仏教に未知収束の志を観る~第3回 釈迦が求めた世界観とは

仏教に未知収束の志を観る~第3回 釈迦が求めた世界観とは

第3回はいよいよ今回のテーマの本丸、仏教の登場です。

仏教と言えば念仏、仏像、輪廻、祈りといったものを想像します。そして祈る先には仏が居て、仏とは超越存在であり、実在しない架空のものです。しかし、それら全て釈迦が滅した後の大乗仏教の教えです。大乗仏教小乗仏教は別宗教と言えるくらいに異なり、今回扱う仏教は小乗仏教、釈迦が開いた仏教の話です。

 【仏教が目指した世界観】
釈迦が開いた仏教はキリスト、イスラムユダヤといった一神教、そしてインドに最初に発生した多神教バラモン教とも異なる神の居ない宗教です。宗教というより科学や哲学に近い位相にありました。仏教とはひと言で言うと瞑想をもって悟りを開くことを目的とした宗教です。そしてその悟りとは世界を因果律で理解しようとする態度です。つまり、超越的な存在を頼りにするのではなく精神世界を追求し極める事であたらな世界観~世界を見る~を獲得しようとしたのです
科学するブッダ 
著書「科学するブッダ」では仏教の特性を以下のようにまとめています。

1.超越者の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明する
2.努力の領域を肉体ではなく精神に限定する
3.修行のシステムとして、出家者による集団生活体制をとり、一般社会の余り物をもらうことによって生計を立てる。

 1の特性についてさらに以下のように述べています。
この文章の中に釈迦の志が伺えます。

 >唯一絶対神宗教や、多神教宗教といった、超越者の存在を前提とする宗教との違いがある。仏教ではこの世界全体を司るような超越存在を認めない。世界は特定の法則に沿って自動的に展開していくのである。たしかに仏教の教えにはブラフマン梵天)やインドラ神(帝釈天)など、インド神話の神々も重要な存在として登場するが、それでも世界をコントロールするほどの超越者として現れるわけではなく、一般の人間より幾分すぐれた能力を持つ真面目な仏教信者という立場にすぎない。
つまり彼ら神々はすべて、ブッダという悟りを開いた人間の下位に位置する者たちなのである。そしてそのブッダにしても、決して世界の統治者ではない。ブッダとは世界に通底する法則性を見抜き、生き物がその法則性の中で真の安らぎを獲得する為の方法を自力で見出した人である。法則性を見抜いたからといって、ブッダ自身がその法則性を自在に操られるわけではない。万有引力を発見したからといってニュートンが神になれるわけではないのと同じである。この世にブッダが存在しようがしまいが、世界は法則に沿って変ることなく転変しているのである。(中略)
ブッダが悟ったのは、法則世界に束縛された状態にありながら、その中で真のやすらぎを得る為の悟りである。その道を見つけたブッダは、それを自分だけの専有とすることに満足せず、他の生き物たちにも告げ知らせ、できるだけ多くの者が同じ道を進むように呼びかけた。自分で道を切り開いた後でも、もう一度皆のいる所まで戻って、非力な隊員たちを励ましながら連れていくリーダーの姿なのである。

 d153f840241c316c64be97bb595d81a4こちらよりお借りしました

著者は仏教を以下のように述べています。特性の2についてです。
仏教が肉体の修行ではなく精神限定の修行である事が伺えます。

>仏教の教義を分析して行くときわめて神秘のすくない宗教である事がわかってくるのであるが、唯一自己の精神内部のみ神秘を認めている。それは反復練習の修行を繰り返すうちに起こってくる精神のレベルアップという現象である。
主に瞑想を中心とする仏教の修行を繰り返すうちに、我々の精神は次第に練り上げられていくのであるが、それがある段階にまで達すると急激にレベルアップする時がある。このようなレベルアップを何回か繰り返す度に、我々の精神は純化され、悪い要素すなわち煩悩を滅していくことになるのである。煩悩がなくなればそのせいで生じていた苦の感覚もまた消滅する。ひたすら自己の精神の改造をすることで苦の消滅をめざす、そこに仏教の本領がある。そしてその精神のレベルアップに関して、仏教は明確な説明を与えない。修行を続けているうちに、そういう時がおとづれるというだが、それがどのような原理でどのような条件下で起こるものかという点に関しての論理的説明はないのである。
したがってこの点に関しては「それはそういうものだ」と初めから無条件で承認した上で修行を始めなければならない。理屈ではまったく理解できない「悟り」という体験の真実性を信じ、それに身をまかせるという意味で仏教は宗教なのである。

 釈迦が見ようとした世界観とは何か、なぜその追求に至ったのか?おおよそ見えてきたと思いますが、さたに歴史的な流れを押さえておく必要があります。後にも先にも釈迦のような世界観の追求は他の地域ではほぼ発生していません。それはインドや釈迦を生み出した時代が他の地域とは全く異なる歴史的流れにあったからに他なりません。

【仏教が生まれた歴史的背景】
先の記事でも述べたようにインドは紀元前1800年ごろからアーリア人が入り、約1000年間かけてバルナ制度を構築します。この制度はバラモンを頂点とする階層で社会を形成しますが、他の地域にあるように単に武力で下の階級を押さえ込むというだけではなく、祭祀と絡め、さらにそれを経典「ベーダ」で念入りに根拠固めを行い、アーリア人という血統でがんじ絡めの社会を完成させるのです。中国や中東、ギリシャで起きた私権社会とはそこが決定的に異なっていました。アーリア人はバルナ制が完成するまではバンジャーブ地方に留まりますが、前10世紀から東へ東へ移動していきます。同時に各地に都市を作り、それぞれが独立国家を形成していきます。いわばアーリア人の集団においても勝者、敗者が出来、敗者は東へ移動しながら新たにアーリア社会を形成して行くのです。

この都市部にできたアーリア社会の中から最初に登場したのがウパニシャッドという運動です。仏教が登場する200年前、それまでの厳格な祭祀を中心としたバラモン教に異を唱える一派が現れます。仏教と近似した様相になるのですが、ウパニシャッドとはそれまでの祭式万能主義に異を唱え、肉体的修行を繰り返す中で欲念を捨離し、解脱を得るという世界観です。世界=宇宙と自らの精神を同一する境地を発見します。それが後に輪廻転生という世界観を形成します。このバラモン階層の中からバラモン思想を否定する思想が登場したというのは注目すべき事象です。つまり、私権社会とは最も虐げられた下位階層ではなく上位階層から社会に対する否定視、無常観、変化の試みが登場するのです。

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ウパニシャッド 万有内在の自我の図 こちらよりお借りしました

これは仏教も同様でした。釈迦はネパール地域の王族の子息で、バラモン階層では2番手に当たるクシャトリアに当たります。王族ですからクシャトリアの中でも相当上の位です。しかし、アーリア人ではないから、常に不当な圧力が加わります。既に完成されていた私権社会、生まれながらにして自らの行動が制約され自由が奪われる。これが釈迦が感じていた苦の正体であり、階層社会を構成する超越神の世界を無意味なものとして、それに変る思想体系を求めた原点でした。

さらに、仏教は既にバラモン的思想を否定していたウパニシャッド思想をも否定しました。ウパニシャッドが強いていた修行では真実は見れない、瞑想(精神集中)による発見しかないとしますウパニシャッドの「永遠」(輪廻転生)を「変化」(諸行無常と捉えなおし、自我と宇宙の一体化といった「アートマン(梵)」を すべての万物は繋がっているとした「空」という概念で捉えなおすのです。

哲学(ウパニシャッド)は私権社会を否定しただけの理想追求の思想でしたが、仏教は私権社会を一旦認め、一から事実追求へと向かった未知収束だったのだと思います。これは仏教が世界の法則性を見つけ出そうとした事と符合します。

 【釈迦の未知収束とは”精霊”を見た古代人の意識を使った】
釈迦の精神世界へ求めた可能性とは何か?最後にここを見ていきます。
釈迦が求めた精神世界とは釈迦自身が悟りを開いた後に言っています。 「これは決して伝える事ができない」。つまり言葉化できない世界なのです。この言葉化できない世界とは何か?それまでの価値観念では表現できない潜在思念を総動員した世界観なのだと思います。

人類は同様の経験を歴史的にしています。人類とは樹から落ちたカタワのサルです。本能でも、サル時代に獲得した共認機能でも適応できない自然外圧に対して全面的に不整合な存在です。不安で不安でしょうがない状態です。この圧倒的な自然外圧に対して古代人達は潜在思念と自然への注視によって追求に追求を重ね、精霊を見る(=自然の法則性を見つけ出す)事によってようやく意識が統合され、心が安らぎ、後の言葉や科学に繋がる観念原回路を作り出したのです。
これが人類の最初の未知なるものへの収束=未知収束の原点です。

そして釈迦が求めた精神世界とは同様に既にがんじ絡めの私権社会を否定や反で見るのではなく、それらを無きものとして、本来の世界とはどうなっているのか、どう繋がっているのかを見出そうとしたのです。釈迦の見た、全てのものは繋がっている=空の概念とはその結果でした。
究極的には釈迦が仏教で伝えたかったのは この世界観を感じ取る事、その為に瞑想する事だったのではないでしょうか。世界を掴む為に、自身の精神的な修行が必要で、瞑想の意義があったのです。

補足ですが、ウパニシャッドにせよ、仏教にせよ、この上位階層(エリート)から未知収束が登場したというのは注目です。現在、私権社会の綻びと共に未知収束の流れが登場していますが、それもやはり社会の統合者、権力の中枢のひとつ下に位置する知的エリート(社会活動家や経営者)から始まるように思われます。最も鋭敏に社会の不整合を感じとり、社会を捉えなおそうとしている層、いわばインドのクシャトリアのような階層から生まれてくるのではないでしょうか?