「マタギ」のはなし

マタギ」のはなし

みなさんこんにちは。夏休みいかがお過ごしですか?
山へ、川へと自然散策に、また帰省で都会を離れて田舎生活をされている方。今回は東北に今でも残る狩猟民「マタギ」の文化に触れてみたいと思います。

現在マタギの事を調べており、その途上に山岳民について書かれた書物があります。
宮本常一氏の「山に生きる人々」の著書の中に記載された「山と人間」という一説です。最初の書き出しが非常に興味深い内容です。

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>日本に山岳民とよばれる平地民とはちがった民族が存在したかどうかということについて、私は長いあいだいろいろ考えてみてきつつ、最近までそのまとまったイメージについて頭に描いてみる事ができなかった。しかしごく最近になって、やっとある推定を持つことができるようになった。そのことについてまずのべてみたい。
いわゆる山岳民が存在したであろうとおぼろげながら思うようになったのは昭和36年の夏以来のことである。その夏8月、高知から大阪まで飛行機でとんだ。海岸平野は水田におおわれており、その水田は平野から谷へと断絶することなく続き、はては山中の小さい枝谷の奥まで、木の根が水中に無数に支根を張っているようにのびている。しかし、いつかは谷奥で消えてしまう。谷の両側や奥は森林になっているが、その森林の上に畑がひらけ、また民家を見かける。この畑地帯にはほとんど水田を見いださない。畑地帯では畑のみを作っており、水田と畑作地帯の間には断絶がある。

これはいったい何を意味するのであろうかと考えてみたのであるが、このような現象は考えてみると四国山中のみではなかった。九州の米良、椎葉、諸塚、五家壮、五木などにも見られた景観である。とくに南九州は八重という名称の地がたくさんあり、緩傾斜またはわずかな平地をさすものでハイともいっており、そういうところに畑がひらけ、また集落も見られるのである。しかもこの八重部落は標高800メートルから1000メートルの山の中腹以上に分布し、そのほとんどが畑または焼畑を耕作して生活を立てている。そして隼人というのはもともと八重に住む人の意ではなかったかといわれている。

宮本氏の説では山岳民とは稲作をこばんだ民であり、標高800mから1000mで暮らし、漁労、狩猟、畑作で生計を立てていた民としている。そしてその民こそが縄文人の末裔ではないかと推測、指摘している。―――――――――――――――――――――――――――――

さて、本題のマタギの話です。

マタギは日本の伝統的な狩猟集団でかつては山立とも呼ばれていた。マタギの語源は鬼より強い又鬼、シナの木(また)に皮を剥いで利用する為、山を跨ぐように活動する為などの諸説があるが、真偽は定かではない。現在でも秋田県阿仁に数十人の集落があるが、かつては数百人に上ったという。
マタギは大きく分けて2つのスタイルがある。先祖から受け継いだ土地を守りつつ、同じ土地で農耕と狩猟を続けるマタギと、もっぱら域外にでかけて長期間狩猟の旅を続けるマタギというスタイルである。

【起源】
マタギの起源は平家説、源氏説がある。壇ノ浦の合戦で敗北した平氏が信州の飯田に入り、そこから日光に向かった一団がさらに北上し、秋田の阿仁に来たという説が有力。1650年ごろ、今から400年前の秋田県阿仁地域マタギの里とされている。阿仁には比立内マタギと打当マタギ、根子マタギがあり、比較的平地にある比立内と打当は里マタギ、険しい山の中にある根子は旅マタギと言われている。
マタギの根子地域のマタギが全国にマタギの狩猟技法を伝承させ、長野から新潟、山形、福島などにマタギの文化を拡げていった。
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マタギの狩猟】

マタギの狩猟はシカ、いのししなども対象とするが、尤も重要で本筋は熊の狩猟である。
マタギ達はクマを山神からの授かりものと信じているため、捕獲から解体まで、さながら厳かな儀式のように“礼儀と掟と作法”をもって“作業”にあたる。捕獲したクマは仲間内の食糧に供するほか、毛皮は敷物や衣類として、また内臓は一部食料とするものの、胆のうなどの医薬効果のある臓物は、乾燥させて薬として、あるいは骨は粉末として滋養強壮剤としてそれぞれ販売する。
繊細であって獰猛なクマは、闇雲に狩猟に出かけて行って捕獲できるほど簡単な相手ではない。マタギの狩猟方法は15人前後のチームを組んで役割を分担して共同作業で狩猟にあたる“巻き狩り”という方法で行われる。クマを尾根方向に追い詰める勢子と、鉄砲でとどめを刺すブッパ。それに一隊を指揮する責任者のシカリとに分かれ、沢伝いに尾根方向にクマを追い上げ、行き場を失ったあたりで単発の鉄砲をもって仕留める(決してライフルや散弾銃ではない。あくまで弾丸一発での勝負が作法であり、掟である)マタギはこれら“巻き狩り”の手法を全国に広めていくが、鉄砲の技術、クマに対する作法、その処理、活用方法など、既に他地域にあった狩猟の技術に比べてずば抜けていたと言われている。
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マタギ言葉】

マタギは卓越した狩猟技術だけでなく、その集団の結束においても卓越していた。
マタギ山に入ると日常使う里言葉に対して、山言葉(マタギ言葉)を用いる。これは山に入ると山の神を畏れ、尊び日常生活の「穢れ」をはらい、猟場を汚さないためと言われている。いたず(クマ)こしまけ(シカ)せた(イヌ)サンペ(心臓)キヨカワ(酒)などである。

この言葉は仲間以外には絶対に秘密にしているもので、村での日常生活では決して口にしない。女、子供には知らせてはならぬというのだ。初めて山に入る15,6の青年は先輩の使う山言葉を聞いて覚える。山では里言葉はつかえない。無言の行を続けなければならないのだ。もし使った場合は縁起が悪いとしてそのものには里に引き返らせるか、雪解けの水を頭から33杯も浴びせかけ清める。

このマタギ言葉は暗号のようなもので一種の特殊結社でもあり、その集団の結束軸にも繋がる。マタギのリーダー「シカリ」は儀礼や言葉、作法など伝統的な事柄を自ら隠居するか死期を予知して次のシカリに口承で直接伝える。
これら言葉や儀式を含めると、マタギとは400年前に突然現れたのではなく、元々原始狩猟民的な存在であった事が伺える。

【山小屋】
マタギの生活拠点山小屋の様子を示した一説を紹介したい。HP東北文庫の後藤興善の「またぎ談話」から抜粋する。
>山小屋の内部は真ん中に長く炉が切ってあって、その奥に棚があり山刀で荒彫した山の神の木像が安置してある。小屋に入る際にはまず火をきる。小屋に入ると背負ってきた重い荷物を下し、用意のお酒や餅を初め、すべての食品を山の神の前にうづ高く積み上げる
それからクサノミをワンバカシ(飯を炊いて)神様に供え、シカリが豊猟を祈り、その後で小屋入りの宴会を催すのである。飯を炊いたときに、どぶろくを仕込むことは決して忘れない。
小屋では毎朝垢を取り、山の神を礼拝し、挙借言語を慎む。座席などもシカリを最上位に、以下長幼の序があり、鉄砲、犬の位置もちゃんと定まっている。タテ(槍)は小屋の入り口の広場に、雪に突き立てて置くのである。山中の生活には多くの禁忌があるが、歌を唄うこと、炉端で人の後を通ることは極端に嫌われる。

深山の雪に埋め尽くされた掘建て小屋の中で、赤々と燃えている囲炉裏の火を前に、里の言葉を一切用いぬ夜の宴会は、原始狩猟民の姿を彷彿とせしめる。
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マタギの町の現在】

阿仁町の教師の数は驚くほど多い。全人口に占める教員の割合は4~5%近くになる。全国一の教師輩出の町である。さらに独自の起業を志す風習があるようで、この町出身の会社社長も多数いる。マタギの精神性、創造性が現在でも町の無形な力に繋がっているのかもしれない。

 

さて、マタギの話、いかがでしたでしょうか?現在もマタギ文化は残っていますが、口承で伝えられまた、その技術は感覚や直観に依るものにとなっており、書籍や文章で伝えられたものはありません。ゆえに今でもマタギの文化の内実は謎に包まれたものですが、言い換えれば文章として伝わらないが故に私たちは彼らの残してきたものを看取しなければなりません。それはマタギに限らず、縄文の時代から残された無形のモノ、すべてに対して言えることなのでしょう。時に歴史書に頼らずに歴史を振り返る試みをしてみたいと思います。

参考】宮本 常一 「山に生きる人々」
HP マタギの発祥の地と言われる由縁
HP 東北文庫 後藤興善 「マタギ談義」
堀場製作所 日本の感覚技術「マタギ