自考力の源流を歴史に学ぶ4~職人の歴史にみる「真似て学んで広める文化」~

自考力の源流を歴史に学ぶ4~職人の歴史にみる「真似て学んで広める文化」~

●「一つに止まる」まで正しい答えを探索し続ける追求力、木の声まで聞き分ける同化能力を持った現代の宮大工。
●集団の存続をかけ、皆の期待と評価を一身に受けて土器づくりに全身全霊をかたむけた縄文人

「役に立ちたい、期待に応えたい」・・その為にとことん対象に迫り、技を極める日本の職人像が少しずつ見えてきた。
今回は、縄文時代から現代に至るまでの職人の歴史を辿り、日本の職人気質の源流を探ってみたいと思う。
【古代:身分としての職人】
職人に関する最も古い記録は、古代、「専門的な職能を通じて天皇・院、摂関家、将軍家、寺院、神社などに仕えていた人々の身分」として記述されている。彼らは支配階級に仕える職能集団の形をとり、年貢や公事の負担を免除され、支配階級の末端構成員の位置にあった。そしてその職能は一族の中で受け継がれ、重要な技術は秘伝とされていたという。
おそらく彼らは大陸から渡来した技術者集団であり、大陸の寺院や神器、装身具や武具、工芸品などの先進技術と、職人という身分を日本にもたらしたのだと考えられる。
教科書的には、古代の職人は技術官僚のようなポジションにあり、真摯にものづくりに向き合う「職人像」とはやや趣を異にする。彼らはどのように変転し、日本の職人気質を育んでいったのだろうか。
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<中世の職人>
【中世:弥生の技術と縄文のものづくり】
中世になると、身分としての職人は存続しつつも、その内容は多種多様になってくる。鎌倉時代の「職人歌合」(職人を題材にした絵巻物の一つ)には医師、陰陽師、鍛冶、番匠、刀磨、鋳物師、巫、博打、海人、経師・・・など様々な職人が登場してくるが、彼らは自由に国境を行き来し、複数の主に仕える自由人としての性格を帯びてくる。この職人の往来が日本各地にものづくり技術を伝播し、その裾野を広げていったのは間違いないだろう。
しかしもう一つ、見落としてはならない点がある。平民たちである。実は古代から中世にかけて、蹈鞴(たたら=製鉄)職人は存在しなかった。蹈鞴の生産は平民によって行われていたのである。さらに調べてみると、平民=農業従事者という通説が事実とまったく異なることもわかってきた。
美濃、尾張以東の東国では米年貢は例外的といってよく、ほとんどが絹、綿、布、糸などの製品で納められていた。また、但馬は紙、出雲は筵(むしろ)、周防はくれ(材木)、陸奥は金・馬。そのほか鉄・金、緑青、瓦、合子(ごうし=木器)などを生産し納めていた国が多数存在していた。
実は、日本では職人以外に、平民が広くものづくりに携わっており、日本全土にものづくりの土壌が広がっていたのである。
西国から広がる大陸伝来の職人技術と、東国の平民たちによるものづくり。ここに弥生発の職人文化と、縄文発の蹈鞴・手仕事文化の二重構造が見て取れる。そしてこの両者の人的・技術的交流を通して、日本独自の「職人気質」が醸成されてきたであろうことは想像に難くない。
ここで、中世のものづくりについてもう少し見てみよう。
【中世の生産革命】
下の食器セットの写真を見てほしい。誰が使っていたものか分かるだろうか。なんと上のみすぼらしい食器が古代の中流貴族が使っていたもの、下のきれいな食器が中世の一般庶民が使っていたものなのである。
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<古代、中世の食器>   
中世は、ものを大量に、安価につくる技術が発達し、陶器・漆器・鉄器などが一般庶民の日常生活の道具として使われるようになった時代だった。たとえば漆器などは、土台の木に安い木材を使い、柿渋を塗って下地とし、高価な漆は1~2回塗るだけとか。瀬戸物は、大きな窯をつくり、縦に積んだ形で焼き上げ、一度に大量のお皿などを作れるようになるなど、技術が人々の日常生活を大きく変えた時代であった。
また中世は、日常品の普及だけでなく、日本の工芸技術が海外でも高く評価されていた。
『真鍮細工や、鍵をつくる技術、印刷技術や鉄砲、ガラス細工など外国からもたらされた技術を日本はさらに発展させ、どんどん素晴らしいものを作り出してゆきました。鏡なんて、中国の人が持ち帰り、少し細工して「中国製だ」と言っていたものまであるんですよ。』(写真及び引用は、日本武道教育新聞社さんhttp://yaplog.jp/budo/archive/200からお借りしました)
新技術の吸収と高度化、大量生産技術の開発とローコスト化。近代日本の強さとされるこれらのことが、すでに中世で実践されていたのである。しかも庶民の生活に職人技術が活かされ広がっていた。これもまた、大陸の技術を土台にしながら工夫と創造を重ねていく「縄文由来の職人気質」が脈々と息づいていた所以であろう。
【戦国時代:学んで広める技術風土】
中世で確立した日本の職人気質は後の戦国の世にも見ることができる。
種子島に火縄銃が伝来した1543年、時の殿様・種子島時堯の命によって、火縄銃づくりに取組んだのが刀鍛冶職人たちだった。彼らは刀鍛冶の伝統である製鉄技術や加工技術を駆使して、わずか1年でコピー完成させてしまう。火縄銃の製造技術は主家の島津家に献上され、さらに諸侯にも伝えられる。その結果、驚くことに伝来からわずか30年後には、日本の火縄銃保有量は当時のヨーロッパの全保有量を上回る規模になっていたといわれている。
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種子島式火縄銃>
地道に技術を伝承し、伝統を守るだけでなく、未知の課題に果敢に取組む先進性と、成果を仲間と共有していく集団性を兼ね備えた日本の職人気質がここにも見られる。この独自の精神性もやはり、縄文のモノづくり精神が中世から戦国時代へと引き継がれてきたものなのである。
明治維新:世界を驚かせた日本の職人】
そして近代日本の幕開け、明治維新においても日本の職人の力は遺憾なく発揮されてきた。
明治の初頭、フランスの技術指導で建設した横須賀造船所を見学に訪れたフランスの海軍士官スエンソンは、当時の日本の職人を次のように評している。
「ひょっとすると日本の職人の方が西欧人より優秀かも知れなかった。日本のものよりはるかにすぐれている西欧の道具の使い方をすぐ覚え、機械類に関する知識も簡単に手に入れて、手順を教えてもその単なる真似事で満足せず、自力でどんどんその先の仕事をやってのける。日本人の職人がすでに何人も機械工場で立派な仕事をしていた」
すぐに学びとり、創意工夫を凝らして、独自の技術につくり変えていく日本の職人気質が見て取れる。また「黒船」で日本にやってきたアメリカのペリー提督も日本の職人の力に脅威を感じ、
「彼らの手作業の技能の熟達度は驚くほどである。日本人の手職人は世界のどの国の手職人に劣らず熟達しており、国民の発明力が自由に発揮されるようになったら、最も進んだ工業国に日本が追いつく日はそう遠くないだろう。他国民が物質的なもので発展させてきたその成果を学ぼうとする意欲が旺盛であり、そして、学んだものをすぐに自分なりに使いこなしてしまうから、日本はすぐに最恵国と同じレベルに到達するだろう。」
と現在にいたる日本の発展すら予見していたのである。
【まとめ】
以上、日本の職人の歴史をたどってきたが、中世の生産革命、戦国の鉄砲づくり、明治維新の近代化など、職人技術の発展期は常に社会の動乱期に一致していることに気付く。社会が大きく転換する時、集団にとっての外圧が極めて高い時に、職人の技術はより高いレベルへと適応していく。まさに縄文の男たちが集団の存続をかけて、土器づくり立ち向かった姿と重なってくる。
そしてこの適応進化を可能たらしめた要因として、
・日本には縄文の土器づくりから蹈鞴づくりへ至る、ものづくり技術の基盤があったこと
・新しい技術をどんどん吸収し、かつ応用してさらなる新技術を生みだす革新性をもっていたこと
・そして西洋の秘伝志向と異なり、彼らにとっては技術を広めていくことに最大の意味と充足があったこと
があげられる。
縄文の「手の文化」を源流にした「真似て学んで広める文化」。
古代より「皆の期待と評価」を活力源に「同化」「追求」「成果の共有」を突き進めてきた日本職人の精神的土壌がここにあった。本シリーズのメインテーマである「自考力」の源流にも通じるところがあり、さらなる探求に向かっていきたい。