中臣鎌足は、来日していた百済王子・豊璋(ほうしょう)である!

中臣鎌足は、来日していた百済王子・豊璋(ほうしょう)である!

前回記事、「中臣鎌足は渡来人だった?!」の続きです。関裕二著「偽装!古代史」より引用、紹介します。中臣鎌足はずばり、来日していた百済王子・豊璋であるとの仮説です。

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中臣鎌足鹿島神宮の神官の成り上がりだった?

日本書紀」の神話の中で、中臣氏の祖神・天児屋命は、天の岩戸に隠れてしまった太陽神・天照大神を表に引き出すために活躍している。だから、中臣氏は由緒正しい一族だったことになる。しかし。中臣鎌足の出自は実に怪しい。「日本書紀」は、中臣氏の祖は神話の時代から活躍していると記す。が、肝心の中臣鎌足の父母の名が見当たらない。古代史最大の英雄の系譜がはっきりしないのだ。

くどいようだが、「日本書記」編纂時の権力者は中臣鎌足の子、藤原不比等なのだから、中臣鎌足の系譜を記さなかったのは、「うっかり」ではなく、恣意的だろう。そしてその理由は、「中臣鎌足の出自を明らかにすることは憚られた」からに違いない。つまり、中臣鎌足の素性を表沙汰にできなかったのか、成り上がりだったのか、どちらかと言うことになる。

一般的には、中臣鎌足は成り上がりだったと信じられている。しかも、東国出身だったのではないかと疑われている。理由は簡単なことで、平安時代後期に編纂された歴史物語「大鏡」の中に、中臣鎌足鹿島神宮茨城県鹿島市)の神官だったと記されているからだ。

(中略)

しかし、筆者は、これを藤原氏による「アリバイ工作」「目くらまし」と見る。始祖の正体をうやむやにするための小細工である。

ならば、中臣鎌足の正体を突き止めることはできるのだろうか。筆者は、中臣鎌足の正体を人質として来日していた百済王子・豊璋(生没年不詳)とみる。

 

●行方不明となった百済王子・豊璋の正体

豊璋とは何者なのだろう。そこで、豊璋にまつわる歴史を「日本書記」やその他の文献から、拾い上げてみよう。豊璋は義慈王の子で、舒明3年(631年)に来日している。義慈王は即位後、自ら出兵し、新羅を圧倒した。皇極元年(642)のことだ。翌年には、高句麗とともに、新羅を追い詰めたが、新羅は唐に救援を求めたため息の根を止めることはできなかった。

そして、斉明元年(655年)には、高句麗と靺鞨と共に新羅を攻撃し、戦果を挙げている。

負け知らずの義慈王は有頂天となり、酒池肉林を繰り広げ、油断してしまった。結局唐と新羅の連合軍に挟み撃ちにされ、降伏した。義慈王は唐に連行され、ここに百済は滅びた。斉明6年(660年)のことである。

 

ただし、百済滅亡直後、武勇に優れ。絶大な人気を誇る鬼室福信(きしつふくしん)(義慈王の従兄弟にあたる)が、百済復興運動を起こす。そして、日本に預けてあった豊璋を本国に召還し、復興運動の旗頭に立てたのだ。

ところが、豊璋は「王の器」ではなかった。鬼室福信の人気の高さが気に入らず、謀反の嫌疑をかけ殺してしまう。鬼室福信の死を聞きつけた新羅は喜び勇み、攻撃をかけてきた。そして、救援にかけつけた倭国の軍団も奮闘するが、唐と新羅の連合軍の前に破れ(白村江の戦)、百済は完璧に消滅した。

では、豊璋はどうなったのだろう。「日本書記」に従えば、豊璋は高句麗に落ち延びたという。ただし、「三国史記」や「新唐書」によれば、豊璋は行方知れずになったといい。「資治通鑑」は、唐に捕らえられたとある。情報が混乱するのは、豊璋が戦場から消えてしまったからだろう。そこに去ったかと言えば、日本である。

 

なぜ断言出るかと言えば、いくつか理由がある。まず第一に豊璋は倭国の水軍が駆けつけると「あとのことは頼む」と言って、そそくさと城をすてた。「倭国軍を饗応する」ためだというが、これは言い訳で、豊璋は祖国を捨てたのだ。その豊璋が、百済復興に執念をもやし、「あくまで戦い抜く」と決心し、同盟国の高句麗に逃れたとはとても思えない。第2に豊璋は30年もの間、日本で暮らしていた。しかも、祖国を裏切り倭国の水軍に紛れ込んだ以上、行くべき場所は日本以外に考えられない。もちろん、唐か新羅に捕縛されれば別だが、それなら、しっかりとした記録が残っていたはずである。