日本人の活力はなぜここまで衰弱したのか?~全ては縄文体質にある。

日本人の活力はなぜここまで衰弱したのか?~全ては縄文体質にある。

先日の実現塾で語られた表題の内容が非常に印象深い。「全ては縄文体質にある」、この認識は現在の日本の状況、日本人の意識を読み解く上で大きな鍵になるのではないか。
という事でこのキーワードを元に現在の状況、現在に至る経緯を読み解いていきたい。

日本人の活力は今や世界最低である。意欲も追求心も失い、生きているのに精一杯の状況、これは小中学生でさらに顕著で、本分である勉強はもはや肉体を削る苦痛でしかなくなっている。社会人も同様で、働き方改革などといって仕事への意欲を殺ぎとられ、世の為、人の為に働く日本人の本分は大きく後退し続けている。これらに至った要因は明治以降に浸透した西欧観念、西洋科学などが要因であるが、だとすると同じようにもっと濃くそれらの観念に染まっている西欧はなぜ日本ほどひどく低下していないのだろうか?

前回の実現塾ではこの疑問から追求が始まった。
西欧観念は江戸時代の末期に黒船の来航と共に武力で脅され開国と共に取り込まれた。それは西欧から押し付けられたというより、日本人自らが西欧に追いつくために取り込み、自ら身につけていった。西欧に追いつけ追い越せで取り込んだのが自由平等、民主主義に代表される西欧観念であり、西洋科学である。追いつけ追い越せなのでそれが正しいのか間違っているのかの吟味はなされず、丸呑みで取り込んだのだ。そういう意味で目的はあくまで技術力の上昇、経済力の上昇にあり、その為に西洋の知識を借り物として150年前に取り込んだのである。
学校教育も軍隊も憲法も、さらに婚姻制度まで、その中で超短期間で日本に定着した。定着の際の軋轢は当然あり、学校にいかない生徒が大量に出たり、離婚が現在よりはるかに多かった明治時代というようにマイナスを含みながら社会制度化されていった。

日清、日露戦争に勝利し、第一次大戦も勝利、右肩上がりの経済成長を遂げた日本は第2次大戦でアメリカと正面から衝突する。しかし借り物の技術、さらに資源があまりになかった。あっという間にメッキが剥がれ、日本人の実力が未だ西洋に届いていない事を知らされる。
しかしその後の戦後経済の復興はまさに目を見張るものがありわずか戦後35年で世界一の経済大国に上り詰める。そして70年代先進国では真先に全国民の貧困の消滅が実現した。

しかし戦争時代、復興時代通して使ってきたのは西欧観念ではなかった。これまで1万年に渡って培ったきた日本人全てに浸透していた縄文体質こそが、西洋の借り物の技術を利用して頂点まで上り詰めた動因源だったのだ。縄文体質故に西洋に勝てた。お国の為、世の為、人の為、日本人を前に前に進めてきたのは、自分の給与や地位の為・・・といった奥にそういった志や目的意識が明確に人々の共通意識にあり、潜在思念発で頭脳も体も使ってきた。

さらに明治時代になぜそれがスムーズにできたか、その鍵はその一つ前の時代、江戸時代にあった。江戸時代とは実は縄文体質の集大成の時代だった。世界で最初に100万都市になった江戸は土木技術から建築技術まで社会のシステム、教育レベルまで全て世界最先端であった。その江戸時代があったからこそ明治以降の急速な発展は可能だった。そして80年代、豊かさ実現から経済がバブル化し、バブルの崩壊を向かえて日本人は活力を失い、収束先を失った。以後30年間、人々は物質的な豊かさと引き換えに精神的にはどんどん衰退していった。2011年東北大震災までは。東北震災で人々は奥深いところで気がつき反転し始めた。しかし現在もその反転の勢いは迷走中である。

なぜこんなに早く一気に活力を失って行ったのだろうか?それは西欧観念が借り物であり、経済の為に取り入れたに過ぎない~である。さらに西欧観念の奥深い個人主義という部分が最後の最後で共同体意識を紐帯とする縄文体質と大きく不整合を引き起こしたのだ。

西洋社会も同じように経済は低迷し、近代科学はメッキが剥がれてきている。しかし、彼らはその根本にある神の存在や個人の存在、それらを統合するキリスト教世界だけは疑わないし、疑うことができない。何よりその歴史は日本の20倍以上ある。なので、そこまで一気に活力を衰弱さえずに維持されているのである。しかし同時にそれは今日の人類社会を滅亡に向わせた最大の誤りである個人や神を中心とした西欧観念を解体できない滅亡種である事も示している。最後の最後までその根本的なおかしさに気がつかないのだ。

縄文体質を持つ日本人は、故に人類のとっては救いであり、人類滅亡から救い出す最大の可能性なのである。最も活力をうしなったのもまた縄文体質故であり、その縄文体質こそ最大の可能性であると言える根拠がそこにある。そして縄文体質を持った日本人が何をすべきか。これは現在の日本人が新しい可能性に一気に転換しきれない理由がある。縄文体質は集団を統合する観念としては優れている。しかし、それが集団を超えるレベル、さらに国家レベルとなったとたん、どうしていいか見えなくなる。それは縄文体質を使って超集団をどう統合するかという全く新しい課題に向わなければならないからだ。そしてそれは徹底した事実の共認とそれに導かれる新しい観念が必要になる。今どこからも誰からもその萌芽が出ないのは過渡期だからだけではない。その難しさ故でもあり、それを紡ぎだす集団がまだないからである。

ここから先は縄文体質を持った日本人がその可能性にいつ気がつき、いつ活力に転換できるかという時代予測になる。しかし加速してブレーキが利かなくなる人類滅亡まで、後20年とか最大でも50年、もうそう時間は長くない。

※実は日本人が借り物の観念を使ったのは明治時代だけではない。2回目だった。
さらに遡る事1500年前、弥生時代に同様の時代があった。朝鮮半島から大量に流れ着いた人、物、知識、技術だ。縄文人は私権制度、私権意識という物を借り物として取り込んだ。次回はそれを深彫りしてみたい。そこからも突破口が見えてくるかもしれない。