「弥生人=渡来人」説の大嘘

弥生人=渡来人」説の大嘘

今まで教科書では朝鮮半島から渡来した弥生人が稲作を始め、縄文人と混血しながら全国へ伝播したと教わってきました。

ところが、考古学の資料では、それを裏付けるものが一切存在しません。 それどころか縄文人は、世界4大文明よりも古くから、石器、土器、漆などの高度な技術を持っており、豊かな集団生活を送っていたことが明らかになりつつあります。

今回は、稲作は朝鮮半島からの渡来人が持ち込んだのではなく、縄文人自らが開拓し、朝鮮半島の米は逆に縄文人が持ち込んだという衝撃的な記事を紹介します。

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変水流体術http://hensuiryuu-taijyutu.seesaa.net/article/157402768.html

より紹介します。

縄文人弥生人の骨格の比較から「弥生人=渡来人」とする嘘

骨格や歯型の比較から、「弥生人=渡来人」とする説には、重大なデータの欠落がある。それは、縄文時代の終わりから弥生時代の開始時期にかけての、最も肝要な移行期の人骨がほとんど発掘されておらず、欠落していることである。

戦後から今日にかけても、短期間のうちに、欧米化した食生活で日本人の骨格は、アゴが細く面長となり、ラングイ歯が増え、身長も高くなった。千年以上も隔たりがある縄文と弥生時代ならなおさら、骨格や歯の変化は大きい。

食文化の改善から言えば、栄養価の高い米作りは、日本の方が朝鮮よりも三千年も早い。(半島の米作りは紀元前1千年頃、すなわち今から約3千年前に畑作物として、栽培され始めた。日本の陸稲は6千年前の縄文時代にまで遡る。稲作は遺伝子の研究から日本から朝鮮半島に伝播したことが、近年明らかになっている)

縄文時代から弥生時代にかけては、日本の歴史上最も劇的に人々の生活が変わった時期である。農耕が本格的に始まり、主食もドングリからコメへと変わった。いずれにしても、新たな人々の流入が無くても当時の顔型や体つきの変化は十分説明が付くという点で渡来説とは真っ向ぶつかるものだ」

菜畑遺蹟では「コメ以外にも、アワ、ソバ、大豆、などの穀物類に加えて、メロン、ゴボウ、栗、桃などの果実・根菜類も栽培していたことが判明した。中でもメロンが縄文後期に栽培されていたことは大きな驚きだった。さらに平成元年の発掘で儀式に用いたと思われる形のままの数頭のブタの骨が出土し、ブタが家畜化されていたことを裏づけた」 尚、この遺蹟からは石包丁、クワ、カマ、などの農機具、甕、壺、スプーン、フォーク、などの食器類などなどが出土している」

■考古学遺蹟から見る「弥生人=渡来人」説の嘘

日本最古の水田跡がある佐賀県の「菜畑遺蹟は渡来人が最初に入植したムラではありえない。何しろ、縄文人の人たちのムラである証拠は山ほどあるが、シナ大陸から渡来人がやって来たという証拠は皆無なのだ。証拠に基づいて語れば話は逆で、縄文時代から九州の人たちは朝鮮半島南部に進出し、日本との間を行き来していた」

「北九州に成立した水田稲作文化は急激に東へ波及し、その波及には、多くの大陸伝来の要素が欠落しており、まさに縄文文化の中に稲作だけが持ち込まれた状態を示している。また、この地域では土偶・石棒のような縄文文化独特の精神的道具を保持しているのである。従って、この稲作の波及には渡来人の関与はなかったと考えるのが妥当であろう」

「北部九州から漢代の大陸系集落や土器・生活用具が出土したと言う話など聞いたことがない。つまり、大陸から渡来人がやって来たと言うのは単なる推測であり、物的証拠は相変わらずゼロである」

考古学的資料から導き出される結論は・・・渡来者の数は1年に2~3家族ほどパラパラと来た程度であり、縄文人弥生人の社会の片隅で細々と暮らし、やがては文化的にも人種的にも倭人に吸収されていったという考古学的事実である。

縄文時代に、地理的・人種的・文化的・言語的に倭人としてのアイデンティティーを確立し、大陸から独立した文化を形成した倭人の歴史に、渡来人の関与は殆どなかったと言える。