地域再生を歴史に学ぶ~第7回 誰のものでもない惣堂をなぜ作ったか

地域再生を歴史に学ぶ~第7回 誰のものでもない惣堂をなぜ作ったか

前回の記事では一揆を扱い、その本質にそれぞれが独立、自治した惣という共同体同志を結集する共同体を横串に統合するシステムであったとしました。つまり、中世以降の日本ではそれまでの共同体を広く横に繋ぐ体制を模索し、作り出して言ったのです。国家(朝廷)が中国から輸入した仮初めで、実態は混乱の極みをなしていた中世に庶民自ら立ち上がり、その体制化、運営がなされていったのです。

さて、第7回は江戸に行く前に少し閑話休題的な論点を入れておきたいと思います。
惣村の勉強をしていく中で出会った藤木久志の著書「中世民衆の世界」の中から惣堂が書かれてある部分を紹介し、惣堂を通じて、惣村の実態を別の観点から見ていきたいと思います。
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福山市の惣堂神社~こちらよりお借りしました。惣堂―自立する村より

惣堂は 案内なくて 人休む(1702年)

この何気ない、のどかな句に出会ったとき、ふと私は、少年の日に新潟の山深い里の村のはずれにあった、お堂の光景を思い出していた。そのお堂の縁側には、昼間のうちは、旅の薬売りや、子供たちが「ごぜさ」と呼んでいた、連れ立った旅芸人の女たちが、一息入れている姿があった。冬の夜などには村の若者たちが夜なべの藁仕事をもって集まっていた。そのお堂には、村の外からもさまざまな人々が立ち寄っていた。
この句の「人休む」は「惣堂」にひとときを憩う旅人たちの姿を、「案内なくて」は、そこで休むのに、何の断りも気兼ねもいらない、気安さをいったものに違いない。古代の村落に詳しい宮瀧交二も、ほぼ8世紀末から9世紀初に成立した「日本霊異記」の記事を読み解きながら、すでにその時代にも村の堂には旅人が泊まるような実態があったと見ている。
(中略)
惣堂というのは村人たちが「寄り合って建てた堂」(みんなのもの)のことで、同じ村の仏堂といっても「我等が建てたる堂」(自分のもの)つまり個人持ちの自堂とは峻別されていた。惣堂ならば、何も村の「方々」に断って借りるまでもない、というのが中世人の通年であった様子である。だから村人も気軽にそこを旅人に勧めたのであった。
つまり「惣堂」というのは「みんなのもの」でありながら、「だれのものでもない」と広く見なされていたらしい。十五世紀前半の頃、里人たちは村で「寄り合い」をもち、その共同の集会所として、一つのお堂を共有していたことになる。その惣堂は村はずれの「だれのもものでもない」川べりなどに建てられていた。
(中略)
惣堂はまた2つの村の共有にもなった鎌倉時代日本海側に所在したつるべ浦と多烏浦は山や海でのなわばり争いをすべて「中分」つまり半分づつに分ける、という事で和解した。中分というのは中世を通じてよく行われた、紛争解決のシステムであったが、2つの浦は村境にあった惣堂までも2つに分けることとした。
一つの堂を二つの村で分け合ったとか、一つの堂が二つの村にまたがっていたといえばそこは「誰のものでもない空間」であり、また「みんなのものであった空間」でもあった。さらに村境の仏堂は、それぞれの村の内外の悪霊を外に祓う境堂でもあったに違いない。村境の惣堂というのは、惣堂のあり方の一つの典型と見る事ができそうである。

(中略)
惣堂は村の祭や相談ごとの拠点であった。それより先、中世でも「惣堂」は農民が一揆を起こす土台だった、という見方も知られている。惣堂は早くから村人たちの寄り合いの場でもあった。惣堂は旅人のためだけではなく、村人の暮らしの日常にも、さまざまな場面で、大切な位置をしめしていた様子である。

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著者は淡々とこの惣堂にまつわる史実を拾い出し、その目的、位置づけを明らかにしている。
ヨーロッパではコモンズと言う、と呼んでいるが、日本的なそれはコモンズとは少し様相もニュアンスも異なる。私なりに解釈すると、惣堂とは以下のような位置にあったのではないか?

1.接する村との利害関係を調整する存在。対立ではなく共同関係を自然に育む為の物。

2.領主―小作の関係が崩れ、同時に私有意識が芽生えていた人々に私有とはまったく別のもの~共有=「誰のものでもない」の伝統を残し続けた。

3.村の共認形成の場=「寄り合い」を生み出した象徴的空間

4.閉塞、閉鎖しがちな共同体組織が常に外と繋がるように仕向けた仕掛け

5.旅人とは外からの叡智であり、惣堂に旅人を自由に泊めるようにした=惣村が外に開かれていた縄文人の慣習を引き継いでいる。

つまり惣堂とは惣村という濃密な共同体故にぶつかる構造的な課題を解消する役割を持っていたように思う。中世の共同体とは内的な結束と外部環境との連携、両輪させて存在するように変化していったのだと思う。そのような仕掛けをたくさん作り、惣村は地域共同体やお国といった社会的課題に繋がる次の時代のステップになっていったのではないか。