日本の歴史(年表)第2回~縄文時代前期~縄文晩期まで

 
日本人の起源(縄文・弥生・大和)
  日本の歴史(年表)第2回~縄文時代前期~縄文晩期まで
 
   
第2回は縄文時代前期~晩期(弥生時代前夜)までを年表化します。
尚この時代の前提として中国・朝鮮半島からの影響が出てきていますので、次投稿には中国の同時代の動きを重ねてみます。
(※この投稿には中国の情報は入れておりません)

縄文前期といっても長い縄文時代の2/3は過ぎていますので、実質上は中期と呼んでもいいくらいの時期です。前期の始まりBC5000年から始まります。因みに縄文時代の各期の区分は土器の特性変化によって学者が定めたもので、他の時代と違って王朝や戦乱の背景はありません。
ただ、土器の形態変化が気候や集団の外圧と連動しているのも一つの特徴です。

(年代は全てBCで表記)

縄文前期~中期の気候)
BC6000年~BC3000年 ヒプシサーマル(高温)期
BC5500年 現在と同じ気温まで上昇
BC3000年 現在より+2℃高い平均気温 青森が東京と同じぐらい
      縄文海進で海抜が現在より5m高い。
      関東平野群馬県辺りまで海が入り込む

縄文前期)
BC5000年~BC3500年
 円筒土器文化が北海道南部~東北地方にかけて拡大
 ※本格的な土器文化が広がる。
 ※定住化が進み拠点集落が各地に点在するようになる
 この期間に列島の人口は2万人⇒11万人に拡大。

縄文中期)
BC3500年~BC2500年
 大規模拠点集落が東日本に登場する。
 ※三内丸山遺跡(BC3500年~BC2000年)
 最大人口500人(予測)の巨大集落。三内丸山の周辺にも同様の規模の集落が並存する。栗栽培が確認されており、大規模な建物跡もあり、祭祀や周辺集落のセンター的交流が為されていたものと思われる。
 黒曜石やヒスイの広域交易がこの時代に進む。
 新潟県~長野県での縄文文化も進み、有名な火焔土器もこの時代に登場
 この期間に人口は11万人⇒26万人(縄文時代最大数)まで拡大。

集団間が近接し、緊張圧力も高まるが、縄文時代を通じて戦争跡はない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

縄文後期~晩期の気候)
世界的にはBC3500年から寒冷化、乾燥化が始まり、遠くメソポタミアではこの時代に人類最初の殺し合いの戦争が始まっている。
西洋と東洋は約500年の差が生じるが、中国から日本にかけてもBC2000年から急激な寒冷化が始まる。
※4200年前から地球規模の寒冷化が進み、長江文明を初めとするインダス文明などの古代文明は消滅する。⇒184606

縄文後期)
BC2500年~BC1300年
土器の形状は用途に応じて多様化していくが、この期間に縄文の縄目が消え、摺消縄文になっていく。
環状列石(秋田県大湯環状列石)の遺跡が登場するのもこの時期。
共同墓地、日時計など、石の意味合いには諸説あるが、気候変動に対する人々の思いが切実になってきている時代。

集落は分業、専業化が為され、千葉県や東京では大型貝塚が登場。
茨城霞ヶ浦沿岸で土器による製塩がなされていることが確認されており、塩の生産が為され、各地へ交易された。84204

縄文晩期)
BC1300年~BC950年
縄文後期から始まった寒冷化は晩期から弥生前期でピークになる。
BC500年には-1℃の極寒期を向かえるがここから反転し、AC0年には現在と同じ気温まで上昇する。
列島の人口はBC2000年~BC1000年の期間に26万人⇒8万人まで激減
過半は西日本に移動するが、東北地方のみこの時期に人口は減っていない。

晩期の最も大規模な遺跡が青森県の亀ヶ岡文化。
遮光土器などで有名だが、亀ヶ岡土器洋式は全国(奈良県、京都)に広がっている。
北九州や出雲に、この時代の寒冷化、大陸での呉越戦争の敗者(江南人)が中国から朝鮮半島を経由して小集団で何派にもわかれて渡来している。

亀ヶ岡文化や北海道南部の縄文文化弥生時代以降も続縄文時代として後1000年間は継続する。
一方で、北九州を中心に縄文晩期(BC900年)には渡来人の技術を受け栽培、水田稲作が始まる。⇒以降弥生時代の歴史へ