江戸時代は縄文の再生~9エピローグ~江戸と現代~現代人は江戸時代に回帰できるか?

江戸時代は縄文の再生~9エピローグ~江戸と現代~現代人は江戸時代に回帰できるか?

こんにちわちわわです。
このシリーズでは8回にわたってテーマ追求をしてきましたが、今回が最後になります。
江戸時代には、現代社会の閉塞感を突破するのに参考になる認識がたくさんあるように思えます。
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最終回では、これまで扱った江戸のエキスを要約し、皆さんの次代への考察の役に立てれば幸いです。
江戸やるな!と思った方↓↓ぽちっと!!

江戸時代は縄文の再生~1.家康が江戸を目指した本当の理由
天海の残した教えは、縄文文化(祖霊信仰)と融合した円仁の教えを受け継いでいると思われます。
戦乱の世を経て蓄積された家康の平和・安泰への希求が、天海の持つ争いとは無縁の縄文的思想に触れることで施策として結実したのが江戸時代です。だからこそ、江戸時代を通じて様々な施策が平和、再生、集団、自然志向といった縄文的価値観に貫かれて生み出されていったのです。
こうして江戸は天海―家康が導く縄文的社会の再生として日本史の中に登場したのです。
江戸時代は縄文の再生~2.江戸の大衆活力の源泉とは
江戸時代初期の最大の注目点は新田開発による食糧の増産とそれによる人口の増大にあります。
江戸時代は藩の自由裁量が大きく認められた、現代で言うところの地方自治が進んだ社会です。庶民、その大多数を占める農民は村落共同体における自主管理、自給自足を基盤として、村の課題も規範も共同体を構成する庶民自身が決めるという社会構造が江戸時代の特徴であり、これが庶民の活力の源泉となっています。
江戸時代に登場した学者は庶民の工夫の中から誕生し、庶民の役に立つこと=現実の中で存在しています。戦国時代の動乱を経て、日本人の縄文体質(集団自治の共認充足)が蘇生した社会、縄文時代から変わらぬ村落共同体の庶民の生き方が素人の創造として花開いた時代と言えるのではないでしょうか。
江戸は縄文の再生3.~中央と地方を逆転させた江戸の理(ことわり)
江戸時代は、集団の自立した活動に権限をゆだねることで個々の活力を創出し、中央と地方の交流により同類圧力を生み出し、さらなる活力上昇へつなげることができたまれに見る社会だといえます。
末端の集団規範や、中央からの質素・倹約の規範を、武士から末端の農民に至るまで浸透させる事で技術革新により開かれた私権追求の可能性から生じる自我を封じ込めました。、
蕃毎の自給自足と、自立した地方自治が主体性を向上させ、さらに参勤交代という地方と中央を交流させる政策により同類圧力が高まり、末端までの活力を上昇させました。
このように江戸時代は、豊かさ欠乏と倹約の精神がバランスし、経済活動も地球環境においても究極の循環型社会が実現した、世界でも類を見ない奇跡の時代であったと言えるでしょう。
江戸は縄文の再生4:江戸の文化とは自給思考の帰着
江戸時代は歌舞伎や浮世絵など現在の日本的と言われる多くの文化が発祥しています。江戸の最大の特徴はこの外から取り入れて日本風に変えるという方法を一変させた事です。
文化が発祥し、供給したのはあくまで地方、中央である幕府はその活力を結集するシステムを作り出したに過ぎません。
誰もが認識を発信でき、発信すれば評価が得られる。そういう中で皆の役に立つ認識が次々と作り出され、切磋琢磨されていきます。そしてそれらは実現の意思に裏付けられた力強いものでした。
江戸時代は縄文の再生5.~鎖国によって防いだキリスト教の侵略~
鎖国の本当のねらいは、国を閉ざすことではなく、キリスト教の禁圧と、そのために必要なポルトガル人の追放です。
キリスト教の侵入によって、国内共同体集団が解体され、いずれ日本が欧米諸国の植民地となってしまうことを家康は見抜いたからではないでしょうか。
 これは単にキリスト教がモラル的に受け入れられないというだけでなく、キリスト教を入れれば集団の秩序が崩壊する、延いては徳川が試みた平和と秩序の体制が根底から崩れるという危機感を持っていたからだと思います。
 キリスト教の禁教によって守られた共同体=集団秩序があったからこそ、過度な私権獲得にブレーキがかかり、自給自足を基盤にした村落共同体における自主管理が可能になったのです。
「江戸時代は縄文の再生」~6.“商人気質”とは、社会の当事者としての気概の表出
商人としても町人としても集団に属し、集団内での意思決定は全員一致を原則とする社会が、商人たちの社会でした。
商人は、生業での “金儲け”を目標とすると同時に、集団全体の“利益”、町人としての“町の自治”、さらに世間に向けた“社会貢献”も求められる立場に置かれます。
商人気質は、商人としての規範であるだけでなく、それ以前に、集団の運営者としての集団規範で有り、同時に町の統合を担う町人としての社会規範でした。さらに、市場経済の発達や全国的な商業圏の拡大にともない、この商人気質の対象は“世間”全般へと広がり、飢饉が起きれば各地に食料を送るなどといった社会貢献にもつながって行きます。
「江戸時代は縄文の再生7」~国学とは『縄文の心の学(まなび)』
自然音を言語として処理する、あるいは言語を自然音と一体のものとして発達させていったのが縄文人であり、大和言葉です。この日本語の中にこれらの古代の意図を発掘していく事が国学者が行った大和心の解明であり、発見だったのでしょう。
国学が拠り所とした古の心とは、まさに縄文の言葉=縄文の心そのものだったのです!
医者である本居宣長に代表されるように、「素人の追求」ゆえに、潜在思念に声を傾け、自ら考えようとしたのが国学者達です。そして、そのときの拠り所は、歴史回帰=事実追求、先人が培ってきたものに触れ学ぶ心、つまりは縄文人の本源性、万人に通じる心の有り様でした。
江戸時代は縄文の再生8~大政奉還で日本を救った江戸幕府~
金貸し近代国家の圧倒的な武力の前では、幕府も鎖国政策を強弁するわけにいかず、ついに開国へと踏み切ることになります。その後の金貸し達の思惑は、薩長らによる倒幕軍と幕府軍の両者に資本を提供し、お互いが疲弊するまで戦わせた後、支配しやすい側に付き、新政権を立ち上げることでした。しかし、その思惑予期し、徳川慶喜は政権返上(大政奉還)を決断します。自らが退くことで無用な内乱を回避し、金貸し勢力による日本侵略を防いだのです。
 江戸時代に日本が欧米諸国らによる植民地化から免れることができたのは、徳川幕府の「鎖国政策」と「大政奉還」という大英断があったからと見ることができます。
■現代人は江戸時代に回帰できるか?
江戸時代は世界で最高峰の文化レベルと秩序と質の高い経済を実現した時代です。
幕藩体制では各蕃の自主独立性を重視し、参勤交代では各蕃に同類競争意識を促し、鎖国によってキリスト教の侵入を防ぎ、日本独自の文化を築く礎となりました。
対して、明治維新は、世界を牛耳るまでに成長した金貸し勢力が圧倒的な軍事力を背景に弱小国を植民地化していた時代、その力に屈した時代といえます。以降軍国主義に走り、太平洋戦争の敗戦後アメリカの属国と化し、驚異的経済成長で経済大国になったものの、江戸時代まで培ってきた日本人の精神風土は見る影も無くなってしまいました。
しかし、豊かさを実現し、これまで原動力となってきた私権活力がとことん衰弱してしまった現在、、江戸時代に成立した究極の循環型社会が再度脚光を浴びています。
未だに国家の統合階級はアメリカべったりですが、一般大衆の方は、その矛盾に気づき始め、日常の充足空間に軸足を置いた同類圧力を活力源とした共認社会へ舵を切りつつあります。
この社会潮流の中、日本国民は江戸時代の姿に回帰できるのでしょうか?
江戸時代は幕府という統合階級が、法制度と規範により大衆の私権意識をいましめることをリードし、大衆側は身近な集団のなかで充足を得ていた時代です。現在とは上流と下流の意識のベクトルが間逆な構造です。
という事は、大衆からすっかり見放されてしまっている統合階級が総退陣すれば、大衆の意識が一機に噴出し新しい社会に大転換するのは絵空事とはいえないと思います。
江戸時代には次代を統合するのに参考となる制度や仕組みはたくさん存在しています。
例えば、地方を尊重した地方と中央の関係、集団自治のあり方。集団単位の自給自足。地方と中央の交流を促し、同類圧力を生み出す参勤交代のしくみなど。
これらは、現代風にアレンジすれば、すぐにでも応用できると思われます。
江戸時代を学ぶことは、次代の可能性を探る上で非常に勉強になりました。
長らくご愛読いただきありがとうございました。