「縄文時代、人は何を考え、何を築いてきたか」 第3回 翡翠の道を追う(後半)

縄文時代、人は何を考え、何を築いてきたか」 第3回 翡翠の道を追う(後半)

2週間前に翡翠の記事の前半を入れたのですが、それからかなり時間が経ってしまいました。私事で年度末の仕事が立て込んだというのもあるのですが、いけませんね。継続していきます。

さて、前回の記事では翡翠とは何か、日本列島の翡翠は硬玉と呼ばれ同時期の中国の軟玉に比べ硬度があり、加工が難しく、宝石としての価値ははるかに高いものでした。さらにその用途は装飾品からシャーマンの象徴だったり、それを保有する集落、集団としてのステイタスの表現にも使われたとされています。

また、翡翠を語る上で最も縄文的で現在の日本人にも通じるものとして工芸的な職人センター、さらに贈与を最大の価値とする独特の文化がありました。そしてその贈与を担ったのが運搬人です。舟や陸路を使い、その専門の運び屋が明らかに存在していたのです。

彼ら、運び屋とは何か、何の為に危険を冒して貴重な品々を遠方に運んだのか? 

後半は縄文で登場した贈与に焦点を当てて展開していきます。
以下著書「縄文探検隊の記録」の中から引き続き紹介してみます。対談は夢枕獏さんが問いかけ、考古学者の岡本道夫さんが答えるという形で進んでいます。

■ときに冒険を冒しながら、わざわざ翡翠を運んだ働きに対する報酬はなんだったんでしょう。
等価交換などという、経済的な物差しでは計れないやりとりだったと思います。珍しいものを贈る事が集団同士の友好や結束の証であったという考えに立てば、それを届ける者は単なる運搬人ではなく使者のような立場だったのかもしれません。縄文時代は、珍しいものを惜しげもなく分け与える行為そのものにステイタス性があったとも考えられます。
>のちの朝貢外交がそうですよね。小さな国が貢物を持っていくと、大きな国はより多くの返礼品を持たせて帰すことで同盟を保つ。
>関係性は違いますが、翡翠の装飾品はそういう役割を担う特別な社会的財だったという考え方もできます。そのやりとりの中にあったのは、おそらくギブ&テイクではなくギブ&ギブの精神でしょう。
>今も農家の人は季節の野菜をご近所に配りますよね。見返りとはまったく関係なしに。あれはまさにギブ&ギブの心。もらったほうは、今度はお返しに違う野菜を持っていく。あの感覚は需要と供給とは無縁のものですよね。物々交換のようで物々交換ではない。
これと同じような、贈与を前提とした交流が地域を大きく越えて存在した事を示すのが、つまり翡翠の流通だと

■どんな人が翡翠を運んだのでしょう。
漂流的な生き方を選んだ人たちだと想像しています。
間違いなくでしょう。現代社会にもいろいろな仕事や生き方があるように、縄文時代の社会にも狩猟、採集、漁労、もの作りだけでなく、もっとたくさんの形の生業や特殊技能を発揮する場があったのではないでしょうか。旅をして暮らしていたような男もいたと考えないと、翡翠の移動の仕方などはななかか説明が付きません

翡翠(=モノ)だけだったのだろうか?
翡翠のようなものを運んだ人たちのことを想像する時に、考えなければいけないのは先ほども話題になったように、もののやりとりは必ずしも交易ではないということです。
広域流通があったという一面だけをすくい上げ、縄文時代から商人がいたと結論づけるのような経済に軸足を置いた史館には反対です民俗学者宮本常一も書いていますが、かつて人々に歓迎されたのは、その地で得る事のできない貴重な物資だけではありませんでした。何よりもありがたがられたのは情報です。他地域の動向のようなニュースから、はやり病の話、よく実る木や草の品種や技術などの情報。さらには近隣のあの村には気立てのよい若い娘がいるとか、力持ちの男がいるとか・・・。外の情報をもたらしてくれたのは、常に旅人です。富山の薬売りがよく知られた例ですが、こうした情報通は少し前までの日本ではとても大事にされたものです。
>つまり翡翠のようなものを携えて長い旅をする人が持つ情報はとびきりの価値があるので、立ち寄る先々で喜ばれた。泊まる場所も食事も、まったく心配することがなかったかもしれない。

翡翠を運ぶ一団とは・・。
>何人かのチームで動き、ある拠点からは一人旅になる。翡翠を届けるという任務を終えたらまた合流し、集めた情報を共有しながら出発点に戻る。翡翠を運んだ男たちのイメージは僕のなかではまだぼぅっとしたものでしかないですが、縄文社会の中ではかなり重要視されていた一団であっただろうと思うのです。少なくとも“もの”を仕入れて転売するような商人ではなかった。日用品については、行商のような役割を担った別の人がいたかもしれません。

※私はこの話を遠い縄文時代の話として捉えたくありません。

今や世界中が金貸し経済の中で出口を失い、活力を見出せない中、縄文時代に登場した集団が互いに争わず競う“贈与”というやりとりは実に人類らしい発展した仕組みだったのではないでしょうか?いかに“いいもの”を提供するか、それはまさに追求時代の次代にこそ相応しい活力を生み出す仕組みだと思います。
その上で、生きた“情報”というのは単にスマホやパソコンで仕入れるものではなく、それぞれの集団や人々が生きていく上で重要な”口コミ“が欠かせない。このブログもまたその一役を担えればと思い、重要な事を仕入れ、提供したい・・・そういう思いが生まれてきます。