あまりにも平穏な、権力者と人民の闘争=百姓一揆

あまりにも平穏な、権力者と人民の闘争=百姓一揆

虐げられた農民たちの怒りが頂点に達し起こるのが、武装蜂起百姓一揆である。最新の教科書にも「幕府や諸藩は一揆の要求を一部認めることもあったが、多くは武力で鎮圧し、指導者を厳罰に処した。しかし一揆は増加し続け、凶作や飢饉のときには全国各地で同時発生した。」と強調されるように、権力者と民間人の衝突の最前線とみなされている。

「江戸時代=百姓一揆の時代」とイメージする人も多いのではなかろうか。

また、百姓一揆といえば、打ちこわしをともなう乱暴なものであり、鎮圧せんとする領主側と血で血を洗う武力抗争に発展し、多くの命が失わ

れたと思われている。

しかし、そのような一揆像に訂正を迫る研究が進展している。

様々な事例を見ていこう。 

■鎮圧する側から見た一揆

1825年に信濃国松本藩で起きた一揆の記録「赤蓑談」には次のような記

録がある。

村人たちは一揆への対応を立てるために会議を開いたが、昨夜の騒動(一揆)が不意に起こったため、良き決断もできず、手を空しく見ている

より方法がなかった。一応の結論は「一揆はいつものようにお上に訴願に来るだろう。同じ領内の人間であるから、一揆を防ごうとして負傷や

過ちがあっては申し訳ない。なるだけ、穏便に取り計らい、無事を第一としよう。手向かいして争っては絶対にいけない。」というものだった。
ところが百姓の行動は激烈であり、百姓騒動は作法に外れ、罪なき人を恨み、咎無き家を打ち壊し、その他の家々や小店に押し入り、物品を奪いとった。これは強盗行為である。

もう一つの例を紹介しよう。
1811年、越前国勝山藩で起きた一揆の時に、家老の富山内膳が話した言葉である。

家老の席に連なる富山内膳が進み出てこう言った。「一昨日より城下に乱入した、乱暴狼藉を働いた。誠に法外至極のことである。第一、これは蓑虫の所作ではない。城下に乱暴するのは、悪党者である。どうやって、これを鎮圧するか。攻め寄せてきたならば、悉く討ち取るよりほかにない。早々に弓、鉄砲で討ち取る用意をせよ。

紹介した二つの資料からは、鎮圧する側から見た一揆観がみてとれる。
それは、村役人たちが「穏便に取り計らい、無事を第一としよう」と取り決めているように、一揆というものは本来、平穏であるべきという認識である。
一揆はいつものようにお上に訴願に来るだろう」とあるように、いつものように温和な行動をとるはずの一揆勢の行動が横暴になったことから「強盗行為」と批判しているのだ。

勝山藩家老の富山内膳も、一揆勢が乱暴に働いたから「悪党者」と激しく罵っている。さらに興味深いのは、彼らは一揆自体を否定していないことだ。
一揆勢が打ち壊しを行った際に「百姓騒動の作法に外れ」「蓑虫の所作ではない。」と批判している。つまり、一揆は違法ではあるが、暴動に発展しない限り、仕方ない行為として認識されていたのだ。

幕府や藩も、一揆に対して、即座に武力攻撃を加えることはなかった。
一揆の訴状を受け取ったうえで、説得したり、解散させるのが基本方針だったのだ。

■百姓たちの一揆

百姓側も一揆において鉄砲の使用を控えるなど、できるだけ穏便に済ませようとしていた。
「百姓が持つ武器は鎌・鍬より他にない」と呼号し、立ち上がった一揆もあった。
鉄砲は使おうと思えば使えたが、あえて使わなかったのだ。なぜか。その答えは1866年の「秩父一揆」のスローガンの中にある。

世の見せしめに悪者を懲らしめることが一揆の目的。あえて人命を損なう武器は持たない。

1833年播磨国の「加古川一揆」では「天下泰平我等生命者為万民」との大きな幟が立てられた。この一揆は、凶作による米の値段の高騰によって発生し、加古川流域の問屋や酒屋約160軒が打ち壊された。
そのような暴力行為の最中に立てられた幟は、意地悪く解釈すれば、違法を正当化するものだろう。が、一揆勢のなかに、「私利私欲ではなく、万民のため」という意識が存在していたことは確かだ。

百姓一揆の際に持ち出されたのは、鎌・鍬・鋤・斧・熊手・刀・鉄砲などであった。
特に鎌は百姓一揆のアイテムとして持ち出されることが多かったが、それは、打ちこわしの道具として携行されたものではない。1739年の「鳥取藩元文一揆」のスローガンにあるように、

「百姓の道具は鎌・鍬より他にない。田畑に出ようが、御城下に出ようが片時も離しはしない。」

という思いから、鎌を手にしたのだ。百姓としてのプライドが感じられる。

一揆の象徴として映画やドラマに登場する竹槍は、19世紀に入ってから持ち出された道具であるが、それを使って人を殺した事例はたったの2件に過ぎない。鉄砲も使われたが殺傷目的ではなく、銃声によって百姓を終結させたり、合図の道具として使用されたのだ。

以上見てきたように、江戸時代の一揆は「荷重な取立てに苦しめられた百姓が、領主への怒りから、止むに止まれず起こした反乱」のように解釈されてきた。これもまた階級闘争史観の犠牲となったわけであるが、これからは教科書の記述も変更にせまられるであろう。
両者は間違いなく、激烈な対立ではなく、穏便な解決を望んでいたからである。