第6回。地震。災害大国日本の歴史-4

第6回.地震・災害大国日本の歴史―4

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関東大震災で炎上中の警視庁
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地震・災害大国日本の歴史―3に引続いて近代(関東大震災)~現在(阪神・淡路大震災)を見てみます。
以下は緊急企画 「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか!」第3回.地震・災害大国日本の歴史―1からの引用です
>災害には、台風、地震、噴火、津波、洪水、旱魃、長雨、虫害、飢饉、疫病等があります。これまで日本人は幾多のこれらの災害を乗り越えて来ました。このDNAが今の日本人に刻印されています。しかし、近代市場社会以降の日本人は、先人の教えを忘れてバブルを作り上げ、経済至上主義・利便性第一を追求して来ました。その結果、大切なものを見失ってきたように思います。それが何かを過去の記録に同化する中で見付けたいと思います。
今までの記事はこちらです
緊急企画 「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか!」 プロローグ
緊急企画 「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか!」 第1回 日本人の縄文体質~有事に現れるその共同性と本源性
緊急企画 「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか!」 第2回海外から見た日本人の共同性
緊急企画 「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか!」第3回.地震・災害大国日本の歴史―1
緊急企画 「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか!」第4回.地震・災害大国日本の歴史―2
緊急企画 「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか!」第5回.地震・災害大国日本の歴史―3
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関東大震災時の横浜市
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●近代(大正時代)
>日本災害史(北原糸子編)を参考に記載します
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関東大震災 大正12年(1923年)9月1日
 多くの書物他が出ているので地震の内容は以下を参照願います。ここでは災害時の国や庶民の動きを見てみます。尚、日本災害史(北原糸子編)では、横浜市中心の記載より、本ブログも横浜中心になります。
戒厳令と陸軍の出動
 震災の翌日、9月2日に東京市および東京府五郡に戒厳令が施行され、また4日にはその適用範囲が東京府全域と神奈川県に広げられた。 
 陸軍では、全国の各師団から連隊が神奈川県に派遣されるが、その全容は歩兵21ヵ連隊他総勢5万2千人余りであった。主要任務はは官がの警備、配給所の警備などであり、工兵隊や鉄道連隊などの専門部隊は道路上の残骸や瓦礫の撤去、橋梁の応急修理、鉄道線路の復旧、危険建造物の爆破撤去などのライフラインの復旧に尽力した。10月末までに鉄道を復旧開通できたことで、避難者の移動や援助物資の陸上輸送がスムーズに行われ、その後の救援事業が大いに進んだ。
・海軍艦船の救援
 連合艦隊や呉、佐世保舞鶴の三鎮守府所属の軍艦45隻、特務艦21隻、駆逐艦63隻など総計150隻、乗務員3万人が動員され、食料をはじめ救援物資の運搬や、6万人もの避難民の海上輸送に従事した。
・警察の活動 
 軍人に比べ警察官の方が勤務地に家族と同居している場合が多く、本人ばかりか家族や自宅が罹災した警察官が少なくなかった。そのため震災直後の活動能力は格段に低下していたといえよう。流言蜚語が飛び交い、食料の略奪行為なども見られても、救援部隊の到着までは組織的な警察活動がなされず、地震発生直後は無秩序な状態であった。9月3日の群馬県からの応援警察官をはじめ、10月30日までに兵庫、山梨他6府県から述べ1029名もの警察官が派遣され、罹災者民の救済・警備・治安維持に従事した。
 他府県からの助力を得て、神奈川県警察も機能しはじめた。戒厳令施行中に神奈川県内で検挙された犯罪件数は1730件、そのうち80%が窃盗犯で、その多くは焼け残った倉庫などから食料品などの物資を窃盗したもので、この背景には食料や物資に絶対的不足と、一部の救援物資の供給がなされなかったことや、震災後に物価が騰貴したことなどの事情があり、犯罪の発生はやむにやまれない事情であった。
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靖国神社に設置された仮設住宅
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道府県の救援
 関東大震災の情報の伝わり方から見てみる。関西でも、震災後に東京との無線が不通になるなど異変を感じていた。知るのは12時間後で、神奈川県警察部長が横浜港沖に停泊中のコレア丸から大阪府知事兵庫県知事などに向けた無線電報で知った。大阪府は詳細な情報を得るとともに臨時の組織を設置して救援活動に着手した。その他の道府県は9月2日に入ってからすぐさま救援活動を開始する。中でも最も大規模な活動は関西・中国・四国の府県からなる関西府県連合震災救護事務所だった。 9月5日に大阪府知事の提唱で、大阪、京都、兵庫、滋賀、奈良、和歌山、高知、愛媛、徳島、香川の知事が大阪で会合し、協同して京浜地域への救援事業を実施すること決定した。最終的には、2府11県の組織となった。活動は、救援物資の調達、その物資を組織的に海上輸送すること、また医療救護班を派遣、京浜から避難してきた被災者の収容と救護、京浜への上京者の制限などの人々の移動を管理していた。
 救援物資は、米・醤油などの食料品、衣服や寝具、履物などの衣料品、バケツやマッチといっいた日用品などを多かった。家屋を焼失した罹災者を収容するためのバラック小屋が、東京300棟、横浜200棟、付属便所250棟が150万円で大林組の請負で建設された。又、横浜市に1000人収容の仮病院を建設して罹災者の治療に当たった。経費をみると216万5618円で、大正10年の神奈川県歳入歳出決算額が約381万円であったことからみても、その金額の大きさが見て取れる。
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日本災害史(北原糸子編)を参考にした引用終わり
・震災復興について
ここから引用
 山本権兵衛首相を総裁とした「帝都復興審議会」を創設する事で大きな復興計画が動いた。震災の約4週間後(9月27日)、帝都復興院が設置され、総裁の後藤新平により帝都復興計画が提案された。それは被災地を全ていったん国が買い取る提案や、自動車時代を見越した100m道路の計画(道路の計画には震災前の事業計画であった低速車と高速車の分離も含まれていた)、ライフラインの共同溝化など、現在から見ても理想的な近代都市計画であったが、当時の経済状況や当時の政党間の対立などにより予算が縮小され、当初の計画は実現できなかった(後藤案では30億円だったが、最終的に5億円強として議会に提出された)。
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引用終わり
以下は日本災害史(北原糸子編)を参考に記載します
 その状況下で、横浜市の復興は、横浜の政財界の強力な牽引力により推進された。市議会は、帝都復興事業に横浜を含めること、横浜港を急速に修築し貿易の復興をはかること、横浜市の都市計画事業を国家予算にて実施することを基本とした。帝都復興院は横浜も事業に含めることを明言したのを受けて、横浜市当局と財界は一致協力して復興にあたった。
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引用終わり
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・庶民の動きについて
関東大震災 災いは忘れた頃にやってくるから東京の庶民の動きを記載します
地震火災をまぬがれた場所
中略
 関東大震災で、火災を免れた地域はあった。まず、浅草境内にも10万ほどの避難者があつまっていた。周囲は火の海であるが、ここに入る人は、徹底的に荷物の搬送は禁止されていて、充分これを守ったから火災から逃れられたのである。そして、境内には池があったので初期消火に適していた。これを指導したのは鳶頭の馬場斧吉とその組手、8名である。火の粉のなか、この人力によるバケツ連携搬送は見事で、二天門、被間稲荷、観音堂も無事、残った。
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引用終わり
江戸時代の村落共同体の教えが街と人の命を守りました。逆に言えば、都市化で村落共同体が解体された結果、初期消火が機能しないことで大災害になったともいえます。今後の大きな課題ですね。
 震災直後の避難の大変さについての話しはよく聞きますが、その後の庶民の動きが見えないので、少し関東大震災から離れて以下の村落共同体が残る三河地震の事例を見てみます。
1945年三河地震の災害地社会の変遷と被災者心理・行動パターン
~災害発生後1000時間 すまいとくらしの再建~
を参考にしました
 以下は要約の一例ですが、参考資料には、震災時の生々しい生活(活路)が記載されているので、是非一読願います。当時、避難施設はなく、各々の家族が冬でもテント小屋や、わら小屋(地震小屋と言われた)を農家の人は簡単に作って避難生活をしている。炊事は協同し、壊れた家は、親戚などの協力で少しずつ修理・修繕してゆく。解体時に出る廃材は使えるものは再利用する。倒壊した家は、2間の家から始まり、増改築してゆく。吉村順三という生活感を大切された素晴らしい建築家が、生活に合わせて家は増改築すると話していたが、これは震災時も同じだとわかりました。言いえてみようですね。
 村落共同体という安心感の中で、各々が自助努力しなが生きることが基本にある。そして常に生きるという同じ課題をもった仲間の活動を互いに毎日見ることで更に活力上昇していったと思う。現在のあって当たり前と思っている避難施設のありようも再考する余地がありそうです。
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三河地震 ここからお借りしました
三河地震 1945年 昭和20年1月13日
 鈴木敏枝さんは昭和4年、沓名美代さんは昭和8 年生まれの姉妹。愛知県碧海郡明治村和泉集落に住んでいた。1944年12月7日の東南海地震発生時には,美代さんは国民学校の6年生でお宮参りをしていた.男子がとっさに石灯篭につかまったところ,灯篭がゆれはじめたため先生が「灯篭から離れろ!」と叫んだ。一方、姉の敏枝さんは家事を手伝って畑にいた。中腰になりふらふらになりながら家にたどり着いたころ、寝泊りする本宅(母屋)が傾いてしまっていたために、父親が「こんな傾いた家で寝泊りするわけにはいかない」と、本宅の横にあり、普段は寝泊りしない横屋の座敷に移って生活することになった。
 1945年1月13日の三河地震は深夜3時30分過ぎの地震であった。本宅は全壊したが寝泊りしていた座敷は無事で、家族は助かった。小学生だった美代さんは逃げ込んだ藁(わら)小屋の中で毛布をかぶって震えているしかなかった。外へ出た時の壁土のほこりとにおい、「生き埋めになった人の「助けて,助けて」という人の泣き声は、今でも鮮明に覚えている。助けにいきたくても、自分の家がそれどころではなく、ガレキの山で道路がふさがれてしまい、助けに行きようがなかった。突然、隣のおばさんが「火事だ」と叫んだため姉の敏枝さんがバケツを持って駆けつけたところ、仏壇が月明かりに照らされて光っているだけで事なきをえた。
周囲の家はほとんど全壊した。毎日、寒空の下,着のみ着のまま素手・裸足のままで、朝から夜まで片付けをした。親戚なども同時に被災したため、片付けは誰かに手伝ってもらったり、物資をもらったりしたことはなかった。周囲で1件だけ倒れていない家があった。大工の腕が悪く、家が自立しないために筋交いを入れていた家だった。木は全部燃料とし壊れた瓦は道路の地割れの中に捨てた。
和泉集落では80数名が亡くなったが、火葬場の煙突が壊れ、あまりに多くの人が一度に亡くなったため火葬は出来ず、穴を掘って集団で土葬した。火葬しなかった理由には、軍の基地が近く頻繁に空襲警報がでるような情勢だったことも影響したかもしれない。
 家が倒壊したため、炊事は数家族が共同で行い、露天で一緒に食事をした。農家のため食料はあり、井戸水は涸れなかったため水の不自由もなかった。地震で死んだ農耕牛を食べることができたのは子供心によい思い出である。1週間くらいして落ち着いてきたときに、お座敷のふすまや雨戸を外して四面に囲い縄でしばって「ふすまの家」を作った。すき間から雪が家の中にまで降ってきてたいへん寒かった。数週間したときに、父親がお風呂(五右衛門風呂)を屋外に作った。近所のひとたちも入りにきて行列になった。お風呂に入ったときに体も心もほっと一息つくことができた。
1 ヶ月くらいしてきれいに片付けたあとに、藁(わら)などで小屋を作った。農家なので藁はあったし、家を作るくらいは当時の農家の人たちの技術からするとお手のものだった。これらの小屋は「地震小屋」と呼ばれた。工作隊が家を建ててくれるまではそこに住んでいた.粗末な仮の家とはいえ,雨露をしのぐことができるところに久々に移れるため,とてもうれしかった記憶がある.
学校は3ヶ月くらいして再開した。学校も地震で全壊したために、空き地に縄を張ってクラスを作り、先生は首から黒板をかけて授業した。
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引用終わり
%E6%9D%B1%E9%9B%BB%E8%AC%9D%E7%BD%AA.jpg東電謝罪会見 ここからお借りしました
関東大震災時のお上と庶民の動きについて
 江戸時代の「お上」と「村落共同体」の緊密な関係は、明治時代に、法治国家という名の下に、利権をめぐる、軍閥、政治閥、産業関連の抗争で分断されていった。
 関東大震災時の政府(お上)は、帝都復興院を速やかに立ち上げて震災復旧を目指した。又、新たに登場した軍や警察も震災翌日から救済に従事した。更に、道府県(かつての藩)が協力して速やかな救援を行ったことは評価できる。しかし、軍閥により帝都復旧計画が骨抜きなったことを見るとお上のトップは、明治時代の利権闘争の延長にあったといえます。
 興味深いのは、明治という新たな社会は、村落共同体をバラバラにしていく一方で、徴兵制による軍、廃藩置県によって生まれた新しい行政、警察、殖産興業の号令のもとに各地から都市に人があつまった。そこに集う普通の人は村落共同体の相互扶助の気持ちを維持していることから、皆は助け合いながら新たな生活に向かったと思う。その「助け合おうとする意識」が、関西府県連合震災救護事務所の活き活きとした活動を生み出したと思われる。又、政・軍・財界のトップの動きを見るとそのリーダーシップは大したものです。
未曾有の自然災害は、お上のリーダーシップを軸に、バラバラになった人々の意識を、全国的な助け合いに収束させたといえそうです。:roll:
一方、庶民は混乱しながらも、いつものように災害を受け入れた上で、したたかに生き抜いたようですね。
 現在と比べると国は、祈祷を通じて国民の安寧を祈った平安時代のお上とはほど遠く、バラバラで嘘にまみれ、リーダーシップのかけらもない状態です。県レベルは国の指示を待つ状態で、市町村レベルでようやく独自の判断が出てくる状況です。国民の意識は目に見えない原発問題を抱えつつも、多くの人が亡くなった大災害の映像を目の当たりにして、「助け合い」に収束していると思います。どうも、国民の心底は変らないが、明治時代から歪んで来たお上は、ここに来て普通の人の気持ちに同化出来ずに混迷を続け、法治国家という体制(利権)に拘り、全く機能しないことが明確になって来たと思います。
○最後に阪神・淡路大震災 平成7年(1995年)1月17日を扱います。多くの記事が書かれているので、ここでは時代背景と、お上側と市民の動きをダイジェストでみてみます。詳細はこちら
を参考にして下さい。
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金の卵が上野駅
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・農村から都市への大量の人口移動→村落共同体の解体から現在まで
 敗戦後の昭和29年(1954年)にMSA協定(後に余剰作物処理法:PL480)を米国と結びます。この協定では、日本は米国の農作物をドルではなく円で買うこと可能とされ、しかも米国は農作物を売って得た円を、日本の経済復興や軍事産業の育成などに使うことが決められていた。これは日本の農業の自給率DN分の費用て、日本の工業製品を米国が購入することを意味する。言い換えると農業から工業化に舵を切り、高度経済成長時代に突入し、農村人工が都市に大量に移動し、村落共同体が解体されていったことになります。 
 都市に出ることで集団から個人にバラバラにされた人々は、自らの権益の及ぶ範囲を獲得する私権社会(=私権闘争)に駆り出されてゆきます。しかし、1970年にはGNPが米国につぐ世界第二位となり、一億総中流となって、貧困を脱しました。以降、バブル~バブル崩壊を経て平成7年の阪神・淡路大震災を迎え、最近のリーマンショックから市場経済の限界を迎えています。
 この間の意識潮流は、‘70年貧困消滅から、私権社会は衰退し、市場経済の限界から、現状は共認充足(人の役に立つこと)が最大の活力源の時代になっています。
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阪神・淡路大震災 ここからお借りしました
○震災時の状況を見て行きましょう
・お上と市民の意識状況を見てみると
 震災前に都市直下型地震の危険性を訴える記事が出ていた。それを受けた神戸市は、「都市計画を見直し、震災時の避難場所設定どの総合的な対策を立てる」と方針を表明したが、対策を講じた痕跡はない。高度成長からバブル期を迎えつつあった行政、企業は、空港など大型プロジェクトの推進に支障をきたしたり、生産性の足を引っ張るような防災対策には、積極的でなかったというより、無視もしくは拒否しるのに近い対応だった。 市民も、猪名川群発地震を不気味に感じた人に少なからず反応があった程度でした。両者に共通して言えるのは「無防備性」です。
・無防備性はなぜ、生まれたのか?
 貧困が無くなった後も、高度経済成長などを通じて科学の進歩が自然災害を超えたかのように錯覚させ、原発地震予知他の科学技術がより豊かで安全な社会を生むと誤魔化して、政治家、官僚、経済界、科学者、マスコミは利権社会を延命した。そのために、利便性第一という幻想を追求し続けた。その結果、過去の災害の歴史事実を忘れ、大地震の予測に寄与しない地震学者や、人類史で最大の事故を起こした原発関連他の学者(とその関係者)に途方ない予算を与えていただけだった。利権追及に邪魔な「自然への畏怖」を利便性追及で誤魔化した(市民は誤魔化された)結果、「無防備」になったといえそうです。
・お上のリーダーシップは
 震災3日後の村山富市首相「何分初めての経験でもございますし、早朝の出来事でもございますから、幾多の混乱があったと思われまする」と当事者意識が欠落した発言をしている。被災直後の数時間は救援にとって最も重要な時間だったが、貝原俊民兵庫県知事(当時)から自衛隊への災害派遣要請も警察からの報告が遅れたことと、座して待ったことで行われなかった。
・高速道路や新幹線橋脚といった巨大土木構築物の倒壊
 「想定外」と表現されながら、もろくも倒壊した。「安全神話」は一瞬に崩れ去った。index1%5B1%5D.jpg
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・復興支援について
 住まいの再建に対して、被災地の各自治体は、「復興土地区画整理事業」と、「復興市街地再開発事業」という法律一辺倒の策を打ち出した。寝耳の水の計画であり、家を失ったうえに土地まで取られることから被災者は強い反発をした。被災10年を経ても進捗率50%の状態が続く。
・復興費の使途について
 インフラ整備に10兆円かかるといわれたが、16兆円の資金が投じられたようだ。この16兆円の配分は、生活関連より、インフラの復旧に数倍の投資があった。池田清「被災地は再生したか」から引用、
>神戸市では、生活支援:6.6%、復興対策:63.1%、災害復興:30.3%(平成6~16年度)
引用終わり
うまみに繋がらない被災者には資金が回らず、逆に予測以上の金額が利権に関係するインフラに回っている。
・人間復興への挑戦
 個人財産への公的支援は認められないという、国の基本原則を極めて厳格に解釈したために、被災者の暮らしが容易に回復しなかった。しかし、平成10年に「被災者支援法」が成立し、「個人補償」はしない」という国の姿勢が変った。
・大都市におけるコミュニティーの崩壊
 直撃直後の大混乱の中で、まず地域そのものが救援、救出活動をしなければならない状況に追い込まれたとき、機能するのがコミュニティーだが機能したとは言えなかった。このほか、淡路島においては、消防団および近隣住民が中心となった救助活動が行われた。特に、北淡町においては発生から約11時間で捜索救助活動および遺体収容が完了している。建造物や人口の密度を勘案すれば神戸市街地とは救助に要する時間を単純に比較はできないが、地震発生直後において近隣住民などの地域コミュニティーによる救助活動の重要性を示している。
・ボランティア活動について
 地震直後に現地において、被災者支援のボランティア活動に参加した人の数は一日平均2万人超、3ヶ月間で延べ117万人とも言われる。被災地でのボランティア活動(専門ボランティア・情報ボランティアを含む)の重要度に対する一般の認識も飛躍的に高まった。現地には行かずに被災負傷者の為の献血義捐金拠出・物資提供などの後方支援に携わった人々も含めると参加人数はさらに増えるものと見られる。
 誰かの役に立ちたいとする、共認充足時代の先駆け的な動きだろう。このうねりは、義捐金の額の増大を含めて加速する一方だ。
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・救急・救援施設・災害医療体制・同時多発火災・孤独死への対応について
 脆弱さや対応の不十分さがあった。それを受けて、ハイパーレスキュウー隊等が創設されて改善は図られている。詳細は割愛する。
縄文時代~現在までの災害史を通じてのまとめ
 縄文から弥生時代は、自然の力(災害)を畏怖し、畏敬した。一方で、集団として対峙してきた歴史がある。以降、お上と庶民に別れてゆき、平安時代以降は、両者は自然の力の前には祈るしかなかった。しかし、渡来技術や制度の変遷の中で、庶民は村落共同体を構築して自然と対峙してゆく。お上は村落共同体と緊密な関係を構築し、都市レベルで自然と対峙していった。そして江戸時代に濃密な人的関係(共認関係)を作りあげ、現在の災害対策を超えるところまで至った。
 しかし、明治時代に近代観念(法治国家、近代個人主義等)を取り入れて私権社会に突入すると、お上は利権獲得に走り、その利権に政治家、官僚、学者、財界、マスコミが群がった。結果、現在は、普通の人の気持ちが全く理解出来ない無能の巣窟と化したといえる。
 
 一方、庶民は、村落共同体という場を、お上に悉く破壊されて、新しい私権社会の集団に組み込まれていく。明治以来の私権第一=自分第一の価値観は染み付いてしまったのだろうか?
 否!!関東大震災阪神淡路大震災中越地震福岡県西方沖地震能登半島地震東日本大震災と、ここ90年間で多くの大地震があったが「掠奪」は皆無である。
 この単純な事実は、縄文人以来、綿々と続く相互扶助のDNAは今も作動していることを示す。 :D
ということは、私権観念は頭の先端にあるだけで、塗り替えればしまいなのです。 :wink:
村落共同体という対面の共認充足の場がなくなっても、厳しい自然災害の現実と、それを乗り越える人々をTVやネットで見たり、ボランティア等で対面で接したり、義捐金で間接的に援助したりすることで、被災者に同化している。日本の特徴:災害の厳しさとその多さが常にこの同化能力を鍛えてくれている気がします。その意味で、短期間に連続する大震災(地震)と、東日本大震災津波の甚大な被害は、日本人に縄文人の血を相当に覚醒させつつある。と思います。

次回は、この覚醒させるメカニズムを、「地震災害は日本人の性格をどのように形づくってきたのか?」というお題で追求します。お楽しみに!!