日本の帝王学~各時代における支配者層の教育とは?~8.最終回 現代に必要な帝王学とは

日本の帝王学~各時代における支配者層の教育とは?~8.最終回 現代に必要な帝王学とは

安部内閣

写真はこちらからお借りしました。

みなさんこんにちは。
「日本の帝王学」シリーズもいよいよ最終回となりました。

 今回のシリーズは、原発再稼動ごり押しや、TPP、秘密保護法等、重要な法案がろくに議論も説明もされずに密室で決められていくように、支配者層の暴走と傲慢さが際限なく悪化していると感じたことからスタートしています。
日本の支配者層は、何時の時代も現代と同じように傲慢で、社会全体や人々のことなど考えない、権力に胡坐をかいた存在だったのか、それとも現代がおかしいのか。

 そのような疑問から、支配者層の人格形成に直結する、支配者層の教育=帝王学はどのようになっていたのかを、各時代に沿って検証していきました。

最終回記事の前に、先ずはいつものように応援お願いします。

 

今回シリーズで追求してきた各回のテーマは以下のとおりです。
★是非、通読して見て下さい。

1.日本の帝王学~各時代における支配者層の教育とは?~ 1、プロローグ

2.日本の帝王学~各時代における支配者層の教育とは?~ 2、平安時代~平安貴族による安定した社会秩序の形成~

3.日本の帝王学~各時代における支配者層の教育とは?~ 3、鎌倉時代の家訓

4.日本の帝王学~各時代における支配者層の教育とは?~ 4、戦国大名による領国統治の実際

5.日本の帝王学~各時代における支配者層の教育とは?~ 5、江戸時代の武士道教育

6.日本の帝王学~各時代における支配者層の教育とは?~ 6、明治時代~「富国強兵」・近代国家を担う人材の育成~

7.日本の帝王学~各時代における支配者層の教育とは?~ 7、戦後日本の失われた帝王学

 

 そこから見えてきたのは、明治時代の初期までの支配者層は、決して民を蔑ろにして一方的に苦しめることをよしとせず、民への配慮を忘れない統治運営を行ってきた、という事実でした。
そして、社会を統合する者の心得を次の時代に伝え継承していったのが、各時代の帝王学に共通した「共同体教育」だったのです。

 共同体の規範と精神を成員に体得させる「共同体教育」は、村落共同体に属する大衆だけのものではなく、統合者の認識教育もまた同様だったのです。
 統合者は、共同体を存続させて社会全体を安定化させることを旨とし、そのために不可欠な「共同体教育」こそが各時代の帝王学の基盤であり、支配者層はその基盤を連綿と受け継いでいたのです。 

 国家のリーダーは当然国家や社会全体を第一に考えていると私たちはイメージしますが、それは明治時代初期までで、最大限延ばしても(薄まってはいますが)戦後の田中角栄時代までであり、それ以降は国家や社会全体よりも私権獲得を優先する私権主体に成り下がってしまいました。
現在に至っては、政治家や官僚にはリーダーとしての資質の片鱗も感じることができません。
大衆への配慮は表層だけであり、支配者層の特権維持、私権獲得を最優先する思考は、社会を牽引するリーダーの資質とは程遠い体たらくです。

 
原発相関図

写真はこちらからお借りしました。

 どうして国家のリーダーが国家や社会、国民のことを考えなくなってしまったのでしょうか。
それは、日本では’70年に豊かさが実現され貧困の圧力が消滅し、私権の強制圧力が衰弱した結果、大衆は何よりも私権獲得(お金や地位など)を追い求める存在ではなくなり、統合者階級への監視圧力が低下したことが原因です。
その結果、統合者たち(政治家、官僚、マスコミなど)は私権獲得・大衆捨象に暴走することが可能となり、国際金融資本(金貸し)の洗脳もあり一気に暴走して行きました。
そして企業もまた私権統合=欧米の価値観を是として、金融資本主義、グローバル化、株主のための企業経営などに走り、社会全体や人々の充足という視点を失っていきました。

しかし、私権圧力の衰弱は大きな可能性でもあります。
私権統合の時代を脱することでどのような可能性が見えるのでしょうか。

 

■私権統合から共認統合の時代へ

実現論:序2(下) 私権時代から共認時代への大転換

(以下引用)
【力の原理から共認原理への大転換】

この世界を変えるには、現実を動かしている力の構造を解明するだけではなく、さらに、その力の構造を根底から突き破ってゆくような実現基盤が、発掘され提示されなければならない。
その実現基盤は、何か?

力の原理が働くには、一つの大きな前提条件がある。それは貧困(飢餓)の圧力である。貧困の圧力が働いているからこそ、誰もが私権に収束し、力の原理が貫徹される。
実際、古代~近代を貫いて、紛れも無く人類は常に貧困の圧力に晒されてきた。だからこそ、力の原理が支配する私権社会になったのである。

ところが’70年頃、先進国では物的な豊かさがほぼ実現され、貧困の圧力が消滅してゆく。その先頭に立つことになったのが、日本である。

貧困が消滅すると、私権を獲得しようとする欲求=私権欠乏が衰弱してゆく。
従って、物的欠乏も衰弱し、市場は縮小せざるを得なくなる。
また、私権圧力が衰弱すると、誰も必死に働こうとはしなくなり、全般的に活力が衰弱し、指揮系統も機能しなくなってゆく。
この私権の衰弱を象徴しているのが、労組の衰退である。実際、賃上げを主要な目的としてきた労働組合は、’70年、豊かさが実現するやいなやたちまち衰弱していった。その原因が、私権圧力の衰弱にあることは明白だろう。
しかし、それは同時に、私権欠乏に基づく、統合階級に対する監視圧力をも衰弱させることになり、その後の(特に’90年以降の)統合階級の暴走とその結果としての格差の拡大を許す原因ともなっている。
こうして、豊かさが実現されたがゆえに(私権の監視圧力が衰弱し)、格差が拡大するという、分かり難い社会が出来てしまったわけである。

貧困の圧力に基づく、私権を獲得しなければ生きていけないという否も応もない強制圧力=私権圧力の衰弱とは、力の原理の衰弱に他ならない。
力の原理が衰弱していけば、人々が、その強制から脱して、人類本来の共認原理に回帰してゆくのは必然である。(※共認原理とは:実現論1_4_11)
かくして人々は、’70年以降、最も深い潜在思念の地平で、次々と私権収束から脱して共認収束を強めていった。
この共認収束の潮流は、半世紀以上は続く大潮流であり、現在は転換の途上であるが、すでに10年以上前から、大多数の人々にとって、周りの期待に応える充足こそが、(私権充足に代わる)最大の活力源になっており、いまやこの期応充足の土壌から生み出された課題収束が、最先端の意識潮流として、顕現している。
さらには、このような共認収束の大潮流の中から、共認原理に則った共同体を志向する企業も次々と生まれてくるようになった。

つまり、この40年の間に、人々は、もっとも深い潜在思念の地平で、私権収束から共認収束への大転換を成し遂げたのである。
それは、社会の根底的な統合原理が、私権原理から共認原理へと転換したことを意味する。

物的な豊かさが実現された以上、私権収束⇒私権統合の社会が終焉し、共認収束⇒共認統合の社会、すなわち、人々が、状況を共認し、課題を共認し、役割や規範を共認し、それらの共認内容に収束することによって統合される社会に移行してゆくのは必然である。
現在の、意識潮流の先に人々が求めているものも、間違いなく共認社会(古い言葉で言えば、共同体社会)であると言えるだろう。
(中略、以上引用終わり)

 

私権時代は、一握りの統合者が社会を統合する時代であり、そのために統合者教育としての「帝王学」が必要な時代だったと言えます。

しかし、私権原理から共認原理に社会の統合原理が大転換した現在、人々の意識そのものが社会共認を形成し社会が統合されていく時代に移行していきます。(既に、TVや新聞など従来からの一方的な情報より、ネットによる共認情報(みんなはどう考えている?)が人々を引き付けています)

従って、私権原理に根差した統合者の帝王学ではもはや社会を統合できないことは明らかです。                          それでは、共認時代における新たなリーダーとは、どのような存在なのでしょうか。

私権社会の中で40年以上前から共同体企業運営を実践してきた「るいグループ」で追求された、共同体におけるこれからのリーダーの資質について、『共同体リーダーの不文律』(るいグループ:「なんでや劇場」(2012年12月24日)資料)を紹介したいと思います。

(以下引用)
■共同体の成員の不文律
◎男は、みんなの力になる。女は、みんなの役に立つ。
◎その為には、みんなに同化⇒その為には、みんなに感謝。
○自我発、私権発、評価発はタブー(∵自我は共認充足を破壊する。)

☆段取り能力がない⇒課題捨象⇒私権圧力・評価圧力にしか反応しない。
⇒☆私権は衰弱したのに、なぜ?
・’02私権観念の瓦解で、否定も要求も失速し、収束不全。’11原発と暴走で「もう元には戻れない」という判断。
・’02収束不全で過半は本源回帰・共認回帰に舵を切ったが、否定体質や表層体質は変わらない。
・私権社会(私権法制)の下では、自我(否定や要求)の生起は不可避だが、今や自我封鎖は可能である。従って、私権法制というより、否定体質や表層体質ゆえに、心底からみんなに同化できないのが、主原因。

・今や充足共認のみんな圧力の中で、否定体質の者は転換せざるを得なくなっているが、心底まで自己否定しない限り転換できない。そして、そこまで突きつめる者は少ない。⇒社会的な死に相当する圧力がないと変わらない。
・家柄や体裁を気にする親の教育のせいで、周囲の評価が第一対象となり相手そのものを対象化できない表層体質には、充足共認のみんな圧力は無効で、闘争系の成果圧力・評価圧力が必要になる。しかし、彼らは指摘された場合の言い訳回路も発達させており、周囲に正当化共認を形成するので、変わらない。
従って、周囲の正当化共認を許さない強い指摘圧力と対象直視の共認圧力が不可欠になる。

◎みんなの力になる⇒課題探索⇒対象直視。
○『みんなのため』と腹が固まっていないと、すぐに課題捨象に流れる。
○成果⇒課題に収束すると、人材育成という課題が捨象される。
・みんなの迷惑や不全より、課題を突破することの方が優先するという判断が働いている。
・しかし、常にそんなに余裕のない追い詰められた状態で、本当に最適の突破方針が出せるのだろうか?
・彼我の能力差がいかに大きいとしても、組織として勝ってゆけるか否かは、成員を戦力化できるか否かにかかっており、「成員をどう戦力化するか」という課題こそリーダーたる者の最大の課題なのではないか。
・たとえ、目先の課題を突破できても、成員を戦力化できないままなら、組織として勝てたとは言えない。そこに在るのは、目先の功を焦る自分、つまりは評価に囚われた自分であり、みんな捨象・自分優先の姿である。
・たしかに、リーダーたる者は、先頭に立って突破してゆかなければならない場合が多いが、それが功を焦る自分の評価発になっていないかどうかを省みる必要がある。30年間も先頭にたって突破してきたのなら、既に皆の評価は揺るぎなく固まっている。そのままでは、今後はそのエネルギーも枯れてゆく。改めて、皆に目を向け、皆の戦力化に取り組むことで新しいエネルギーも湧いてくる。

■人材育成と自分像
・「大した者ではない」と自覚している劉邦は、臣下の意見を取り入れたので、有能な士が集まった。
「自分しかいない」と自覚していた項羽は、臣下の意見を聞かなかったので、有能な士が集まらなかった。
○共同体のリーダーに必要なのは、「自分は大した者ではない」という自覚。
○何らかの「あるべき自分像」や「あこがれの自分像」に支配されて自分観念に囚われてしまった者は、その自分像→自分観念ゆえに「みんな」に同化できない。(みんなに同化すれば、自分像が崩壊してしまう。)
◎自分像は、自分の敵であり、万人の敵である。
◎己の現実を直視せよ。「英雄」「ヒーロー」どころか、中身のない自分、勝ててない自分、みんなの不全の元凶となっている「ピエロな自分」に気付くこと。そこに気付いて、みんなに同化せよ。同化すれば、充足が得られる。中身が得られる。勝てる自分になれる。
(中略 引用終わり)

 

劇場_1~1

 写真はこちらからお借りしました。

 共認時代の統合者とは、私権や自分評価を求める人材ではなく、徹底的にみんなに同化し、みんなの中から進むべき方向を見定めていくことができる人材となります。
みんなに認められたリーダーが、優れた同化力でみんなの意識を束ねながら、事実に基づく新たな方針を提示して共認形成を推進していく、そのような時代になるのだと思います。

今私たちは、人類史上初めて、共認社会をどう統合するかという未明課題に直面しています。
2000年続いた私権時代のように、私権体制の中で決まった統合者に社会や国家の統合を委ねる時代は終わったのです。
大衆も、社会の統合課題を統合者に丸投げして社会課題を捨象し、自分や家族だけの生活を考えていれば良いと言う時代は終焉します。
社会をどう統合するか、社会をどうデザインするかを考えるのは、統合者だけの課題ではなく、社会を構成する全ての人々が自らの頭を使っていく時代となります。

今回のシリーズは「帝王学」をテーマに追求してきましたが、これからの時代はもはや「帝王学」は不要であり、私権観念、近代観念から解き放たれた、誰もが認めることの出来る「事実認識」を万人が学ぶことこそが、社会を統合していくために必要なことなのです。

 最後に、共同体企業「るいグループ」における40年に渡る事実追求の実践により生み出された新理論 『実言論』を、みなさんにご紹介したいと思います。                                                                                   新理論に触れて、新しい時代の可能性を感じてみて下さい。
【実現論】