁にみる東北の祖霊信仰
では、天海が学んだ天台宗(密教)とはどのようなものだったのでしょうか?
時代は、東北に天台宗を広めた円仁(奈良時代)にまで遡ります。東北の天台宗は、縄文文化と融合した祖霊信仰に近いものでした。

東北でもっとも風土的発展を遂げた宗教・・・・、それは何といっても円仁の影響を受けた各地の信仰である。恐山がその代表であるが、天台宗といってもそれらは必ずしも統一的なものではなくて、いつに風土的である。円仁に繋がり、台密に繋がり或いは天台宗に繋がっているとしても、おのおの風土的発展を遂げて独自性が強い。それが東北の信仰である。そういう風土的発展を遂げているという前提をよく理解していただくとして、円仁のことについて触れておきたい。
私にいわせれば、円仁が苦労の末、唐からもたらした密教によって、天台宗真言宗を超えた。怨霊や妖怪とのなじみは天台密教の方がいい。いろんな寺をお参りしての私の実感である。天台密教の方が理屈なしにすーと入っていけるように感じる。懐かしみというか親しみを感じるような気がする。祖霊信仰と結びついて独特の変化をしてきているのではないか。そうだとすれば、東北において、天台密教が祖霊信仰を土壌として人々の心の中に深く浸透していったことは十分理解できるであろう。東北のように縄文文化の色濃いところでは、もともと、天台密教の方が適していたのではないかと思われるのである。円仁の登場というものを私は歴史的必然性だと思わざるをえない。
東北の寺では、円仁の開基と伝えているものは109寺もあって、中興とするものが22寺、円仁に関係する仏像などを有している寺が169寺もある。他の地方を圧倒している。これを見ても円仁の東北との関わり合いの深さを知ることができる。(こちらより引用させていただきました。)

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画像はこちらより。
天海の残した教えは、縄文文化(祖霊信仰)と融合した円仁の教えを受け継いでいると思われます。
家康と天海との出会いは、1590年に家康が江戸入りする前年のことと言われていますが、天海が江戸を勧めたことは、その後の江戸の街づくりへの天海の係り度合いから、容易に想像できます。出会ったときに家康に「もっと早くに会いたかった」と言わしめるほど、両者の思想性は近かったのだと思われます。 

関東人は家康をどのように受け入れたのか?
家康が江戸に入ったのは、天下統一の十年前1590年でした。秀吉が天下統一の仕上げとして北条氏の居城小田原城を攻め、これを陥落した後、戦功第一の家康に北条氏の旧領をそっくり与え、その代わりにそれまで家康が領有していた駿河遠江三河など五ヵ国を取り上げたのです。ですので、実際は褒美というより、家康の勢力を削ぐために関東に追いやられた感じでした。
しかしその10年で、家康は江戸に基盤を作り上げていきました。

家康は、江戸城の修理補修は最小にとどめ、町割(町の地割)や知行割に精力を注ぎ、早くも8月中には江戸湾に注ぐ平川河口と江戸城大手門のあたりを結ぶ船入堀の開堀に着手しました。製塩地である千葉行徳から塩(生活必需品)を江戸へ送るため、隅田川と中川を横に結ぶ運河である小名木川堀(おなぎかわぼり)を開き、開削した土で埋立地をつくりました。小名木川開削により、のちの利根川の上流部の改修と合わせて、利根川の全流域と近辺の諸港の生産物が江戸と結ばれました。運河開削という公共事業の効果はまことに大きかったと言われています。(こちらより参照させていただきました。)

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画像はこちらより
自分の居城は後回しにして、地元に多くの仕事を作り出す土木工事に真っ先に取り掛かるなど、地元関東人に喜ばれることを行っています。それは八朔の行事にもうかがえます。八朔(8月1日)は、古来から農民の間で新しく実った稲を親戚・知人などに贈って、豊作を祈願する儀礼の日でしたが、家康はあえてその日を選んでセレモニー的に江戸城へ入ります。そして以後8月1日を正月に並ぶ盛大な祝日として祝うなど、大衆受けする方策をとっています。実際に、八朔の日いは吉原の遊女たちが揃って純白の衣装を身につけるなど庶民にまで浸透していき、家康が江戸の大衆に受け入れられたことがそこからも分かります。
まとめ
家康は晩年に天海に出遭い、その縄文的思想に触れます。家康は戦乱の世で自身の半生を生きてきたこともあり、戦乱の世のない治世を強く求めていました。16歳の初陣の頃から58年間にわたる戦いの時代が終わったときに、家康は元号を「元和」と改めました。時代が平和になったことを指して「元和偃武(げんなえんぶ)」と言いますが、これは儒教の「偃武修文」(戦いを止め、学問・教育によって平和菜世をつくること)から採ったそうです。
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画像はこちら より
このように戦乱の世を経て蓄積された家康の平和・安泰への希求が、天海の持つ争いとは無縁の縄文的思想に触れることで施策として結実したのが江戸時代だったのでしょう。だからこそ、江戸時代を通じて様々な施策が平和、再生、集団、自然志向といった縄文的価値観に貫かれて生み出されていったのです。
しかし、国家規模で社会変革を引き起こした江戸のシステム、これは家康や天海の個人の才覚だけでは成り立ちません。それを受け入れ下支えした東国人、さらに日本各地の地方では庶民にまだ縄文由来の共同体資質が色濃く残存していた事もまた押さえておきたいと思います。

こうして江戸は天海―家康が導く縄文的社会の再生として日本史の中に登場したのです。
次回からはその中身について検証していきたいと思います。お楽しみに