自考力の源流を歴史に学ぶ3~手の文化の象徴物、土器作りとは闘争そのものだった

自考力の源流を歴史に学ぶ3~手の文化の象徴物、土器作りとは闘争そのものだった

縄文以前の人類2足歩行から人類の進化の最大の特徴は手が自由になった事である。
手をつかいさまざまな外圧を克服、道具を作り、火を生み出し、家屋を作り、衣服を作った。かつては洞窟に住み、死肉をあさり、何度も絶滅の危機に面した人類が今日まで永らえてきたのは手を使って外圧を克服してきた事にある。
いやいや脳が進化したから、という向きの方へ。実はこの脳と手の関係は密接に繋がっている。脳の1/3を占める運動野が手の運動を司るが、手を動かす事はすなわち脳を活性化することでもあり、脳を拡大できたのは手の動きの発達と無縁ではない。つまり、人類とは手と脳がパラレルに発達した霊長類なのである。
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こちらの方のデッサンからお借りしました。
そしてこの手の文化を古代最も発達させたのが豊かな森林地域に存続した縄文人なのである。日本は職人文化が他国に比べ非常に発達しているが、それもこの手の文化が縄文時代に拡大し、それによって外圧に対峙してきた歴史が背景にある。
土器は世界でも最も早く登場し、その表現も複雑かつ、美しい。また土器だけでなく、土偶や装飾物(櫛や飾り)に至っても非常に多様に発達してきた。
匠の文化、手の文化の行き着いた先が職人であり、その源流に土器を中心とした縄文人の生業があると見て間違いないだろう。
土器は誰が作ったか、理由は後で述べるがその殆どは専業化した男であったと設定する。
集落の男達で競ってその造形を作りこんだ。
 縄文時代1万年間その過半は採取生産に依拠している。
主食となる堅果類の採集=生産は女性が担い、男は周辺で防衛と主食ではない肉を確保する為の狩猟を担った。そこでは結果的に大量の時間が発生。いわゆる閑である。
しかし、それを閑とせず、最大限集団の為に使ったのが縄文の男達だった。
男たちは土器や櫛、網、釣り針、漆塗り、墨作りから家や舟といったモノづくりに邁進した。さらに時間はあるので、いくらでも工夫ができる。そういった中で皆の期待に応えるために作られた道具が縄文土器土偶であり、こだわりと造形はさまざまな試行錯誤、工夫思考の中で生まれた。つまり、縄文土器とは男達が時間をたっぷりかけて作りこんだ神具なのだ。
縄文塾の故中村忠之氏のブログ「縄文の道」の中で遊牧が根付かなかった縄文を手の文化として工=職人と繋げて表現している。
>「狩猟・採集」という生活手段が、農業革命によってそれぞれ狩猟から遊牧へ、そして採集から農耕が生まれた。温暖な気候ながら平野が少なくて山地の多い日本では、結局遊牧という手段は根付くことがなかった。縄文という採集生活から、弥生という農耕に移行したまま、ついに遊牧・畜産という手段を知らぬまま、明治という近世に至ることになる。
 孤絶した島国という特異な環境が、採集→農耕という、一種のモノカルチャーを生んだのだが、日本の豊かな風土は、はやくから定住生活をもたらし、有り余る余暇をモノづくりに費やすとい計う「手の文化」が醸成された。縄文土器がその典型である。
 日本以外のほとんどすべての国では、狩猟→遊牧の民と採集→農耕の民との抗争と融和の歴史が相次ぎ、結果として行動力にすぐれ、戦いのテクニックに長じた遊牧の民が農耕の民の上位につくという構図が定着してきた。いわゆる「足の文化」である。言ってみれば、足の民は移動という得意技を生かして「通商」に特化し、手の民はモノづくり、すなわち「工」に特化することになる

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閑をつぎ込んで工芸品を作るというとかなりのんびりした印象を持つが、縄文時代は豊かではあったが自然外圧は現在よりはるかに高く、その中で30人から50人程度の集団で生き抜いていく事は忍耐だけでなく智恵と工夫の連続が必要だった。
そこで作られる道具は皆の期待の結集物であり、利便性の高い道具だけでなく、集団間を融合させる贈与物としての品であった。
縄文時代は1万年間戦争がなく平和な時代だったという事が専ら言われる事が多いが、平和というのと闘争がないというのは同義ではない。人口が増え、集団間が隣接し、緊張圧力が高まった縄文時代は人類史初の集団間の同類圧力に直面し、その解消はそれぞれの集団にとっても相当大きな課題だった。その為に作られる贈り物は黒曜石のような利便性の高い貴重品もあったが、同時に優れた装飾の土器も用いられたに違いない。
縄文中期に東北、北海道でほぼ様式が統一された円筒式土器は集団間に土器が移動した事を示しており、その土器の装飾性も時代を経るにつれどんどん複雑になっていった。
現在でも芸術を志す人や名人と呼ばれる職人は寝食を忘れ、まさに命がけで作品に取り組む事はイメージできると思うが、縄文時代の贈与物となる土器を作る男たちもまた鬼気迫る迫力で取り組んでいたのではないか?
戦争を回避する為の贈り物は期待や評価の結晶物であり、それを極める事が男たちのまさに闘争だったのだ。だから縄文土器は単に作るのではなく、作っては壊し、作っては壊して徹底的に極めたのだろう。評価競争を巡るモノつくりとは闘争そのものであり、それが故に土器を作ったのは闘争存在である男たちに違いないと思う所以なのだ。
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下記の話は縄文土器が大量の試行錯誤、試作品の後に作られている事を示している。

>江原台、遠部台遺跡は印旛沼にのぞみ小さな貝塚と、かなり広い包含地があって、包含地の一部には土器のカケラばかり、厚さ30センチくらいの層をなして、おおよそ三、四十坪の面積にびっしりとつみ重なっていたところがあった。ここには地表にもいちめんに土器のカケラが、ちりばめられているが、掘ってみると、その量のおおいことに驚いた。昭和十三年に東京大学人類学教室で発掘した際に、これを洗ってみるとその大部分は嚢形の土器で、口縁部に縄をかけたような模様があった。ところがいざ繋ぎ合せようとすると、どれも合わない。みなそれぞれが違った個体のカケラで、完全になる品はまったくなかった。似たような土器が大量にすてられた遺跡だった。このおびただしい土器のカケラは焼き損ないを棄てたものとしか考えられない。~甲野勇著「縄文土器のはなし」より

縄文時代はまた、集団間で男達が交差移動(婿入り)して他集団に迎え入れられる。
これも手にさまざまな技術を携えた男が重宝され、移籍先の集団での期待に応え土器をはじめとして集団の為のモノづくりに精を出したことだろう。自集団の期待に応え、移籍してもその集団の期待に応える。男たちはそれによって始めて認められ集団の中で生きていった。
職人に男が多く、彼らの動機の原点に役に立ちたい、期待に応えたい、その為に技を極めるという精神世界は縄文時代を通じて育まれた妥協のない追求力であり、男の存在価値である闘争世界と重なるのである。