「大和政権の源流と葛城ネットワーク」~6 父系万世一系への転換とは、本当だったのか?

「大和政権の源流と葛城ネットワーク」~6 父系万世一系への転換とは、本当だったのか?

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藤原不比等像:ここからお借りしました
先の記事「大和政権の源流と葛城ネットワーク」~5.母系万世一系の葛城ネットワークで一般的に天皇制も含めて婚姻様式は、古代から一貫して父系制とされる常識に対して、古代豪族は、男が女(巫女)の力を求めて婿入りする母系制でした。これは葛城ネットワークで結ばれた同族で、そこを繋ぐのが母系万世一系システムであることが分りました。 :D
しかし、中央集権化が進んで私権社会が拡大する中で母系万世一系システムが変化してゆきます。そこで台頭してきたのが、日本書記を記した藤原不比等から始まるとされる父系万世一系システムです。今回は、父系万世一系システムは何故、生まれたのか? 葛城による母系万世一系システムはどうなったのか?を見て行きます。
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ここからお借りしました
一般的には藤原不比等が日本書記で父系万世一系に書きかえたといわれています。では何故それまで上手く行っていた母系万世一系システムを変えたのでしょうか? :roll:
 日本書記がかかれた720年頃は、唐の力が強く、世界的にも私権闘争(戦争)の圧力が高いので、力による国家統合を示し、且つ、国の格式を高めるために現人神信仰の天皇が国を治める父系万世一系としたと思われます。しかしながら、古墳時代高句麗からの戦争圧力に対して、母系制のままで集団統合力を高めて、より大きな古墳をつくることで国威を示して争いを止揚しました。何故、このように上手く行っていた母系万世一系システムを全面転換する必要があったのでしょうか? :roll:
藤原氏は、奈良時代藤原鎌足不比等から実権を握り、平安時代摂関政治に進んで行きます。この藤原氏の代名詞である、摂関政治(866年~1186年)と母系制の関係を見ながら検証したいと思います。 :wink:
摂関政治がうまくいったのは日本が母系社会だから山澤さまから引用します
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藤原一族の行った摂関政治は、権威と権力を分割する、という日本的統合の完成形です。その後、天皇が引退後、院政を敷いて、天皇家の中で、擬似的な「権威と権力の分割」を行いましたが、時代は不安定となり、うまくいったとはいえません。摂関政治がうまくいって、院政がうまくいかなかったのは何故なのでしょうか?それは、藤原一族が、あくまでも「母方の親族」として天皇の権威を支えたのに対して、院政をしく元天皇はあくまでも父方の祖父として天皇に指示する関係だからです。母系社会では子供は父親よりも母親を通じて、社会や人間関係をとらえていきます。従って、「母方の親族」として天皇の権威を支えた摂関政治はうまくいき、父方の祖父としての院政ではうまくいかなかったのです。
以下、「齋藤孝のざっくり日本史」より
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実は日本というのは、ずっと母系社会なのです。「家」自体は父系でついでいくので一見すると父系社会のようにみえますが、実際は母系の方がはるかに強い絆を持っているのです。
いまも里帰り出産が主流ですが、女性というのは、実家に帰りたがるものなのです。実家に帰れば、そこにいるのは実の両親ですから、気楽に甘えることが出来ます。親にとっても、娘が産んだ子というのは、嫁が産んだ子よりもかわいがりやすいものです。子供は、母親が気楽に過ごしている環境のほうが落ち着くので、自然と母親の実家になじむようになります。
 これに対し、夫の実家というのは、女性にとっては居心地の悪い場所です。よく言われる嫁姑の問題がなかったとしても、そこにはどうしても遠慮が生じるので、実家のような気楽さは生まれません。楽じゃないところから足が遠のくのは、人間の自然な心理です。そして、お母さんがあまり行きたがらないところに、子供がなじみにくいのも自然の成りゆきです。
子供はお母さんと常にセットなので、父系の親戚とは疎遠になっていき、母系の親戚とは関係が密になっていくのです。
つまり天皇に自分の娘を嫁がせるということは、その次の世代の天皇、つまり娘の産んだ皇子を、何の苦労もなく藤原氏側の人間とすることができるという、非常に優れたやり方なのです。
摂関政治というのは、日本の本質が母系社会的な流れにあることを見抜いた上で、藤原氏が作り上げた、絶妙な政治形態だったのです。
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「家」という制度でみると本質を見失いますが、つながりの深さという点では、日本社会が母系の血縁関係を基本とした社会であることは疑いようがありません。
勿論、蘇我氏物部氏、葛城氏の時代から一貫してそうだったのでしょうが、当時は、天皇家以上に、各豪族の方が力が強く、天皇家もそうした豪族とある種の反発関係にもあったのでしょう。そのような横並び状態から、天皇を権威として権力を切り離したことで、非常に安定した政治形態が可能になったのです。
天皇制が極めて「女性原理」に貫かれているのは、日本社会の統合基盤が母系だからなのですね。
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引用終わり
更に、日本の婚姻史等を実際に研究をしてきた高群逸枝氏の「日本婚姻史」に、「天皇の家庭」が記載されています。実に驚くことに、天皇家は正に母系制そのもので、今の父系万世一系の常識とは全く異なるのです。以下、引用します。
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ここからお借りしました
天皇の家庭」
天皇は母の家に育った。そこがそのまま皇居になった。だから古代の皇居は一定の場所でなく転々として移ったという説(「古事記伝」)がある。推古の言に、「自分は蘇我氏の出身だ」(「書紀」)とあるのも、欽明皇女ではあるが、母族の蘇我氏に育ったことをいうのであろう。その皇居の豊浦宮も、蘇我氏の当時の本居の地に営まれたものらしい。すなわち豊浦宮も、有名な豊浦寺も、もとは推古の外祖父稲目の居宅だったと諸書にみえる。 天皇氏族という固有の父系氏族があって、一定の居所と勢力をもち、それが即位の背景となっていたと考えるばあい(いわゆる保守派も進歩派もこうした考えかたのようであるが)、そうした氏族の存在や居所については深く迷わずにはいられない。
 「姓氏録」のいゆる皇別氏を仮にそれだとしよう。その皇別氏には、近江の息長真人氏を筆頭とする三五〇余氏がみえているが、その筆頭氏にしても、招婿出自(応神が近江の息長氏の女を妻問い、生まれた子二俣王が母方の居所と氏称を嗣いで、出自だけ父方の皇別氏に列したもの)であることを歴史は隠していない。皇別氏のなかには部民をなのるもの、諸蕃の姓を負うものも多い。
これら皇別氏は、神武から嵯峨におよぶ歴代天皇の子孫であると称しているものではあるが、それらの多くは各地域の固有のばらばらの大小氏族にすぎない。そしてそれらの存在はそれらの本家である天皇氏族の巨然たるべき居地や勢力の存在を示唆すべくなんらのたしにもならない。
 天皇は系のみがあって、母族から母族へと転移した抽象的存在形態(ヤマト時代の父系母族制を端的に表現した)ではなかったろうか。とすれば天皇には家庭もなく、祭祀所兼役所があるだけで、いわゆるキサキも出勤制による役員の一員だったのではなかろうか。
そして天皇のこうしたありかたが、天皇の弱さとともに強さの鍵でもありはしなかったろうか。わが国の多くの歴史家たちは、家父長婚たる嫁取婚を最も早く発生した場所として天皇家をみているようであるが、はるかに下った平安ごろをみても、それは決して嫁取婚ではない。
わが国の皇后は江戸の儒学者が非難したように(この非難は当たらないが)嫁取婿でない入内のしかたをしている。つまり皇后としてでなく、侍寝職の女御、女官職の内侍、更衣等として入内し、そのなかから事後的に選ばれて立后するが、立后後も自己氏族から断絶されておらず、氏后として氏祭を司り、氏第を本拠として子生み子育てをなし (この状態は物語等にたくさん出てくる)、その財産は氏族が相続し、死ねば氏族の墓地に葬られる。天皇家に厳格な意味で嫁取婚が発生したのは、明治以後であると私は思っている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
引用終わり
世間の常識とは異なり、
天皇家は明治時代の前までは「ヤマト時代の父系母族制」だった。
②父系母族制の天皇制は、天皇の権力を強くするものではなく、(日本を統合する)皇族ネットワークの血縁関係を広げて絆を強くするものだった。これは現在も同じだと前回シリーズで紹介しています。
③794年から、院政(父系制の導入)を契機としたおこった保元の乱(1156年)以前の平安時代の350年は、政権争いという小競り合いはあったものの、戦乱が無かった時代で、江戸時代の270年を凌ぐ安定した時代でした。

 世間一般では、藤原氏は自らの権力を誇示するために日本書記から物部・葛城・出雲族の名前を抹消したとか、政権闘争で暗躍する「悪の藤原」というイメージが強いです。しかし、父系母族制を継続し、それが最も生きる摂関政治を導入して、江戸時代を凌ぐ長く安定した戦乱のない国にしてきた事実はなにを意味するのでしょうか。藤原悪説とは全く違う歴史が見えてきそうですね。
では、「父系母族制」と、それまでの母系制を見ながら追求します。以下の図を参照
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藤原氏が台頭する以前の母系制は、母方の葛城氏や物部等の有力豪族に婿入りする豪族(葛城)ネットワークでした。
・父系母族制は、葛城ネットワークの表にたった藤原氏に婿入りする豪族を1に限定し、天皇家とした制度です。

 改めて父系母族制をみると、2つの顔が見えてきます。
・国の顔である、天皇家から見ると、男の天皇の血筋を持った者が天皇を継承する、父系万世一系
・葛城ネットワークの人から見ると、これまで通りの母系万世一系なのです。

 藤原氏が創造した、「父系母族制の権威のみで権力を持たない天皇制度」と「摂関政治」は、対外的に見た目は父系万世一系で、中身は母系制の塗り重ねで、それまでの豪族(葛城)ネットワークの役割分担をより鮮明にしたものでした。
藤原氏は、葛城ネットワークの皆から望まれて摂関政治という形で歴史の表に登場して、天皇家との父系母族制を通じて、豪族間の地位争いや、戦乱という私権闘争を止揚しながら国内外の外圧から日本を統合して(守って)きたと言えます。
 では、最後に院政を見てみます。院政とは、天皇家の中で、幼少の自分の息子(皇子)に譲位し、後見として政務を取る形式です。母方の家で国を安定させる母系万世一系の葛城ネットワークから離れて、自らの父系の血統をもって権威と権力を掌握する形です。下図参照
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興味深いのは、「父系母族制の権威のみで権力を持たない天皇制度」を壊し、権力を独り占めにしようとした父系の院政を導入したことを契機に、保元の乱から国が乱れていくことです。実は、「悪の藤原」という認識は誤りで、母系から父系に舵を切った院政こそが、後の私権闘争に向かわせた張本人だったという事実です
さて、次回の最終回は、これまでの内容を振り返って、葛城ネットワークとはなんだったのかを詳細に見て行きます。こうご期待!!