僕の生きた昭和、平成は鬼畜の時代の開放  1951年 「昭和26年6月9日生まれ」

僕の生きた昭和、平成は鬼畜の時代の開放  1951年 「昭和26年6月9日生まれ」

平成29年2月22日~    (於:終のすみ家にて) ◆興滅流れ、行方知れず、頑張る。楽ばる。遊ばる。死に急ぎ、死にこじれ、自のおろそかきを知る

西川 孫良の 取扱説明書

品番:N・M-1951-06-09

どちらかといえば理系の人間、自然科学や物理などへの興味が深かった「黒四ダムに憧れ伊予の旧柳谷村西谷集落古味出生、同集落生まれの森岡吾一社長のコネで「関西電力に潜り込み、変電所、送電線の建設」私ですが、30歳をこえたくらいから日本の歴史に興味をもちはじめました。

はじめは戦国時代から江戸時代です。藤田まことの必殺仕置き人、鬼平犯科帳シリー土佐っぽの血を引いてるのか坂本龍馬、伊予人としては秋山真之(あきやまさねゆき)にすっかりはまりました。(^^ゞ

情報化社会が加速し、スピードと効率が徹底的に求められる現在にあって、すっかり失われてしまった「人情」のようなものの深さに出会いました。

1か0か?、善か悪か?といったデジタルな判断ではなく、もっと複雑な現実と人々の意識の多面性が現実の社会をつくりだしているように感じはじめました。

江戸という時代はどのようにして作り出されたのか?同時に日本人のルーツDNA、日本語の歴史、宗教観

そんな想いから、江戸前期の戦国時代の書物を読み始めるようになりました。

日本史の中でも最も人気のある時代で、個性豊かな人物が多数登場する時代です。

 星の数ほどあるような、様々な人物評を読み漁るにつれ、私たちの祖先が非常に好きになり、尊敬の対象にも、憧れの対象にも、同化すべき対象にもうつりました。 特に初期縄文人の最弱哺乳類が人類

このあたりからますます日本人の起源を追求してみたくなりました。

歴史は塗り重ね構造です。私たち日本人に塗り重ねられたものはなにか?DNAに刻印されている潜在的な意識とはなんだろうか?

教科書にある年表としての歴史ではなく、人々の意識(特権的な階級の人でなく、市井の人々の意識)の変遷として歴史を遡ってみたいと思うようになりました。

3回あの世に・・・1度は50歳の頃、三途の黒い河を見てきました。塔石積に紐につるした小さな布地がはためいてるのと黒い大河が右に流れており周辺には誰もいず重たい黒い雲が流れていたような!無性に腹が減り胸部の痛さで看護婦の強打(電気ショック)で意意識回復、子供3人がおり何としても娘たちがひとり立ちできるようになるまでは生きてゆかなくては・・病名は心房細動?酒ばかりで栄養不足?アル中?

幼少の頃はチー坊と呼ばれ未熟児で生まれ母親の母乳がでず、谷森さん(誠志君の母親)乳で・・・ミサ姉(長女)とは乳兄弟・弟は誠志君でしょうか 1~3歳の頃には山仕事に連れていかれ大きな穴に入れられて昼めしまでおっぽり出し ヨチヨチ歩きの頃からは山道を自分で歩いて4歳頃には孫爺に連れられて炭焼きの手伝い「この頃に山の動植物の名、食べれるもの等々見聞きしたのでしょう。」

5歳頃に炭の冷却中の炭焼き釜の天井ドーム上によじ登り炭焼き釜の内部に転落し体半分水膨れそれも真夏の暑さ除けに小屋掛けの日陰に入ろうとしてです。後3秒見逃せば全身、顔、体ケロイド状に!最悪焼死、炭になっていたやも?

幸い爺さんが転落してたのを見てて左腕と右足甲に掴まれたやけど跡が残ってます。治療は医者にも行かず、水膨れの治療にサボテンの汁を塗ってたような記憶が

5,6歳の頃には、自分一人でどこの深山、岩場、谷川にでも出かけ、地元の人が隠れて放流してるアメの魚、モツゴ(アブラハヤ)山芋、きのこ、ウドを採取してきて10円20円のこずかい稼ぎこれ泥棒ですがね。晩秋の頃、山の渋柿を取ろうとして墜落意識を失い気絶、背中を打ち身動きもとれず一昼夜・・・半日かけて道路まで都合2日行方不明・・・親も村の人も悪がきなので気にもかけずで

自分は都合2回死にかけ、一度死んでます。 今だと過失致死罪、殺人罪?に該当するであろう現場を3度見てます。 1・飲酒運転でトラックがバック時酔っ払い運転で我が幼子をひき殺す。 2・酔っぱらって橋の上から突き落とす?青年団の何かの酒宴で喧嘩 3・わが子が下にいるのに石ころを転がし死亡させる。 何故かしら関係者は何事もなかったように生活してましたな。 隧道工事で60人ほどの集落が出来て小学生が10人程増えてカルチャーショック *その工夫達と村の大人が赤淵と称する大きな淵にダイナマイトを投げ込み川魚を一網打尽・・・数時間後には県警の機動隊が来て集落の大人が5日程不在に面倒見てくれたのは村の職員と小学校の先生方

昔風には「膈(かく)の病(やまい)」今風には肝臓がん、肝硬変になり余命一年半

各部の名称とはたらき

頭部構造・山岳民族の半分定住志向、マタギ木地師志向

デザイン的には狩猟民の古いタイプです 。肥後守のナイフがあれば何でも作れます。

胸部:執念深いが諦めも早い

腹部・腹に一物あり

特に悪いものを食べなくても、頻繁にお腹がゆるくなります

腕: 便利機能として、女性の重たい荷物を持つアームが取り付けられています。下心があれば特に態度に出てきます。

・・・下半身 :たまにひざの下の方をたたく、カッケ自己診断機能が自動的に動きます。耐久性はなく淡白で時間給にすれば安価です。

足:足腰は強いつもりでしたが、高度成長期の真っただ中を過ごし寝てるか椅子に腰かけてるの時間が長く幼児並みの脚力です。

気性:激しいです。計画的に一旦損得を考えてからですが 社会的な地位のある人に何故かしら目をかけてくれて小、中学校の先生、社長、師匠、親方等々に便宜を図ってくれ節目、節目の大事な時に上手に生きてきたとものだと思っておっております。 恐らく関西電力に入らなければ野垂れ死にかム所ぐらしでしょうね。

取扱注意事項

次の症状は異常ではありません。仕様です。

◆ 「常時何かを考えるか、してなくては!」落ち着きません!

◆ 「よ~い、ドン!」と言うと人より少し早く動きます

◆ 嘘をついている時、右上を見ます。

◆大概の人の気持ちを察知することができ悪く言えばずる賢く立ち回ることができます。

◆文字との付き合いは教科書以外便所の隙間目張りに張っていた愛媛新聞の切れ端をほぼ1年読んでいた。そもそも家に貧乏で雑誌そのものがなかった。 小学校高学年の時、隣の山師夫婦から川口恵瓊のチベット旅行記?探検家(コロンブス。キャプテンクック、アムンゼンマルコポーロ、他)の当時としては高価な小難しい本を数冊頂きこれを読み漁ったふり仮名はなかったような?

◆興滅流れ、行方知れず、頑張る。楽ばる。遊ばる。死に急ぎ、死にこじれ、自のおろそかきを知る 1:日本人のルーツ    平成29年2月22日 日本人のルーツが核DNAからほぼ解明された。アイヌ、沖縄 の混血種族は少数ゆえ淘汰で ご時世深く追求せず、縄文、弥生人、日本人はグローバル化で純潔日本人がいなくなった。数千年後?南北アメリカ、オーストラリアの原住民を思うと数百年後もあり得るのでは?

1:日本人のルーツ    平成29年2月22日 日本人のルーツが核DNAからほぼ解明された。アイヌ、沖縄 の混血種族は少数ゆえ淘汰で ご時世深く追求せず、縄文、弥生人、日本人はグローバル化で純潔日本人がいなくなった。数千年後?南北アメリカ、オーストラリアの原住民を思うと数百年後もあり得るのでは?

2:縄文人弥生人 縄文人

一般的に日本人のルーツは縄文人弥生人によって出来上がったとされています。縄文人とは今から約1億6000年から約3000年前までの約1億3000年という気の遠くなる長い年月を生き抜いて、北海道から沖縄まで日本全土に定住して縄文文化を各地に残し、狩猟や採集を中心とした縄文時代を築きあげて来た。いずれにしても旧石器時代後の新石器時代縄文文化を築きながら生き抜いてきた私たち日本人のルーツとして重要な時代であった事は間違いないようだ 弥生人 一方、弥生人と呼ばれる人々は、弥生時代つまり今から約3000年以降に大陸から日本列島に渡来し在来の縄文人と交わりながら弥生時代を築きあげて来た人々を差します。つまり弥生人には、縄文人弥生文化という新たな文化を受け入れた人々(縄文系弥生人)と純粋に大陸から渡来してきて新文化を形成した弥生人(大陸系または渡来系弥生人)、そして、その両者が交わり混血となって生まれて来た人々とその子孫(混血系弥生人)とに分けられるというのです。要するに、現在の日本人はおおよそ縄文人弥生人の混血で出来上がったものと思われ、彫りの深い顔立ちの縄文系や”テルマエロマエ”でそう呼ばれてように”平たい顔族”の弥生系、またはストレートな髪の人、くせ毛の人など中国人や韓国人と比べても多少違う顔立ちの人が目立つようです。 

あなたは縄文系?それとも弥生系?

ちなみに僕は南方系日本人?ったぶん”ブチャイク、平たい顔族”の代表みたいだからでしょうか?

上記表をご覧になるとおおよそどちら系の血が濃いのかわかるようです。但し、混血には違いがありませんからどちらの特徴もほとんどの人が持っているものと推測されますが。私を例に挙げるとすると、背が低く青年期はやせ形、髪の毛はくせ毛、ウィンクはでき、耳垢は湿っています。

そして、血液型はA型であることから縄文系の様ですが、残念ながら顔は前述の通りで平たく鼻も高くありませんね。

全体の2割程度は縄文系の様ですが他は弥生系の血を引いたようです。ざっくりですが、興味のある方はそれぞれに照らし合わせてみたら面白いかもしれませんね。 ・核DNAとミトコンドリアDNAの違い

核DNAとミトコンドリアDNAの違い、さて、一昨年NHK、「サイエンスZERO」で日本人のルーツを探る上でとても興味深い話をしていました。 なんと、核DNAを解析する事で縄文人の謎を解き明かすことが出来たというのです。これは正にビッグニュースなのだといいます。考古学=発掘=遺物照合=年代推測~~~が推測方法? 番組にそってその謎に迫ってみたいと思います。 これまでも、縄文人のDNAは解析されてきたのですが、それはDNAのほんの一部でしか無かったようです。 Y染色体と石器や土器の研究から、バイカル湖付近から数万年前に渡ってきた人々が日本人の祖先。その後、米とともに長江流域から渡ってきた人々との混血。 一般的にDNAと言うと、核の中にあるDNAを指しますが今まで分析されてきたのは、ミトコンドリアという機関の中にあるDNAでした。ミトコンドリアDNAは一つの細胞の中に数百から数千もあるといわれており、沢山あるからこそ残りやすく分析もしやすいと言われているのです。しかし、ここに大きな問題がありミトコンドリアDNAの塩基の数は約1万6000個とサイズが非常に小さかったことです。

 

それに対し、核DNAの塩基は約30億個と非常に多くの情報量を有しておりそのDNAの解析が出来れば、その謎に迫ることが出来るのですが核は細胞の中にたった一つしかなく残りにくくて解析も非常難しかったようです。 ところが、2014年国立遺伝学研究所のチームリーダーである斎藤成也教授を中心として貴重な縄文人の骨を利用する事で今までのミトコンドリアDNAだけでなく核DNAの分析に成功する事が出来たというのです。 核DNAの採取に成功生命の設計図、DNAはあらゆる核の中に存在していますが、DNAを構成するのは延々と並ぶ4種類の物質で、塩基と呼ばれています。塩基はA,T,G,Cであらわされ、生きている人からは唾液などから容易に採取することが出来るのですが、古代人の場合には残された骨からDNAを採取するしかありませんでした。 ところがその骨の多くは、分解がすすんでいてDNAがほとんど残っていない為に分析できる可能性はほぼ不可能だと考えられて来たのです。 そこで、斎藤教授は縄文人の核DNAの解析をするために、ある作戦を立てたのです。それは、全国各地に残っている縄文遺跡の内で骨が多く残っている遺跡の内で、DNAが分解されずに残っているだろう寒冷地の遺跡に狙いを定めたわけです。 そこで選ばれたのが、福島県の三貫地貝塚に目を付けました。1950年代に発掘された、三貫地貝塚は今からおよそ3000年前の遺跡であり人骨の出土数は国内最大規模を誇り、これまでに100体以上も見つかっているのです。 研究チームの一人で人骨の管理をしてきた東京大学総合研究博物館の諏訪 元教授は、どうすれば人骨から効率よく核DNAを採取する事が出来るかと斎藤教授と話し合いを進めたきた結果として、歯の内部からDNAを採取することを思いつきました。歯の内部は、顎の骨により覆われているために外気にあたる事が無く核DNAの残っている割合が極めて高かった事から、歯の歯根部(根本)を切断して中を採取することを相談のうえ提供をしたのです。

引用:NHK”サイエンスZERO” 以下の画像も同様に引用いたしました。そこで、艶があり保存状態の良い奥歯に狙いを定めて男女2体の核DNAを採取することに成功したのでした。ところが、その後の作業も困難の連続でした。 作業を担当したのは、国立博物館の神澤秀明研究員でしたが、日本では古代人のゲノム分析をやった前例がなかったことから、歯の内側を削り取ってその中から核DNAの採取を試みたのです。 しかし、調べてみると本来数百万から数千万繋がっている塩基が百以下までバラバラになっていたのです。

 

その上、抽出した97パーセントまでがバクテリアなどの別なものだったのですが、それでも残り3パーセントの中から縄文人の核DNAを読み解くことに成功したのです。 解明された核DNAの凄さとはこれまでミトコンドリアDNAから古代人を研究してきた専門家の国立科学博物館人類研究部長の篠田謙一さんは、核DNAから塩基を読み解く方法がこれまでのミトコンドリアDNAから読み解く方法とはまるで変わったことなど革新的な進歩であることを話されていました。「技術革新により、大量のDNAを読み解くことが出来るようになったことが大きく、縄文人の解析にも大いに役立つことができました。」

これは、核DNAから読み解いた塩基の極一なのですが、実際には一億以上もあるのだそうだが、縄文人の塩基は30~50個くらいにブツブツと切れておりどうしてもこのように隙間が出来てしまう様なのです。

さらにこの核DNAの塩基配列には、量だけではなくミトコンドリアDNAと比較して親から子にどの様に受け継がれていくのかに注目すべき点があったのです。

まずは、ミトコンドリアDNAの特徴ですが、母親から娘にしかDNA伝わって来ず父親のDNAデータは伝わって来ないと言うのです。

 ところが、核DNAからは、両親のDNAデータが取り出せるとともに、過去の沢山の祖先のDNAに至るまでそっくりとその情報を読み取ることが出来るのだと言うのです。つまり核DNAを調べることで私たちの体の中に入っている様々なご先祖様のDNAまでも知る事が出来るという正に言う事なしの情報というわけなんです。

私たちのルーツは?

さて、先の項でもお話ししましたが、これまで日本人のルーツは約3000年以降に大陸からやって来た渡来系(大陸系)弥生人とこれまで1万3000年もの長い間延々と日本に定着し続けて来た縄文人の子孫ではないかと考えられてしました。これらの考え方が推測の域を脱する事が出来るのも、核DNAを調べることでハッキリと分かる訳です。

こちらの図をご覧ください。このグラフは、現代の東アジアの人々500人の遺伝的な特徴を2次元的に表示したものになりますが、渡来系弥生人のDNAはまだ解析されていない為にこれらの東アジアの人々のDNA情報を利用し、渡来系弥生人に見立てて分析を行ったのです。

一方で、現代の日本人の遺伝子はどうかといいますと、東アジアの人々のそれとは少し離れた場所に表示されます。

これは何故かといいますと、おそらくですが渡来系弥生人という人たちは、大陸から渡って来たので、中国の人々と同じようなところに遺伝子は表示されると思われますが、日本人の遺伝子が、これら大陸系の人々から少しずれている理由としては縄文人のDNAを持ち合わせているからではないかと考えられているんですね。

実際に今回分析した縄文人のDNAをプロットしてみるとこのようにかなりかけ離れた位置に表示されました。という事から、縄文人のDNAが私たち日本人のDNAの中にあるために、大陸系の人々のDNAから少し離れた場所に表示されたことが証明されたと言っていいのではないでしょうか?

結果として、私たち日本人のルーツは縄文人と渡来系弥生人の混血する事で出来上がっている事を示していると言って良いかと思われるのです。

実際に縄文人のDNAの一万か所を調べた結果がこのような表示になったのですが、ミトコンドリアDNAで同じ調査をしようとすると一万人のデータを調べる事が必要だったことと同じ意味を成すことになる訳です。また、この一万か所のDNAと私たち日本人のDNAがどれだけ共通点があるかを調べる事で縄文人の何パーセントを引き継いでいるかもわかってくるのです。

現状調べた結果からみますと、おおよそ20パーセント程を引き継いでいるらしいという事が分かって来ました。この事が、核DNAを調べてことで分かった最大の収穫と言えるのです。ですから、残り80パーセントのDNAは、渡来系弥生人から繋がっていると思われるのです。

驚きの縄文人のルーツも分かる!

今から20万年前、アフリカで誕生し世界中に拡散していった人類。この中に、勿論アジアに向かった集団もいたのです。

そして、アジア人のもととなった原アジア人は、東アジア人と東南アジア人に分かれていったと考えられています。その中で、渡来系弥生人は東アジア人から途中で分かれて日本にやって来たと思われます。 けれども、縄文人はどのようにして日本にやって来たのかはずっと謎であったのです。そして、これまでは骨の形態からは、東南アジア人に近いと思われていたのですが、別の解析結果からは、北方の東アジア人に近いという説もあってどちらに起源があるのかは、論争がずっと続いていたのです。

そして、先に紹介した斎藤教授は縄文人のデータを分析した中で、驚きの結果を得ました。

こちらの図は、世界の人々がどのように分かれて行ったかをDNAをもとに推定した図なので、横方向は遺伝的な距離を表しているのですが、分析の結果縄文人が枝分かれしたのは、東アジア人と東南アジア人が分岐する以前にアジアの共通祖先から分岐していることが分かったのです。

そして、縄文人はより古い時代に日本にやってきて、全く違うもっと古い系統の子孫が独自の道を歩んだ可能性もあると言うのです。今では、ユーラシア大陸の何処から来たのかすら分からない様で、また振り出しに戻った雰囲気だというのです。

縄文人のDNAは現代人には全く見られないどころか、アジア中を探しても何処にも存在しないといいます。そんな人々を見つけてしまったという正に不思議としか言いようのない事態になっています。

「一つの解釈として、古い時代に日本列島に定着した縄文人がその後何処にも移り済まずにずっと「日本列島のなかだけで生活をすることで、数千年から1万年以上の間外部との交わりを持たなくなっことから、独自のDNAが形成されたのではないかと考えられてもいます。」

「もう一つの考え方とすると、もっと古い時代にあちこちから渡来した人々が交わる事で日本の中だけで独自の人種としてのDNAを形成したのではないかという考え方もできるようです。」

また縄文人のルーツを考える中で人類がアフリカで誕生した後、約4万年前に東アジアに人々が入って来たと考えますと、縄文時代まではさらに2万年以上の開きがあります。その間にユーラシア大陸の中での人の動きは非常に複雑であったと考えると、おそらくその複雑な結果から日本にたどり着いた人々が縄文人だったと考える事も出来ます。 1万6000年前と聞いただけでも気の遠くなる時間の流れがそこにはあったわけですが、さらに2万年以上の長い、長~い時間の経過の中で複雑に交じり合った結果と聞けば、何があっても不思議ではなくなると思う様になりました。

縄文人はお肌の悩みがあったらしい?

福島県の三貫地貝塚の人骨から初めて解析された縄文人の核DNAだが、この成功を受けて日本全国の遺跡の人骨の解析が進められています。 青森県の洞窟から発掘された縄文人骨からは核DNAの8割もの配列が読み取られました。 そしてその結果、現代日本人のお肌の悩みと縄文人の体質にそれはそれは深い関係がある事が分かって来たのです。

>>核DNAとミトコンドリアDNAの違い化粧品会社でお肌の研究をしている本川智紀博士によりますと、12年前にある遺伝子を発見したのです。

それは、16番染色体にあるMC1Rと呼ばれる領域にありました。この場所が左右する体質が実はシミになりやすい事に大きく関係していたのでした。

シミになりやすい遺伝子か通常型かは上記のようにMC1Rの1か所の塩基配列の違いで変わるのです。

日本人の多くは”A”であるの対して、シミになりやすい体質の人の配列は、ここが”G”になっていたのです。

アイヌ、沖縄の方々の民族衣装を着た古い写真には 特徴のある風体の方々がさらに、日本人のシミ型遺伝子を調べた本川さんは、その遺伝子を持つ人の多くが、東北・北海道と九州地方に集中している事に気が付きました。確かに、ガレッジセールのゴリさんやアイヌの人たちは、顔の彫りが深く体毛が長いという印象がありますよね。

元々、「北海道と沖縄の人は遺伝的に縄文人に近いのではないか?」と言われていましたので、「シミと縄文人には何か関連があるのではないか?」と考えた本川さんは、縄文人のDNAの配列を調べました。

そして、出て来た結果は、シミ型遺伝子を表す”G”の文字だんたんです。

配列を確認した5人の縄文人全員が”G”の配列を持っていました。

つまり縄文人は、シミになりやすい体質だったと考えられるのです。

まあ、それ以前の話としてシミに対して気にかけていたのかどうかは知る術はないですが・・

核DNAの研究では、この様なことまで類推する事ができ、他にもいくつか縄文人から引き継いだのではないかという特徴が分かってきました。

縄文人の特徴

冒頭でもお話ししましたが、弥生人と比較して大きな違いが分かってきました。

おもしろい特徴としては、「ウィンクが出来る事」が挙げられますが、ウィンクなんて少し練習すれば誰でもできると思われがちなのですね。

詳しくお話ししますと、顔の表情を動かしている筋肉は顔面神経なのですが、その主たる動きが瞼の開閉と口を動かす事が挙げられますが、日本人はこの両方が分課していないためにウィンクをすると同時に口まで動いてしまう人が多いようです。

そのため、うまくウインクが出来ない人もいるらしいのです。私は、かろうじてウインクはできますが、何となく口も連動している感じですね。

また、耳垢がウェットという特徴をもともとの発祥の時にはもっていた事から、アフリカの人もヨーロッパの人もその特徴を持っていたのですが、アジアのどこかでその遺伝子を持たない

弥生人が形成されたのではないか?

そして、それ以前に分化した縄文人は、ウェットな特徴を持ち続けていたと考えると説明がつきやすいようです。

この様な特徴を私たちはそれぞれが受け継いでおり、人によって受け継いだ遺伝子が少しづつ違っているため、髪の毛や瞼、そして耳垢までもが違っているのが日本人の特徴ともいえるようですね。 >まとめ

日本人のルーツについてはいろんな分野で研究がされていますが、今回の核DNAを分析する事で、新たな情報がたくさん得ることができ、「日本人はこの様に出来上がった」というシナリオを提示する事が出来ました。このシナリオに他の学問の定説が合わない事もおそらくあると思われます。例えば、そもそも渡来系弥生人はどれくらい来たのだろう?という問題があります。人類学者は、比較的沢山来たであろうと考えており、8割が渡来系弥生人の遺伝子が入っていると考えて来ました。影響が強いという認識ですが、考古学的にみますと土器の形などを見てもそんなに沢山の人は来なかったのではないか?と考えているようです。 日本に定着した年数から見ても、縄文人の歴史は1億3000年もあったわけですからね。ですから、核DNAから作ったシナリオが解釈できるのか否かは、これからいろんな分野の研究者が検証を重ねていかなければならないのではないかと考えています。

実際に5~6か所の遺跡から縄文人を調べた結果から見てもそれほど均一ではなく、生活していた場所によっても又時代差によっても異なる特色があるのでその中のどの遺伝子が私たちに伝わって来たのか?をこれからの研究に期待したと思っています。

サイエンスZERO「日本人のルーツ」

日本人はどこから来たか!?遺伝子から分かる真実日本最大のミステリーは実は、我々、日本人そのものである。といえる。 アフリカで誕生した人類が安住の地を求めて世界中を旅した。これが世界初の旅。 現在ではさまざまな方法でグレートジャーニーの足跡がたどられている。 ここでは、嘘をつかない遺伝子で日本人のルーツを知ろうと思う。強者の倫理で、権力闘争で、食糧事情で、自然災害で、戦争で宗教戦争で、解釈の違いで 1.)母系遺伝子ミトコンドリアDNAの系統 まず、母系遺伝子を調べるため、ミトコンドリアDNAの系統を調べる。 ミトコンドリアDNAは、母系遺伝をする。だから、女性の祖先をたどった系図を調べることができる。 DNA配列は短期間に変化しやすいため、分岐の時期をかなり詳しく知ることができる。 世界的に見たこの日本人のミトコンドリアDNAの2重構造の位置付け。 これを知るために、アフリカ人(いわゆる黒人)、ヨーロッパ人(いわゆる白人)と、日本人の間で系統の関係を分析する。 すると、すごく興味深い結果が現れる。 研究当初、縄文人弥生人の区別を実証する目的でこの研究を行なったらしいんだが、その分岐が世界3大人種を区別するほどの根元のほうにあるグループが日本人の中に存在した。(他のアジア人にはない) これはどういうことか! 縄文人弥生人のDNAの差ってのは、実はそれほど差はない。 共に東アジアに広く分布するアジア系で、どちらが北でどちらが南から来たかという地域差がないことが分かってきている。 しかし、他のアジア人にはみられない日本人のミトコンドリアDNAが、人種(黒人、白人、黄色人)の分岐、すなわち、かなり早い段階で別れた人々がそのまま日本に移動して定住したといえるわけだ。 日本人グループに注目すると、その分岐点はヨーロッパ人よりもはるかに根元のアフリカ人グループの間にあるので、この日本人のミトコンドリアDNAは、聖書による3大祖先 ハム、セムヤペテ のうちの、セム系直系に相当すると考えられる。 ※ここで説明しよう。 旧約聖書にあるノアの方舟。このノアの3人の息子セム、ハム、ヤペテは、 大洪水の後のすべての民族の先祖といわれている。 世界のすべての民族は、ノアの3人の息子セム、ハム、ヤペテから分かれ出た。 これが、「黄色人種、黒色人種、白色人種」という分類、いわゆる「モンゴロイドニグロイドコーカソイド」であり それと合致するという意味で、ハム系とは黒色人種、ヤペテ系とは白色人種で、セム系とは黄色人種(アジア人)となるわけだが、 黄色人種いわゆる中間色の人々は、モンゴル人、中国人、日本人などの東洋人と、 アラブ人などの中近東や、東南アジア、ポリネシア人などの肌が褐色な人々もいるわけだ。 ちなみに エジプト人はハム(黒人系)で、 イラン等のペルシャ人やインド人はヤペテ(白人系統)である。 だから、肌の色、特に中間色、褐色はすべてノアの時代のセム、ハムになるかというとまた違うわけだ。番外編.)ちなみに、ひとつ、おもしろい話がある。 1986年、アメリカのフロリダ州でミイラ化した約7000年前のヒトの脳組織が発掘された。 従ってこの脳組織はアメリカ大陸に7000年前にいた人間、いわゆるアメリカ・インディアンの祖先のものとされた。 カリフォルニア大学で、この脳組織からまず、微量のmtDNA(ミトコンドリアデオキシリボ核酸)の抽出に成功した。 次に当時最新の画期的なDNA増幅技術・PCR法を使って、mtDNAの一部を増幅し塩基配列(DNAの文字列)の決定にも成功した。 その結果、大部分の現代人では、≪GGGCCC≫という文字列になっている塩基配列がこのミイラには ≪GGACCC≫となっていた。 そこで、まず現代のアメリカインディアンの中に ≪GGACCC≫の塩基配列を持つ人がいないかを調べだが、誰のDNAにも見いだせなかった。 ところが、遺伝子研究の権威である日本人の故・宝来聡博士が調べた日本人の中の多くが、ミイラと同じ≪GGACCC≫という配列であることが明らかとなった。 このような変異型のDNA配列を持つミイラと現代日本人の一部が一致するというようなことは偶然では起こり得ないことで、現代日本人と7000年前に生きていたこのミイラが、遺伝子レベルで共通の基盤を持っているとわかった。 はるか昔、アメリカインディアンの祖先よりも前に、あるいは、それとは違うグループが 日本から太平洋を 渡って北米大陸に移住した民族集団がいたという事実を、図らずも証明したことになった。 2.)Y染色体DNAの系統 Y染色体のDNAは 父系遺伝する。 これは男系子孫にのみ伝わっていくため歴史的な調査に用いられ、人種のルーツの祖先を正確に辿っていくことができる。 私達はモンゴロイドであり、中国や韓国と同じ民族だと思われてる人々が多い。 しかし、最新の遺伝子研究により、私達日本人は、中国や韓国とはDNAの中身が若干違うことがわかっている。 世界では珍しい、古代血統とされる、Y染色体D系統が日本人に多いからだ。 黒人固有のA系統、B系統、 中央アジアなどのアルタイ系のC系統、 日本人や地中海に特徴的なDE系統、 中近東などのJ系統、 オセアニア・南アジアのK系統、 ウラル諸族のN系統、 東アジアのO系統、 イヌイットなどのQ系統、 アーリア系のR系統 などがある。 そしてまた、同じD系統であっても、 チベットや東南アジアがD1とD3系統であるのに対して、 日本人のD系統はほぼ100%がD2系統。 もちろん、同じD系統だから近縁であることは間違いないが、D2系統は世界の中で日本人にしか存在しない固有の系統。 さらに大きな意味な持つのが、日本の近隣諸国にはY染色体D系統が存在しないこと、 そして現代の日本人にも、相当に高い頻度で残っていること。特にアイヌ人には9割近くも集積している。(本土の山間部にもやや多い。)  ということは縄文人の特徴ということだ。(沖縄本島には多いが、八重山諸島にはいない。) このD2系統には、特徴的な変異:「YAP」(ヤップ)とよばれる挿入部分(300塩基)をもち、 これは D、E系統のみに含まれ他には存在しない。 (以下番外編) E系統を持つのは、イスラエル、いわゆるユダヤの民。 調査結果から、イスラエルの失われた12部族のうちの、エフライムとマナセだけがYAPなどの挿入部をもつD系統である。他はE系統。 日本人のみ(他のアジア人にはみられない)持っているタイプの系統は、古代イスラエル、古代ユダヤのものと同じなわけだ。 ということは、やはり、はるか西のほうからシルクロードを通って、そのまま日本まで父系を保ちつつ独自に移動してきたと考えられる。 やはり、イスラエルの失われた十支族の末裔が日本人である可能性が高い。整理して考えると。。。 古代イスラエルから、日本へ、3度に渡ってたどり着いたといえるかもしれないのだ。 ・一度目 日本人のルーツとなる縄文人が日本に定着。彼らは中近東から比較的早い段階で来たと思われる。 人類のグレートジャーニーの動き、人種が別れたばかりのセム系直系の遺伝子的に色濃い人々が日本を目指して移動したことがわかる。 ・二度目 北イスラエルのいわゆる失われた十支族が日本へ。 きっと、古代の自分達の祖先が日本へ渡ったことの伝承をたどって日本まで来たのだろう。 シルクロード各地にそのような伝説が残っていることからもその可能性は高い。 このY染色体DNAから、失われたイスラエル十支族が日本人である確証となる。 それに文化的にも、古代イスラエルで信仰されてた古代ユダヤ教神道そっくりである。ということは天皇家は?。。。 ・三度目 キリストの教えを直接受けた原始キリスト教徒であるネストリウス派キリスト教徒、いわゆる景教徒である秦氏が日本にやってきた。 これは歴史的な事実から確証があり、判断できる。 キリストの時代はエルサレムには南イスラエルの人々、いわゆる南イスラエル2支族、すなわちユダヤ人しか住んでいない。 原始キリスト教徒であるネストリウス派キリスト教徒のユダヤ人である秦氏は、 中国の西にあった弓月の国を建国ししばらく留まり、その後、日本に来ているのは歴史的に正しいわけだ。 きっと、日本に来た目的は、失われた十支族を追ってのことだろう。そして彼らは、この日本で出会った。失われた兄弟達と再会したのだ。 10支族がやってきて、後から2支族が来たことで、 イスラエルの12支族すべてがこの日本に来ていたということになるのだ。 この時点で、旧約聖書の預言は成就されていたことになる! 京の都は『平安京』これは秦氏が協力して天皇を祭るために作った都ヘブライ語で『平安』は『シャローム』、『都』は『エル』すなわち、『平安の都』とは『エルシャローム』。京都は『エルサレム』だったのだ! 『エルサレム』で、もうすでに1千何百年前にイスラエル12支族がすべておちあった! 秦氏は、旧約聖書の預言を日本で成就するために、京都を作ったのだ!ということになる。 ユダヤ三種の神器もすべて日本にある。(これについては後日) 旧約聖書の預言はこれによってこの日本で成就される! 。。。これは大変なことを知ってしまった。。。 (番外編) 海草を消化出来るのは日本人だけ 日本人の腸内細菌には、中国人、韓国人も持っていない、もちろん北米人では見られない 海藻を消化する酵素をつくる遺伝子が見つかった。 こんな研究結果をフランスと カナダの研究グループがまとめ、8日付英科学誌ネイチャーに発表した。 のりに潜んでいた海の微生物が持つ能力を腸内細菌が取り込んだ可能性が高いという。 まさに、孤高の特殊な民族、日本人 3.)YAP遺伝子の系統 D系統遺伝子はY遺伝子YAP型に分類される。 YAP型はY遺伝の中でも古い系統の一つであり、日本人は東アジアの中でも最も古い人種の一つである事がわかる。 ちなみに他のアジア人(中国人、韓国人など)の主流であるO系統は、最近分岐した最も新しい系統の一つである。 Y染色体のDNAの塩基配列の型から、Alu配列と呼ばれる約300個の特定の塩基配列(YAP+因子)を持つのは、Dグループと、Eグループで、 Dグループが相当な頻度で存在するのは、日本とチベット、インド洋のアンダマン諸島のみ(日本で30~40%、アイヌと沖縄ではさらに頻度が高く、チベットでは約30~50%)であることがわかっている。 他方、Eグループが相当な頻度で存在するのはアフリカと地中海沿いの中東からイタリア南端にかけてである。 だから、Y染色体にAlu配列(YAP+因子)を持つ者が相当頻度で存在する地域は、 アフリカと地中海沿いの中東からイタリア南端にかけてと、チベットと日本のみであり、 日本人のY染色体の30~40%については、DNA塩基配列が近縁関係にあるものは周辺国等にほとんどなく、 チベットやアフリカや中東のY染色体と近縁関係にある事が分かっている。 YAPは縄文人固有の遺伝子ではなく中東から発祥したものなのか? これは中国人、韓国人、フィリピン人にもない遺伝子であり、YAP遺伝子は縄文人固有の遺伝子ではなく、中東から来たという。 古代イスラエル人と日本人くらいしかいないともいわれ、Y染色体DNAのD系統を高度で持つことで有名であり、Y染色体DNAのD系統は、日本人とチベット人や中近東の人の他には、世界のどこにもほとんど存在しないそうだ。 Y染色多型体の分析による最新の結果では、 旧石器時代にシベリア経由で北海道に来た系統、 縄文時代華北朝鮮半島経由で来た系統、 弥生時代に同じく華北朝鮮半島経由で来た系統、 南方から沖縄経由で来た系統。 アフリカをあとにして広がった人類は大きく3つのグループに分かれたが、 日本列島にはその3つのグループのすべてが集まっていて、これは全世界的に見て他に類の無い特徴である。D系統は、本土で40%、沖縄で56%、北海道アイヌで88% つまり、縄文系の血を濃く残すと言われるアイヌ人の実に9割がユダヤ人と近縁のD系統で、 渡来人の遺伝子的影響を受けやすい本土人では4割しかユダヤ人と近縁の遺伝子がいないことになる。古代イスラエル人の渡来は、どんなに早くとも、紀元前8世紀以降。(北イスラエル王国の滅亡が紀元前722年だから。) 大陸から、中国・韓国系の大量にO系統の人間が移動してきた弥生時代と近接している。(日本人の半分はD系統で、残り半分がO系統) では、縄文人の末裔の方がユダヤ人と遺伝子タイプが似ているというのはいったいどうしてか。。。 逆に、縄文人(D系統)が大陸に渡りイスラエルに行き、突然変異してE系統(イスラエル人)になったという方が、合理的だ。ということは、失われた十支族が日本に来た理由は、日本から発祥したその自分達のルーツをたどるために、日本に先祖帰りの旅に出たのではないだろうか? だから、彼らは預言に従って日本までたどりついたのではないだろうか?。。。だとしたら。。。ユダヤ人たちのシルクロードを通しての情報伝達能力は凄かった。そのためにシルクロードを作ったともいえるということは、イエスキリストの空白の期間に、エジプト、チベット、と旅をしていることはわかっているのでひょっとしたら、そのユダヤ人の足跡を追ってイエスシルクロードを日本まで来ているかもしれない。 秦氏とともに。聖徳太子はイエスキリストのことかもしれないのだ。 今のユダヤ人たちはそのことを知らない。彼らは、その他の2支族の末裔であり、 10支族の宗教、伝承、他は、知らないからだ。 日本人は、それを知っている。いや、知っていた。 しかし、歴史は捻じ曲げられ、隠され、今日に至る。 でも、日本中の埋もれ隠された古史古伝、神社、祭り事、言語、わらべ唄、そういったものの中に ハッキリと古代イスラエルの文化が生き延びていて、証拠となって今も現存する。 なーんていろいろ考えると、すべては日本から始まったという、竹内文書もまんざらではなくなってくるから、恐ろしくもある。。。 実に不思議だ。。。日本の最大のミステリーは日本人そのものである 番外編.)日本人特有のM7aグループ 日本には世界で日本人にしか見られないM7aというグループがある。 これは台湾付近で発生したと考えられ、琉球諸島アイヌに多く本州で少ないという特徴的な分布をしている。 いわゆる縄文人の遺伝子で、これは、与那国島海底遺跡を作った人々 縄文人が高度な文明を持っていて、日本全体にすんでいたということになる。 失われた大陸ムーの祖先か? >番外編.その2)奈良人は朝鮮系? 「奈良」の語源について 「古代に朝鮮半島からの移住者が奈良の辺りに多く住み着き、そこに王朝を作って韓国語で"国"を意味する"ナラ"と名付けた」と言う説がある。 奈良人のDNAを検査した結果、周辺の県より突出して朝鮮系のDNAを持つ人の割合が多かった。 奈良に朝鮮系の渡来人が大勢住んでいたのは確かである今売れに売れているこの本だが、自分の視野を広げるという点においては、 この記事を読んで日本人のルーツについて興味を持った人はぜひ読んでみるといい。 日本人はどこから来たか!?遺伝子から分かるグレートジャーニーの真実

日本最大のミステリーは 実は、我々、日本人そのものである。といえる。 番外編.)日本人特有のM7aグループ 日本には世界で日本人にしか見られないM7aというグループがある。 これは台湾付近で発生したと考えられ、琉球諸島アイヌに多く本州で少ないという特徴的な分布をしている。 いわゆる縄文人の遺伝子で、これは、与那国島海底遺跡を作った人々 縄文人が高度な文明を持っていて、日本全体にすんでいたということになる。 失われた大陸ムーの祖先か? 番外編.その2)奈良人は朝鮮系? 「奈良」の語源について 「古代に朝鮮半島からの移住者が奈良の辺りに多く住み着き、そこに王朝を作って韓国語で"国"を意味する"ナラ"と名付けた」と言う説がある。 奈良人のDNAを検査した結果、周辺の県より突出して朝鮮系のDNAを持つ人の割合が多かった。 奈良に朝鮮系の渡来人が大勢住んでいたのは確かである。今売れに売れているこの本だが、自分の視野を広げるという点においては、 この記事を読んで日本人のルーツについて興味を持った人はぜひ読んでみるといい。

「縄文人ゲノム解読 私たちのルーツは」

日本人の祖先と思われている縄文人。そのイメージが大きく変わろうとしています。 福島県で発掘された人骨からゲノムが解読され、「縄文人はアジアの他の地域の人たちと大きく異なる特徴を持っていた」とわかったのです。そればかりか、現代の日本人とも予想以上に違いが大きかったと示されました。 では一体、縄文人とは何者だったのか?私たちのルーツにも関わる最新科学の意味を3つのポイントから読み解きます。

まず、「核DNA解析」と呼ばれる今回の手法が、これまでと何が違うのか整理します。 続いて、解析の結果つきつけられた「縄文人とは何者か?」、さらには「では私たちは何者なのか?」 という謎を読み解きます。 そして、「科学が変えた人類観」。DNA解析の進歩は、人類がどんな存在なのか?というイメージ自体を変えてきました。それをどう受け止めればいいのか考えます。 先月、国立遺伝学研究所などのグループが「縄文人の核ゲノムを初めて解読した」とする論文を 専門誌に発表しました。この「縄文人」とは、福島県新地町にある三貫地貝塚で発掘された3千年前の人骨です。三貫地貝塚は、昭和20年代に100体以上の人骨が発掘された、縄文時代を代表する貝塚のひとつです。研究グループは、東京大学に保管されていた人骨・男女2人の奥歯の内側からわずかなDNAを採取し、解析に成功しました。 DNA解析と言えば、今や犯罪捜査から薬の副作用の研究まで様々な分野で使われていますが、今回の研究では「核DNAの解析」というのがポイントです。実はこれまで「古代人のDNA」というと、行われてきたのは「ミトコンドリアDNA」というものの解析でした。 私たちの細胞には「核」があってその中に「核DNA」が入っていますが、これとは別にミトコンドリアという小さな器官の中にもDNAがあります。ミトコンドリアはひとつの細胞に数百個もあるため分析に広く使われてきました。ただ、ミトコンドリアDNAの持つ情報は限られていて、文字数に例えると2万文字以下の情報しかありません。これに対し、核DNAは32億文字にも上り、私たちの姿形や体質など膨大な情報を含んでいます。技術の進歩で新たな分析装置が登場したこともあって、今回、日本の古代人では初めて核DNAの一部が解読されたのです。 では、縄文人とは何者だったのか?こちらは解析の結果、三貫地縄文人が現代のアジア各地の人たちとどれぐらい似ているのか、プロットした図です。近い場所にある人同士は核DNAがより似ていることを示します。すると、縄文人はアジアのどこの人たちとも大きな隔たりがあるとわかりました。それだけでなく、現代の日本人ともかなり離れています。現代の日本人は、縄文人よりむしろ他のアジアの人たちに近い位置にあるのです。 こうした距離は、人々が共通の祖先から別れて別々に進化を始めた時代の古さを示すと考えられています。DNAには時間と共に突然変異が起きるため、別れてからの時間が長いほど違いが大きくなるためです。 そこで、この結果を共通祖先からの分岐の古さを示す「進化の系統樹」にするとこうなります。「ホモ・サピエンス」と呼ばれる私たち現生人類は20万年前にアフリカで誕生し、その後他の大陸に進出しました。ヨーロッパに向かった人たちと別れ、東に進んだグループのうち、最初に分岐したのはパプアニューギニアからオセアニアへ渡った人たちです。そして解析の結果、次に別れたのが縄文人だったのです。これは、縄文人が他のアジア人ほぼ全てと別のグループであることを意味します。他のアジア人はその後、中国や東南アジア、さらにはアメリカ大陸に向かう集団へと別れました。現代の日本人もこちらのグループに入っています。これを見る限り、縄文人は日本人の祖先には見えません。ただ同時に、この矢印は、縄文人と現代の日本人のDNAのうち12%は共通だということを示しています。一体どういうことなのか?研究者が考えるシナリオです。 およそ4万年前から2万年前の間に、大陸から日本に渡った人々がいました。大陸とは海で隔てられていたため、この人々はその後大陸のアジア人と交わること無く進化を遂げ、縄文人の祖先になります。その間、大陸のアジア人も様々に別れていきました。 そして、縄文時代の末以降、再び大陸から日本に大勢の人が渡ってきました。いわゆる渡来系の弥生人です。稲作文化を持ち込んだ渡来系弥生人は人口の多くを占めるようになりますが、その過程で縄文人と幾らか交わりを持ったため、現代の日本人には12%だけ縄文人のDNAが伝えられたのです。従来の研究では、現代日本人には縄文人の遺伝子が2割~4割ほど入っているとも考えられていましたので、それよりかなり少ないという結果です。 ただし、これはあくまで福島県・三貫地貝塚のわずか2人のDNA解析の結果です。「縄文人の中にも多様な人達がいて三貫地縄文人は現代人との共通性が低かったが、西日本の縄文人はもっと共通性が高いかもしれない」と考える専門家もいます。現在、国立科学博物館などのグループでも、北海道から沖縄まで各地の古代人の核DNA解析に取り組んでおり、今後、日本人のルーツはより詳しく解明されていくでしょう。 さて、こうした科学の進歩は私たちが抱く「人類観」さえ変えてきました。 発端は1987年、ミトコンドリアDNAの解析から、アメリカの研究グループが衝撃的な発表をしました。それは、「世界の人々の母方の祖先をさかのぼると、20万年前のアフリカにいた、たった一人の女性に辿り着く」というものでした。この女性はミトコンドリア・イブ」と名付けられました。 このことは、それ以前から各地にいたはずの古い人類たちを、あとからアフリカを出た我々ホモ・サピエンスが全て絶滅させ、置き換わった証拠だと考えられました。 しかし、これをくつがえす人類観も、今度は核DNAの解析から生まれました。2010年、ドイツのグループがおよそ4万年前にヨーロッパにいたネアンデルタール人の核DNAを解読。「我々はネアンデルタール人からDNAの数%を受け継いでいる」と発表したのです。 この発見は、ホモ・サピエンスネアンデルタールと共存し交わりを持って子孫を残した、それが我々の祖先だということを意味します。私たちは他者を滅ぼすばかりの攻撃的な種では無く、異なる人々を受け入れ、それによって豊かな多様性を持つようになったのではないか?そんな可能性を科学が示したのです。 こうした発見の積み重ねの先に、いつの日か「私たちはいかなる存在なのか?」そんな根源的な問いにも答えが出されるかもしれません。

今回の調査では、核DNA解析など今までにない最新の科学的手法が試された……。

その結果、私達の先祖である縄文人の遺伝子中に縄文人特有のDNAが見つかったという。それは中国大陸系の遺伝子(DNA)とは全く別の場所からやって来たDNAだった…。研究結果を受けてこの新しい縄文人DNAが一体どこからやって来たのか?という新たな課題も見えてきた。

縄文時代とは?

縄文時代とは、記録に残る最も古い時代で今からおよそ1万6,000年前から3,000年前にあたり、その後の「弥生時代」へと続く。

約1万3000年の間、北海道から沖縄まで日本全国をカバーする時代だった。

縄文人の核DNA解析に成功

 

今回縄文人の核DNAの解析に成功した。今までも解析はされてきたがほんの一部だけ。これまで分析対象にされてきたのはミトコンドリア内部のDNA。「ミトコンドリアDNA」は数が多く残存しやすいため分析が容易だ。しかしDNA塩基の数は少なく1万6000個しかない。( 得られるデータ量が少ない) ところが、核DNAには約30億個もの塩基の数があり、解析に成功すれば非常に多くのデータが得られるという。ただし核は各細胞に1つしか無いため非常に残存しにくい。…今までは解析が非常に難しかった。

国立遺伝学研究所)のチームが解析

今回、国立遺伝学研究所の 齋藤成也教授をリーダーとするチームが核DNAの解析に成功した。DNAは生きている人間であれば唾液などから大量に採取する事ができる。しかし古代人の場合は、骨に残されたDNAを採取するしかない。そしてそのほとんどは分解が進み、残っていないため分析出来る可能性は低い。

外気に触れない歯の根からDNAを採取

そこで齋藤成也先生が狙いをつけたのは「歯」だった。状態の良い歯を入手するため、1950年代に発掘が開始された福島県三貫地貝塚(ふくしまけん さんがんじかいづか)へ……。この貝塚では縄文人の骨が多数発掘されており、人骨の出土数は国内最大でこれまでに100体以上出土している。しかも比較的寒冷な地域だ。出土した骨を管理研究している 諏訪元 教授(東京大学総合研究博物館)は齋藤成也教授に「成人の男女二人の歯の根」の部分を提供。果たして狙い通りに外気に触れることなく温存された部分から核DNAを調べることが出来るだろうか……

非常に難かったDNAの取り出し作業

しかし実際のところ、歯の根の内部からDNAを取り出す作業には困難が伴った。神澤秀明(国立科学博物館研究員)さんは、歯の内側を削り取り、その中からDNAを取り出そうとしたが、本来繋がっているはず塩基はバラバラ。しかも外部から入ってきたバクテリアなど別の生き物のDNAも混じっていた。その中から縄文人のDNAを選り分けて取り出すのは、苦難の連続だったという。

核DNAであれば日本人のルーツも調べられる

従来解析に使ってきたミトコンドリアのDNAは母方の先祖からのDNAしか受け継がない。(父親側のDNA情報は解らない)そのため母方のルーツしかわからなかったが、核DNAには両親のDNAが受け継がれているため、より正確に日本人のルーツを調べることも可能になったという。

我々は「オリジナル縄文人」の祖先?

3,000年前、縄文時代が終わり弥生時代になると、中国大陸より「渡来系弥生人」が渡って来た。 つまり私達のご先祖様は、渡来系弥生人だと思われていた。しかし解析の結果、我々現代日本人のDNAには中国大陸の人々のDNAとは違うルートからのDNAも混ざっている事がわかった。それが本州独自(オリジナル)の”縄文人DNA”。DNAの性質別に分布図で示すと中国大陸(ベトナム=キン族、中国=ダイ族(雲南省)、中国=漢民族(北京)など)の大陸系のDNA分布とは少し離れた場所に現代日本人が表示される。

縄文人のDNAは分布図の更に離れた所に有り大陸系DNAとは大きく性質が異なっていた。現代日本人が大陸系DNAの集団と少し(性質が)離れているのはこの「縄文人」のDNAの影響が色濃く反映された為と推察された。大体2割位が縄文人DNA、8割が大陸系DNAとして混血し現代の日本人に受け継がれているという。

では”縄文人DNA”はどこからやってきたのか?

20万年前、アフリカで誕生した全人類の先祖。その後、アフリカ大陸からアジアに向かった集団がいた。

この集団「原アジア人」はさらに、東アジアに向かった集団と東南アジアに向かった集団に分かれる。「渡来系弥生人」は「東アジア」の集団から別れ日本に到達した。今回判明したのは、「縄文人」は「東アジア」「東南アジア」の分岐よりも前にすでに分岐が始まっていたということ。”オリジナル縄文人”は、中国人の先祖やベトナム人の先祖よりさらに古い時代に日本にやってきて独自の文化を作った可能性があるという。オリジナル縄文人のDNAはアジアのどこにも見つからないもので全く新しい場所から発生している可能性があり、ユーラシア大陸のどこからやってきたのかもわからず、調査も振り出しに戻ってしまったという。

現在考えられている仮説は…

  • 南北にとても広い日本列島で数多くの色んなDNAが混血し全く新しいDNA(今までに発見されていないDNA)を作った可能性

 

アフリカ大陸からまだ知られていない全く未知のDNAが縄文人として存在した可能性などがある。

縄文人はどんな姿かたちだったのか?

福島県三貫地貝塚から初めて解析された縄文人の核DNA。この成功により、青森県の遺跡などの人骨からも次々と新しい解析が進んでいる。(青森では8割もの核DNA解析に成功)その結果、縄文人はシミが多いことがわかった。本川智紀さん(ポーラ化成工業)は、12年前「染色体MC1R部分のシミに関する塩基配列」を発見。日本人の体質=縄文人の体質は「シミ」になりやすい肌を持つことがわかった。データによれば縄文人の体質の特徴は以下のようになる

>髪はストレート … 弥生人の遺伝子

  • シミになりやすい
  • 耳垢が湿っている
  • くせ毛
  • 二重まぶた
  • ウインクができる(ウインクするときに口が動かない)

 

 

南沢奈央の遺伝子は、縄文人の遺伝子が優っているように思えた。アフリカ大陸から来た当初人類はウインクが出来たという。日本人は、2割が縄文人のハイブリット。それが日本人の多様性を受け継いでいるという。

核DNAが人類学を変える

渡来系弥生人のさらなる詳細なども今後わかるようになり、噂とされていたことが科学的に立証できるようになれば、人類のルーツを知ることができるかもしれないと話した。

さて、こうした科学の進歩は私たちが抱く「人類観」さえ変えてきました。

発端は1987年、ミトコンドリアDNAの解析から、アメリカの研究グループが衝撃的な発表をしました。それは、「世界の人々の母方の祖先をさかのぼると、20万年前のアフリカにいた、たった一人の女性に辿り着く」というものでした。この女性は「ミトコンドリア・イブ」と名付けられました。

このことは、それ以前から各地にいたはずの古い人類たちを、あとからアフリカを出た我々ホモ・サピエンスが全て絶滅させ、置き換わった証拠だと考えられました。

しかし、これをくつがえす人類観も、今度は核DNAの解析から生まれました。2010年、ドイツのグループがおよそ4万年前にヨーロッパにいたネアンデルタール人の核DNAを解読。「我々はネアンデルタール人からDNAの数%を受け継いでいる」と発表したのです。

この発見は、ホモ・サピエンスネアンデルタールと共存し交わりを持って子孫を残した、それが我々の祖先だということを意味します。私たちは他者を滅ぼすばかりの攻撃的な種では無く、異なる人々を受け入れ、それによって豊かな多様性を持つようになったのではないか?そんな可能性を科学が示したのです。

こうした発見の積み重ねの先に、いつの日か「私たちはいかなる存在なのか?」そんな根源的な問いにも答えが出されるかもしれません。 ヒト=カタワのサル~サルからヒトへは退化であり進化である2007-02-02

「祖先の物語シリーズ」は「サルから人類へ」の秘密に迫る。これまでしてきたことをまとめ、発展させてお送りしています。 >いつも興味深く読ませていただいております。 直立歩行、謎ですよね。渚原人とか際物学説もありますが。 突然変異ありきで、確かに、おもしろい学説です。しかし、少数の突然変異の個体が生まれた場合、生存の危機になるような形質が受け継がれるような集団が形成可能でしょうか?弱者こそ生き残るという話もありますが。ご教示ください。 >渚原人はアクア説のことだと思いますが、アクア説については、 あの栗本慎一郎もアクア説を近著「パンツを脱いだサル」で協力にプッシュしています。栗本氏といえば「双極的世界観」や「市場社会以前の経済構造」について、有意義な理論を展開しており、最近は「小泉の同級生」として激しい小泉批判を展開するなど、理論家として、また政治評論家としても今改めて注目の存在かと思います。(やや論理の飛躍があるところには注意が必要ですが・・・。) そこで、今日は栗本氏の「パンツを脱いだサル」を引用しつつ、人類進化のナゾに迫ってみたいと思います。

>サバンナ説によれば・・我々の祖先は当初アフリカ大陸の森林地帯に暮らしていたが、気候の急激な変化が起こって森林地帯にサバンナ化が進行した。そこで、一部の類人猿のなかからは、木から降りて、サバンナでの暮らしを選び取るものが現れた。狩をする必要に迫られた彼らは、獲物を見つけるために直立し、両手に武器を持って二足歩行することを選び、道具を工夫することで脳が発達し、大きくなった。 >しかしこの説にも、やはりおかしな点がある。足が短く、全速力で走っても大型哺乳類の何分の一の能力もないヒトが、たかだか立ち上がって周りが見渡せるようになったところで、生きるのに決定的に役立つわけではない。・・ラマピテクスの身長は1.2メートル程度で、背骨も曲がっていた。それでは遠くまで見渡すことはできないし、仮に獲物や敵を見つけたとしても、二足なので走るのが遅くて何にもならない。 そうですよねえ。これ、本当にそうだと思いますよ。大の学者がなんでそんなこともわからんのか、学者だからわからんのか・・ほんと不思議でしかたがないですよね。 >確かに、ヒトとチンパンジーの遺伝子は酷似している。しかし違いをよく見てみると、サルに比べてむしろ「退化」したのではないかと思える要素が実に多いことに気がつくであろう。実際、サルから進化したはずのヒトは、サルには身体的に可能なことのほとんどができなくなってしまった。ヒトの下肢は物をまったく掴めないし、何かにぶら下がることも不可能だ.上肢もサルに比べて非常に短く、確かに器用に動かせるようにはなったが、筋力が著しく減衰して、上肢一本で体を支えることはできなくなった。 >サルだって必要なときは二足歩行ができるし、たまには両手で物を掴んだり、簡単な道具を使うこともできる。しかし、何かに追われて逃げるときや早く走りたいときなど、自らの生存にかかわるような場合には、必ず四足を使う。 >なぜ、ヒトは直立姿勢を選び、さらに体毛も捨てて、あえて危険が選んだのか。少なくとも、それを「進化」として選んだといえるのであろうか。ヒトがヒトとなることで失われてしまったもの、退化としか考えられないものはたくさんある。そういうテーマの研究書はすでにたくさんだされているのだが、お偉い学者のほとんどがそれを気に入らないため、公然とは論じられなかった。それはまさしく(サルからヒトへの変化を進化だと考えたいという)土俵の問題であり、その土俵は信奉者の飯の種であるからだ。 栗本氏のいうとおりであろう。人類への進化とは「カタワのサル」への退化とそれによってもたらされた逆境の克服の過程であったのだろう。ただし、栗本氏はここからアクア説を採用する。もしかすると今後、考古学がアクア説を証明する可能性はないとはいえない。しかし、人類とサルを分かつポイントを考える上では、「人類はカタワのサル」で十分ともいる。いずれにせよ、栗本氏が指摘している通り、サバンナ説を覆っている「直線的な進化観」では、答えにならない。進化とは逆境と適応の塗り重ねであるとの見方を持つことで「人類の観念そのもの」もはじめて、真っ当に働き出すのではないか? >「弱者こそ生き残る」のです。

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実現塾「サル・人類史年表4」~共認充足を命綱にして生き延びたカタワのサル=人類2016年01月14日

「サル・人類史年表」 大型化・凶暴化した制覇種が類人猿だが、同類闘争圧力が衰弱した特殊環境に棲息するチンパンジーの亜種ボノボでは、凶暴性は影を潜め、性充足(共認充足)によって統合されている。では、人類はどうであったのか?

人類の起源説の一つに、アフリカ東部の草原説がある。アフリカ東部の大地溝帯両側の山脈が隆起して大西洋からの湿った風を遮った結果、乾燥によって森林が減退し草原化した。類人猿は大地を歩かざるを得なくなって直立二足歩行を身に付け、完全に空いた手は道具を扱うようになったから脳が発達して現在の人類が誕生したという説である。この説はあたかも真実であるかのように流布されてきたが、近年、全くの嘘であったことが明らかになり、提唱者(イブ・コパン)自身が撤回宣言を出している。

大地溝帯が本格的に隆起したのは400万年前で、500万年前に人類が登場した、その後の話である。しかも、それによってアフリカ東部はそれほど乾燥化したわけでもなく、森林は十分あったとのこと。そして決定打は、アフリカ西部のチャドから二足歩行する上に600-700万年前のトューマイ猿人の化石が発見されたこと。このトューマイ猿人が棲息していた環境は「魚やワニの化石」が残っている事からして、湿潤な環境だったと考えられる。「直立二足歩行する人類の発祥、有名な仮説が崩れていた」

人類は足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちと同様、足で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサルである。樹上に棲めるという本能上の武器を失った結果、人類は想像を絶する様な過酷な自然圧力・外敵圧力に直面した。そこで、本能上の武器を失った人類は、残された共認機能を唯一の武器として、自然圧力・外敵圧力に対応し、そうすることによって、共認機能(≒知能)を更に著しく発達させた。 『実現論前史』「人類:極限時代の観念機能」

学者は先の草原直立説だけでなく、洞窟内からマンモスの骨が出土することを以て原始人類がマンモス狩りをしていただとか嘘を並べ立てているが、彼らは原始人類が置かれた極限状況を全く理解していない。草原になったからと云って、樹上という楽園を捨て、好き好んで危険な草原に出てゆくはずがない。森林の移動に合わせて移動すれば終いである。このように、草原化したから二足歩行になったという学者の論理は全く整合していない。 人類が地上に棲むようになったのは、突然変異によって樹上機能を失ったからだと考えるしかない。樹上機能を失った人類は、キツネなどの小動物にも負ける弱い存在なのであって、マンモスのような大型動物を狩れるはずがない。もし、それだけの力があれば、他の動物も棲まない劣悪な環境である洞窟に500万年間も隠れ棲むはずがないだろう。洞窟から動物の骨が出土するのは、他の動物が喰い残した動物の死骸の骨を拾い集めて、脳髄や骨髄を主食として啜っていたからに他ならない。

では、人類はどのようにして圧倒的な極限状況を突破しようとしたのか?

本能上の武器を失った人類は、残された共認機能を唯一の武器として、自然圧力・外敵圧力に対応し、そうすることによって、共認機能(≒知能)を更に著しく発達させた。 もちろん、共認機能の発達によってすぐさま、他の動物と互角に闘えるようになったわけではない。が、絶望的な状況下に置かれたカタワのサル=人類が、その極限時代500万年間を生き延びることが出来たのは、強力な親和共認充足を形成し得たからであり、もしそれがなければ、人類は生きる希望を失って早々に絶滅していたであろう。 その充足源(活力源)の中心が性であり、とりわけ人類の雌は性充足機能を著しく進化させている。もう一つ、日々の充足源となったのが踊り(祭り)である。その副産物として、左右交互に足を踏み鳴らす踊りが歩行訓練にもなり、結果として直立歩行できるようになったのである。そして、直立によって両手が自由に使えることになった人類は、石器をはじめとして様々な道具類を作り出し、生存様式を進化させていったのである。

このように、共認充足を命綱として極限状況を生き延びてきた人類は、類人猿由来の凶暴性を封鎖したと考えられる。加えて、極限状況ゆえに人類は単独集団として生存しており、人類史500万年のうち499万年は同類闘争を行っていない。つまり、DNAに刻印された凶暴性を発現する契機はなかった。

もちろん、共認充足機能を強化しただけでは、外敵動物と互角には闘えない。実際、つい1.5万年前までは人類は洞窟に隠れ棲んでいた。 では、原始人類はどのようにして、極限的な生存圧力に適応していったのか?

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「人類=カタワのサル」再考2007年09月13日

サル⇒人類誕生時、地上生活が始まる要因について、専門家vsるいネットでは180度見解が異なっています。 【専門家;地上に進出した】vs【;樹上に住めなくなった】 専門家たちの見解には色々あって‘定説’にまで至っていないようですが、主流とされているのはおおよそ以下のような見方のようです。 「人類の肢指の形が変わったのは、地上生活に順応するため」 「直立2足歩行~足親指が他の指と同方向に動いた方がより早く歩ける」 「地上で生活するようになってから後に、足親指が対向して動かないかたちになった」 これらは大雑把に『地上生活順応説』という呼び方で括れると思います。 すなわち、本能(肉体)的にも、猿より高等(適応的)に進化したという見解です。 これに対し、るいネットでは『実現論‐第1部前史‐ヘ.人類:極限時代の観念機能』で 「足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちと同様、足で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った結果、想像を絶する様な過酷な自然圧力・外敵圧力に直面した。」としています。 本能(肉体)的には猿→小型哺乳類レベルに逆戻り(退化?)した という見解です。 はて、どちらが事実なのか?

シンエイFootLabよりチンパンジー足指の「母趾対向性」 木があるのに積極的に地上に出て行く。そのためには木の上に代わる防衛力を身につける必要があります。しかし、初期人類の化石からはサルを上回る肉体的な防衛力を手に入れたような痕跡は見られません。脳の容量が増えるのも地上に降りてからです。 にもかかわらず、「樹上⇒地上に進出した」とする専門家の見方には “進化”という先入観があるように思われます。 たしかに「進化」と言うと『より適応的に変異する』ことをイメージしがちです。 中でも「種の進化」というのは、従前種には無いなんらかの‘新たな適応原理を開発or発見する’方向に変異したことに違いありません。 しかし「種として進化する=爆発的に個体数が増え、数世代以上その種として安定・継続できるようになる」までの間は、360度あらゆる方向への突然変異の試行錯誤があって然るべきだと思います。 この探索過程を抜きにして「現在の適応形態に一直線に進化した」とか、「全ての進化はより高等な方向に進むはず」「人類の種としての優越性」というような先入観で物を考えるのは危険だと思います。 以上より、個別現象事実間の整合性が高い=事実の成立構造に肉薄しているのは『実現論』です。 以下、地上生活順応説への主だった反証を引用しておきます。 『肢の指の退化=適応説への反論』

おそらくこのような疑問の背後には現在の人類学者に見られる、地上に降りたこと或いは直立したことが、あたかも素晴らしいことであると言う思い込み(その背後にある人類の種としての優越性という錯覚)があるような気がします。 木の枝を肢の指で掴めなくなった、つまり樹上で暮らせなくなった、ことが如何に決定的に生存にとって不利な状況であったかをリアルに想像してみる必要があるのではないのでしょうか?人類は鋭い爪も牙も力も走力も他の哺乳類に比して圧倒的に劣ります。つまり樹上を追われたサルは到底適応できる存在ではありません。 また地上で暮らすようになったから、その必要性が無くなった、というのも矛盾です。実際ニホンザルなどは地上での生活時間のほうが長いのですが、相変わらず樹上で暮らす機能は退化していません。言うまでもなく、いざと言うときに樹上に逃避できることは大きな武器だからです。 またサルは実際ある程度の時間直立歩行することが可能です。そして直立に必要なのは主に腰骨の機能であって、それさえ変化させれば、肢の指の形状を変えなくても直立歩行は可能です。つまりどこから考えても、肢の指で木を掴める機能を退化させる積極的必要性はどこにもありません。 かつこの肢の指の変化は突然変異と言っても、新しい機能が生まれたわけではありません。肢の指が木の枝を掴めなくなる=指が対角線上に曲がらなくなる、という否定形の変化です。つまりある遺伝情報が発現しなくなる、というだけの変化ですから。ウィルスであれ、ホルモン物質→内分泌の変化であれ、遺伝情報を撹乱・破壊する環境要因の変化があれば、一定の確率で、ある地域の集団内の複数の個体に充分起こり得るものだと思います。 もちろんこの変化は元々非適応的なものですから大多数のケースは絶滅したでしょう。その中で共認機能だけを頼りに奇跡的に生き延びてきたのが始原人類です。加えてあくまでも、本能でも共認でもどうにもならない事態に直面したからこそ、それを突破し得る最先端機能=観念を生み出したことも忘れてはならないと思います。

『サルからヒトへの足の指の変異:『地上生活順応説』には物証もなければ論理的反証が多すぎる』

逆に専門家が言うように、地上生活が先であったとしたら、ほとんど木に登らず地上生活を営んでいるゴリラやヒヒは、なぜその生活様式に順応した足の指になっていないのか?という疑問が浮上します。 しかも、ゴリラもヒヒも真猿類の進化系統樹上は、ヒトが原チンパンジーから枝分かれする遥か以前に登場しており(この点は最近のDNA解析の成果として証明済み)、地上生活をする霊長類としては彼らの方が先輩ですから、順応するための時間という観点からは、ゴリラやヒヒの方が有利です。ならば、人類の祖先は原チンパンジーではなく地上派のゴリラやヒヒである可能性の方が高くなるはずです。ついでに言うなら、ゴリラやヒヒから枝分かれしてヒトに進化した種がいたと言うなら、チンパンジーよりもゴリラやヒヒに近いDNAを持った人類の化石が発見されていてもいいはずです。 しかし、これらの点は最近のDNA解析という言わば物証から、人類の祖先は原チンパンジーであることがほぼ明らかになりました。つまり、地上生活に順応するために足の指の形質が変わったという認識には、物証がないだけではなく、他の多くのサルの生活様式と進化論的思考との照合からも、論理的反証が多すぎるのです。

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シャーマンとは何か11~性充足が部族和合を実現する最強の贈与だった2018年11月01日

前稿「人類の観念機能の土台となったドーパミン」では、人類では快感物質ドーパミン回路が発達し、それが人類の探求機能~観念機能の土台となったことを紹介した。

樹上機能を失い、絶望的な状況下に置かれたカタワのサル=人類は、性と踊りをはじめとする強力な充足回路を形成した。それが人類がドーパミン回路を発達させた理由であり、それがなければ、人類は生きる希望を失って早々に絶滅していたであろう。 『実現論』「前史ト.人類の雌雄分化と人類の弱点」

その名残りが、古代のシャーマン(巫女)の性と踊りのエクスタシーである。

以下は、『皇統と鵺の影人検索キーワードダイジェスト集』「巫女(みこ/シャーマン)」を要約したもの。 ------------------------------------------- シャーマニズムにおいて「神懸り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣」を下す事である。巫女舞の「神懸り」とは、巫女に過激な舞踏をさせてドーパミンを発生させ、エクスタシー状態となる事である。それによって、神が巫女に降臨し「神懸り」状態となる。

現代でも、夜通し踊ればベータ・エンドロフィンが脳内に作用してダンシング・ハイの興奮状態になるが、陰陽修験に伝わる呪詛行為の術では、巫女に過激な性交をさせてドーパミンを発生させ、脳内麻薬のベーター・エンドロフィンを大量に発生させる。巫女がオーガズム・ハイの状態になれば、その巫女の様子から周囲が神の降臨を認め、「神懸り」と成る。

日本には古来から女神が多いが、女神の資格は性交の儀式を執り行う事であった。

大和合の国(日本列島)黎明期の女神は、神の言葉を天上から受け取り、御託宣として下界の民に伝えるのが役目、つまり巫女(シャーマン)だった。そこに介在したのが、神事として奉納する性交の儀式である。五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛として、巫女の神前性交行事が神殿で執り行われていた。

弥生時代古墳時代まで、日本列島は縄文原住民族と多数の渡来部族が混在する人種の坩堝(るつぼ)だった。 そこで、部族間の争い事を回避する呪術が、性交に拠る人種的和合の「誓約儀式(うけいぎしき)」である。それによって次代が混血し部族が和合する。異部族間の性交が人種的和合の呪術だったからこそ、巫女に拠る神前性交儀式や神前娼婦などの文化が残った。

弥生期初期の頃は、本来の先住民・蝦夷族(縄文人)、加羅族(農耕山岳民族系渡来人、呉族(海洋民族)系渡来人の三系統に分かれ、その三系統も部族集団に分かれていた。最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段として始まった。そこで和解手段として最も実効があったのが誓約(うけい)の性交に拠る血の融合なのである。 ----------------------------------------------- ここで注目すべきは、原始人類の性充足が、ドーパミン回路を発達させ探求機能~観念機能の土台となっただけでなく、その後の採集部族に至っては、性充足が部族間の同類闘争を回避し、部族和合を実現する最強の手段となったという点である。 採集部族は平和友好を維持するために様々な贈与をしたが、とりわけ性充足こそが部族社会を統合する最強の贈与だったのである。

赤ちゃんの言葉の発達過程から、人類の言語の登場過程を推定する2017年06月22日

胎児→乳児→幼児に成長していく過程は生命の進化過程をなぞっている。ということは、言語の登場過程を解明する鍵も、赤ん坊にある。

『赤ちゃんの進化学』(西原克成著)によると、赤ん坊は一歳までは身体構造上、気管と食道が分かれている。これは、サルをはじめとする哺乳動物と同じであり、身体構造的に言葉を発することができないらしい。

胎児では、受精後、単細胞から始まって、心臓が動き出し、受精後30日ぐらいから魚類になり、両生類になり、手が生まれ、爬虫類になり、哺乳類になり、やがて刻々と人間(ヒト)になっていく。

しかし、一歳までの赤ちゃんは、ホモ・サピエンスではなく、他の哺乳類と同様の特徴をそなえている。

一歳を過ぎた頃から、赤ちゃんは段々に人間になっていき、二歳半の頃になってようやく「ホモ・サピエンスの子供」になる。

赤ちゃんは、母親の乳首に吸いついて数分間、息継ぎもせずにお乳を飲む。これは、人間以前の哺乳類に出来るが、大人の人間にはできない。つまり、大人は食べ物や飲み物を飲み込むとき息を止めるが、赤ちゃんは息を止めないでも飲み込める。

大人は、食道と気管が交差しているが、赤ちゃんは、この食道と気管が分かれていて、食道と気管がそれぞれの働きを同時にに行うことができるからである。サルやイヌ、ネコなど他の哺乳動物は、赤ちゃんと同じように、息継ぎせずに、食べ物を食べ続けることができる。ということは、赤ちゃんの身体構造は、他の哺乳動物と同じ段階にある。

成長した人間だけが他の哺乳動物と異なる喉の構造になったのは、人間が言葉を話すようになったためである。 声を発するメカニズムは、肺にある空気を、鼻ではなく、口へ向かって吐き出すことで、哺乳動物は声を発する。このとき、気管から鼻へ向かうべき空気が、喉の交差点で、口へと向かう。動物が吠えるときは喉を激しく緊張させ、かつ運動させ、気管を強引に喉の方に近づけ、食べ物の道である口につなぎ、さらに声を発する(吠える・鳴く)。これは、かなり努力を要する特別な作業である。赤ちゃんが泣くときも、全身に力をこめるほどの大変な作業をすることで泣くのである。他の哺乳動物と同じように、気管を強引に喉につなげることで泣き声を発するからである。

これが成人になると、食道と気管が喉で交差し、つながってしまうので、私たちは苦しまずに、声を発することができるのである。赤ちゃんが言葉を話すのは、構造的に無理なのである。

気管と食道が交差してある程度、人間の構造を備えてくるのが、一歳ごろだといわれている。 二歳半といえば、言葉もだいぶ話せるようになった頃であり、自分のアンヨで立って歩くことも楽にできる頃である。したがってこの時期までは、「この子は今、必死で進化の過程を歩んでいるのだ」と考えることが大切である。そして、三~五歳ごろに脳細胞が急激に発達する。

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だとすれば、①人類が言葉を話し始めたのは赤ん坊の成長段階でいうと1歳頃に相当する。②2歳に相当する段階でかなり言葉を話せるようになり、③3~5歳に相当する段階で急速に頭脳が発達した(言葉がしゃべれるようになっていきなり脳が発達するわけではない。おそらく、この3~5歳の脳発達に相当するのが現生人類の数万年前の急激な知能進化→道具や壁画の進化であろう)。

赤ん坊が1歳になる前に焦点を当てると、もう一つの顕著な変化がある。

生後数ヶ月の赤ちゃんはあらゆる言語の音を聞き分けられるらしい。それが、1歳を迎える前に大きな変化が起き、自国語に応じた脳構造に変化するらしい。

「赤ちゃんは、あらゆる言語の音を聞き分けられる」

東京の赤ちゃんと シアトルの赤ちゃんについて 「ra」と「la」を聞き分けるテストを行なった所、生後6~8ヶ月の赤ちゃんでは違いが見られなかった 。それが2ヶ月たつとアメリカの赤ちゃんは成績が良くなり 日本の赤ちゃんは悪くなる。 赤ちゃんの頭の中で言語の統計処理が行なわれており、赤ちゃんは言語の統計を吸収し それが脳を変化させる。

第2言語に接したことのないアメリカ人の赤ちゃんに、生後8~12ヶ月の言語習得の臨界期に初めて中国語に触れさせると、10ヶ月半ずっと中国語を聞いてきた台湾の赤ちゃんに劣らぬ、良い成績になった。赤ちゃんは、新たな言語に対して統計処理をしている。何語であろうと赤ちゃんは接した言語を統計処理する。

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まとめると、こういうことになる。

一歳になるまでに、①赤ん坊の身体構造(喉)は、気管と食道が交差するようになり言葉が話せるようになる。②それまでは、赤ん坊はあらゆる言語の音(波動)を聞き分けられる脳機能を備えているが、生後8ヶ月~1歳までの間に周囲で話されている言語に特化した脳構造に変化する。

原始人類が言語機能を獲得した時も同じ過程を踏んでいるはずである。

赤ん坊生まれた時が、500万年前カタワのサル=人類が登場した時だとする。3~5歳の急激な脳の発達が10~3万年前の現生人類だとする。それから推定すると、人類の言語機能の発達過程は次のようになる。

1歳児≒350~300万年前に喉の気管と食道が分かれた。同時に、それまで人類はあらゆる波動を聞き分ける聴覚(脳機能)を備えていたが、言語機能に特化した聴覚(脳機能)に変わる。小脳の発達と照準力を司る左脳シフト⇒右脳の抑制制御)もこの段階で進んではず。

2歳児≒200~100万年前の間に、かなり言葉を話せるようになり、

3~5歳時≒10~3万年前に急激に脳が発達し、道具や壁画が発達する。

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グループ追求は孤高の天才に勝る~江戸時代の自主追求グループ「連」

「グループ追求は一人の天才に勝る」という趣旨の書籍を紹介します。2016年08月14日

『凡才の集団は孤高の天才に勝る--「グループ・ジーニアス」が生み出すものすごいアイデア』キース・ソーヤー著 金子 宣子(翻訳 ダイヤモンド社) *****************************************

2009年3月22日毎日新聞に掲載された田中優子氏の書評を転載します。◇日本の伝統とも共通する創造力の秘密

 ビジネス書の書棚には近づかない方なのだが、この本の題名を見て思わず手にとった。それは私が、江戸時代の都市部で展開していた「連(れん)」というものに関心を持ち続けてきたからである。連は少人数の創造グループだ。江戸時代では浮世絵も解剖学書も落語も、このような組織から生まれた。個人の名前に帰されている様々なものも、「連」「会」「社」「座」「組」「講」「寄合」の中で練られたのである。

 私はこの創造性の秘密は、日本人固有のことではなく、人間の普遍的なありようではないのかと、常々考えていた。江戸時代では、個人が自分の業績を声高に主張しなかったので、連による創造過程があからさまに見えるのではないだろうか。コーディネイターとして人と人をつなげながら自分の能力を発揮した人こそが、日本の文化史には残っている。

 さて本書は原題を「グループ・ジーニアス」という。著者は経営コンサルタントを長く経験し、企業にイノベーション(革新)の助言をすることを仕事にしてきた。同時に心理学博士で、そしてジャズピアニストだ。この組み合わせには納得。江戸の連はジャズのコラボレーションに酷似している、と私も考えてきたからだ。そういう著者であるから、本書には即興演劇集団がどのようなプロセスで芝居を作ってゆくのか、ジャズセッションはどういう過程をたどるのか、著者自身の詳細な記録に基づいて述べられている。それと全く同次元で、ポスト・イット(付せん)がどう生まれたか、ATMやモールス信号がどのように発明されたかを書いているのが面白い。そこから見えるのは、個人の発明だと思っていたものが、実は様々な人々からの情報提供と深い意見交換を契機にしているという事実である。また個人のレベルでは十中八九失敗であるものも、最終的には画期的な発明がなされている。失敗が新しい時代につながる理由こそ、コラボレーションの力なのだ。

 江戸の連には強力なリーダーがいない。町長や村長など「長」のつく組織は明治以降のものであって、町や村もピラミッド型組織にはなっていなかった。それは短所だと言われてきた。戦争をするには、なるほど短所であろう。しかし新しいアイデアや革新を起こすには、社員全員で即興的に対応する組織の方が、はるかに大きな業績を上げている。本書はブラジルのセムコ社やアメリカのゴア社の事例を挙げ、現場のことは現場で即時対応することや、規模を小さくとどめるために分割することに注目している。それが伝統的な日本の創造過程とあまりにも似ていることに驚く。

 本書で提唱しているのはコラボレーション・ウェブ(蜘蛛(くも)の巣状の網の目)である。その基本の一つが会話だ。事例として日本の大学生の会話も収録されている。そこに見える間接的な言い回しが、可能性を引き出し創造性につながるものとされている。日本語(人)の曖昧(あいまい)さと言われるものが、実はコラボレーションの大事な要因なのだ。相手の話をじっと聞き、それを自分の考えと連ねることによって、新たな地平に導く可能性があるからだ。これは相手まかせではできない。能動的な姿勢をもっていてこそできることである。人を受け容(い)れるとは能動的な行為なのだ。

 江戸時代までの日本人は、集団的なのではなく連的であった。本書もピラミッド型集団とコラボレーションとの違いを明確に区別している。こういう本を読んで、日本のコラボレーションの伝統と力量に、今こそ注目すべきだ。 ***************************************** (引用以上)

ここで挙げられている「連」「会」「社」「座」「組」「講」「寄合」とは、江戸時代の庶民による自主追求グループであろう。 リサイクル技術をはじめとして、江戸時代の日本人の技術力が世界トップレベルであったことが明らかになりつつあるが、その追求力をはぐくんだ母胎が自主グループ「連」や「講」であったことは想像に難くない。 そして、追求充足が創造の源泉であったことは、江戸時代固有の話ではなく、人類の普遍的な在り様である。それは原始時代から歴史貫通的に当てはまる構造である。

『追求のススメ(サルから人類へ:観念機能の創出)』 足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちがそうであるように、足の指で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った結果、想像を絶する様な過酷な自然圧力に直面した。とうてい外敵に対応できない原始人類は、洞窟に隠れ棲むしかなかったが、彼らは恒常的に飢えに苛まれていた。 彼らは常に生存の危機に晒されており、当然「どうする?」⇒「世界(自然)はどうなっている?」という未知への収束と追求回路に全面的に先端収束する。そして、人類は、直面する未知なる世界=不整合な自然世界を「なんとしても掴もう」と、自然を凝視し続けた。それは、生命の根源をなす適応本能(整合本能)と共認機能を深く結びつけることになった。そのようにして、みんなで毎日毎日追求し続ける、その中で、追求共認⇒追求充足の回路が、共認回路の奥深くに形成され、その共認充足が更に強く皆を追求に向かわせていった。

チンパンジーと人類の違いから ~追求充足が進化の源泉~2016年04月26日

1頭のチンパンジーが蟻塚の前で立ち止まり、小枝を拾った。そして、巣の入口を覆っている柔らかい土に小枝の片端を挿し込み、蟻塚の兵隊アリが攻撃してくるのを待った。アリの群れが小枝を10cm程登ってくると、チンパンジーは巣から枝を抜き、枝の向きを手際よく変えて巣に刺した片端を自分の口に向け、群がっていたアリを食べた。たらふく食べるまでその過程は繰り返される。

チンパンジーは様々な道具を巧みに使う。石で木の実を割ったり、葉を使って木のうろにたまった水を吸い取ったり、棒で栄養価の高い植物の根を掘り出しできる。しかし、彼らはこの知識をもとに前進したり、もっと高度な技術を生み出したりはできないようだ。例えば、棒を使ったシロアリの狩猟法を仲間に教えることはできるが、別の物を挿し込んでみようということはなく、同じことを繰り返すだけだ。

一方、現生人類はそのような限界はない。実際、私たちは日常的に他人のアイデアを拝借し、それに独自の工夫を加えて改良し、最終的には新しくて非常に複雑なものにする。例えば、一個人だけではノートパソコンに投入されている複雑な技術のすべてを思いつくことはできない。そのような技術的偉業は何世代にもわたる発明の塗り重ねによって出来上がっている。

人類学者はは、私たち人類のこの特技を「分化の累積(カルチャル・ラチェッティング)」と呼ぶ。これには何よりもまず、ある人から別の人へ、あるいはある世代から次の世代へと、誰かが改良のアイデアを思い付くまで、知識を伝えていく能力が必要となる。

何故、人類は知識の伝達・応用ができ、サルはできないのか?

2012年、英国の霊長類学者が、ある実験を行った。実験用パズルボックスを設計し、チンパンジーとオオマキザル、そして英国の幼稚園児の集団にやってもらった。このパズルボックスには難度レベルが3つあり、あるレベルの問題はその下のレベルの問題を解いた後でないと解けない仕組みになっている。

55頭のサルのうち最高レベルにたどりついたのは1頭のチンパンジーだけで、しかも30時間以上もかかった。 しかし、幼稚園児たちははるかに上手くやった。サルの集団と違って、園児の集団は話し合ったり、励ましたり、正しいやり方を教え合うなど協力して取組んだ。2時間半後、35人のうち15人が最高レベルに到達した。 (写真はイメージです)

こうした認知能力と社会的スキルを私たちの祖先は、なぜ獲得することができたのか。前述の実験を受けて、ロンドン大学の進化遺伝学者たちは「人口密度」が関係しているのではないかという仮説を立てている。

集団規模が大きいほど、技術を進歩させるアイデアを誰かが思いつく可能性が高まる。さらに、隣接集団と接する可能性が高いほど程、新しい技術革新に触れる機会が高まる。しかし、文化的な革新には、個人どうしが密に結びついた特別な社会状況が存在していたのではないかと考えられている。

『追求のススメ(サルから人類へ:観念機能の創出)』 足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちがそうであるように、足の指で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った結果、想像を絶する様な過酷な自然圧力に直面した。とうてい外敵に対応できない原始人類は、洞窟に隠れ棲むしかなかったが、彼らは恒常的に飢えに苛まれていた。

彼らは常に生存の危機に晒されており、当然「どうする?」⇒「世界(自然)はどうなっている?」という未知への収束と追求回路に全面的に先端収束する。そして、人類は、直面する未知なる世界=不整合な自然世界を「なんとしても掴もう」と、自然を凝視し続けた。それは、生命の根源をなす適応本能(整合本能)と共認機能を深く結びつけることになった。そのようにして、みんなで毎日毎日追求し続ける、その中で、追求共認⇒追求充足の回路が、共認回路の奥深くに形成され、その共認充足が更に強く皆を追求に向かわせていった。

追求充足の回路が、共認回路の奥深くに形成されてきた結果、幼稚園児どうしがが話し合ったり、励ましたり、正しいやり方を教え合うなど協力して取組んだ実験結果に繋がっていると考えられます。 そのように考えると、追求共認⇒追求充足回路の獲得が、人類進化の源泉といえるのではないでしょうか。

【参考】「別冊日経サイエンス ~化石とゲノムで探る人類の起源と拡散』

「まつり」は本来、目に見えない神や精霊の世界とつながる場2016年02月25日

今回もシャーマニズムの続きです。:

シャーマニズムは、ヒトと自然界とのつながりを保ちつづけるための深層の絆人類はコトバの獲得と文化の形成によって自然から離れてしまった

・「まつり」は本来、目に見えない神や精霊の世界とつながる場だ。 ・ヒトは太古からシャーマニズムの文化を発達させ、変性意識状態になることで目に見えない精霊(スピリット)の世界とのつきあいを保ってきた。 ・シャーマンと呼ばれる人たちは規則的な音や幻覚性植物の力などによってある種の変性意識状態(シャーマン的意識状態とも呼ばれる)に入り、自然界の精霊や祖先の霊などと交流する。 ・太鼓の音やドラッグなどで変性意識に入ることによってその枠組みが 一時的に外れると、日常の世界の思考や行動をまるで違う視点から眺めることができたりする。

 太古のヒトにとって、自然界の精霊と交流することは特別なことではなかった。 その入口は、踊りやうたによる「まつり」によって生まれる変性意識状態にあり、現代人は身に付けてきた様々なコトバや枠組みにより、自然界の精霊と交流するような自由な思考を失ってしまった。 現代人も「踊り」によって得られる変性意識状態により、様々な枠組みから自由になれるのだろうか、、、

 踊るヒト科の、明日はどっちだ?(リンク)より

「踊る」という行為が、現代社会でよみがえりつつある。 その最たるものが、90年代から盛り上がったダンスミュージックやレイヴパーティーのシーンだ。 レイヴパーティーとは、野外のキャンプ場などでトランスとよばれるテクノミュージックを大音量でかけ、一晩中踊り明かすイベント。レイヴ(rave)とはもともと「うわごとを言う、荒れ狂う」という意味。80年代の終 わりにイギリスで起きたアシッド・ ハウスの野外パーティーのムーヴメントに端を発し、ヨーロッパ各国やアメリカなどの先進諸国、そしてインドのゴアや地中海のイビザ島など伝統的なヒッピー の楽園にも飛び火していった。日本では96年頃から本格的な盛り上がりをみせ、「レインボー2000」をはじめとする大規模な野外レイヴも行なわれるようになった。レイヴの場では、同じリズムを共有しながら、集団で踊りという原初的な快楽に身をゆだねる。踊り方はまさに好き勝手。誰もが、一番気持ちいい状態、一番「ハマれる」状態にどっぷりと漬かるのだ。

ヒトは太古から、集団で踊るという行為を続けてきた。 幕末に 広がった「ええじゃないか」や、鎌倉時代に流行した「踊り念仏」、アメリカでは1969年のウッドストック・フェスティバル。時代時代に形を変えて「踊る記憶」は受け継がれてきたとも言える。昨今のレイヴやダンスシーンの盛り上がりは、その再来とも言える。それは、ヒトという種が秘めている内的な衝動・エネルギーのある種の噴出なのかもしれない。

そして、うたもリズムも、踊りとともにあった。 現在の世界各地の先住民族たちもそれぞれに自分達の踊りとうたとリズムを持っている。文字を持たないヒトはいても、踊りと音楽を持たない民族はないといっていいだろう。そして彼等にとって踊りと音楽は、共同体を維持し、ヒトを自然や宇宙と結びつける重要なメディア(媒介)なのである。

心臓の鼓動を思わせるリズムに身を委ね、仲間たちとともに身体をゆする。素足で大地を踏み、飛び跳ねる。嬌声をあげる。笑う。そしてその光景は面白いことに、コンピュータで生み出された音楽が鳴り響く先進国のレイヴのありさまと驚く程似通っているのだ。 思えば近代人はこういう快楽的な踊りをこれまで長い間、自らに禁じてきた。というか、「気持ちいいこと」そのものを罪悪視してきたフシがある。しかし近代的なシステムのほころびが誰の目にも明らかになりはじめた今、「気持ちいい」ことを徹底的に追求する若者たちが大量に発生しはじめたというわけだ。

僕にとってこれまでで最良のレイヴは、98年7月に岐阜で行われた、イクイノックスというオーガナイザーによるパーティーだ。湖のほとりのキャンプ場を借り切って、3日間にわたって開かれた。みんなテントやバンガローに思い思いに陣取り、気が向いたら踊りの輪に加わる。手作りアクセサリーや食べ物の店もいろいろあったし、外国人もたくさんいた。 いいレイヴでは、参加者の身体がシンクロし、気持ちがひとつになる。この岐阜のパーティーで僕は心底生まれてきてよかったと思ったし、今生で一度きりのこの場に居あわせることができたことを感謝した。そこにいるすべての人が、生えている草木が、飛んでいるすべての鳥がいとおしく思えた。土埃と汗にまみれて踊っていた参加者のだれもが笑顔に輝き、だれもがとてつもなく優しかった。これこそがヒトという動物の本来の姿だと思えた。すべてがリアルだった。感動のあまり涙が出てきた。

この岐阜のパーティーではいろんなことを感じ、考えた。そこには なぜか懐かしさが感じられた。時空を越えた既視感とでもいうべきだろうか、「こうして皆で身体全体でリズムを感じて踊るということを、僕たちの祖先は営々と行ってきたのではないか・・・」という気がしてしかたがなかったのだ。森林を出て直立歩行を始めアフリカの大地を踏みしめたヒトの祖先がその生の喜びを身体全体で表した時、そこに踊りが生まれたのではなかったか。石器時代から縄文時代へと何万年にもわたって受け継がれてきた遺伝子レベルの「踊る記憶」が、しばしの中断を経て再び呼び覚まされた・・・そんな思いを抱かずにはいられなかった。

現存する 世界中の民族舞踊をみると、狩猟採集民と農耕民ではそのスタイルに傾向の違いがみられる。農耕の民が大地から足を離さずに静かに動く水平的な踊り方をする(能や日本舞踊の摺り足などその典型)ことが多いのに比べ、狩猟採集民では大地から跳びあがる垂直的な動きが多い。生業のスタイルとしてはもちろん狩猟採集の方が古いのであって、政治・宗教権力や経済システムの発生も農耕が行なわれて からの話である。おおざっぱに言って、農耕の開始とともに社会システムの高度化がはじまり、それと同時に原初的な踊りも徐々に変貌し様式化していったのではないだろうか。だとすると、日本列島でも数千年前の縄文時代までは原初の踊りの営みが日常的に行なわれていたのかもしれない。縄文遺跡からは、有孔鍔付土器という、太鼓とも思しき土器が見つかっている。

今後、ヒトはますます「踊ること」に目覚めていくのだろうか。理屈ではなく、そういう身体的な次元から世の中が変わっていったらすばらしいと思う。

文字を持たないヒトはいても踊りと音楽を持たない民族はない、というのはなるほど興味深い。 共同体において、踊りの持つ意味は極めて大きいに違いないが、どのようにして生まれたのか? >森林を出て直立歩行を始めアフリカの大地を踏みしめたヒトの祖先がその生の喜びを身体全体で表した時、そこに踊りが生まれたのではなかったか< というのは本当だろうか。

 原始人類集団のリーダーは、精霊信仰⇒祭祀を司る女であった】より

まず、この原始人類の生存状況に同化してみよう。 足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちと同様、足で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った。そして、人類は1~2万年前まで、まともに地上を歩くことが出来ず洞窟に隠れ棲むしかない様な、凄まじい外圧に晒されていた。 洞窟の中で餓えに苛まれなが暮らしている。つまり、大半の時間を洞窟の中で過ごしていたわけで、原始人類はその間、何をしていたのか? まず考えられることは、エネルギー源としての充足の追求であり、それによって人類は充足機能を発達させてきた。カタワのサルである人類は地上で適応するために直立歩行の訓練を始め、それが踊りとなり、この右・左と足を踏み鳴らす踊り=祭りが日々の充足源(活力源)となった。 この踊り=祭りの中でトランス状態に入り、そこで観た幻覚の極致が精霊である。人類が万物の背後に見たこの精霊こそ、人類最初の観念であり、人類固有の観念機能の原点である。

2015年01月01日

高齢者が先導する新たな共同体!~シリーズ6 地域共同体構想の実現基盤と実現手法 その2~未知収束

「実現の年」として、これまで以上に追求を深めて行きたいと思います。 「お上の暴走」→秩序崩壊を感取した人々の本源回帰の潮流は、3.11を契機として一段と勢いを増し、遂に「何かやりたい」という実現期待が、学生・主婦・老人の間から広範に生起してきています。自給自足のイメージに近い、自給志向(自分で賄う)や自考志向(自分で答えを出す)等の追求に向かう根幹には、潜在思念が未知の外圧を感取しているからだと考えられます。

その様な未知の外圧に対して可能性に向う潮流は、どのようにして生起するのでしょうか?今回は未知収束回路の構造を解明して、皆の追求活力を生み出し、地域や社会を牽引していく手がかりを掴みたいと思います。

早速、「未知収束」の全貌を解明していきましょう!!

 

◆2-1未知への収束と追求(充足)の構造

まず、未知の外圧→可能性に収束する潮流は、どのようにして生起するか触れてみます。 自給志向・自考志向をはじめとする、現在生起している未知収束事例は、未知の外圧に対する先端収束にあたります。

これらの収束事例の発端は、市場縮小・私権の衰弱→バブル崩壊に始まり、不正選挙や原発事故などのお上とマスコミの暴走です。もうお上には頼れないという現実と、これからは自分たちで社会をつくっていかなければいけないという未知なる外圧の突破口として、人々の未知収束回路が作動し始めています。

未知収束回路は、人を「これからどうする?」という追求に向かわせます。現実を捨象・否定し、平等や自由を要求する民主主義的な価値観とは正反対の関係にあり、これに陥っていては未知収束回路は作動せず、一向に追求には向かえません。 自分たちの手で自分たちの社会をつくっていく地域共同体にとって、追求力は大きな推進力となります。

「家族を守りたい」、「社会の役に立ちたい」、「パートナーを勝たせたい」といった、追求共認こそが追求充足を生み出す源泉になります。

ここで未知収束が活力源となった背景をおさえておきましょう。

未知収束が活力源になったのはなぜか?   リンクはこちら

全ての生物にとって、世界の状況を把握する機能=外圧認識機能は、生存していくために不可欠の機能であり最先端機能となります。そして、外圧を認識した生物は外圧に適応するために本能を発達させます。一度、本能で外圧に適応すれば、適応態である生物にとってその本能と外圧は整合しており、世界は本能で単純に対応すればよい対象であり未知なものではなくなります。

しかし、猿と人類は本能で外圧に対応できなくなったことが他の生物と大きく違います。猿は樹上という最高の生産力と防衛力を持つ第三の世界を獲得したことで、本能では対応できない集団での同類闘争という外圧にさらされ、本能を超えた共認機能を獲得します。(詳細は実現論参照)

そして、人類は木に登れなくなったカタワの猿であり、最高の生産力も防衛力も失い、本能でも共認機能でも適応できない極限状態にさらされます。人類は本能で外圧に適応できない不適応体なのです。従って人類にとって外圧は「いつ何が起こるかわからない」未知の世界であり、当然、未知なる物の把握が最先端課題となったのです。

この未知収束回路はDNAに深く刻印されています。だからこそ未知なる物(当時は自然)の追求が第一義課題となりその結果、追求共認→追求充足の回路が形成されたことによって一段と追求力を上昇させ、ついに未知なる外圧の中心に精霊を見る(観念回路を形成する)に至ったのです。

この未知収束こそ追求充足と観念機能を生み出した源泉なのです。 すでに追求回路が作動している最先端層では、保育・介護・環境等の事業に取り組んでいる層もいますが、それぞれが専門領域の枠組みに留まっており、追求力不足、理論不足なのが現状です。

追求力をフルに発揮させるには、皆が感じていることを言葉化し、追求共認を図っていけるか。全ては潜在思念の未知収束をどれだけ言葉化できるかにかかっていると言えるでしょう。 以上の未知収束と追求(充足)の構造を図解にして固定しておきます。

◆2-2未知収束回路は生存圧力発

次に未知収束回路をどうやって生起させるかを解明していきます。 未知収束回路が作動して、「これからどうなる?」と考える時は、いつ何が起こるかわからない、将来像が見えない、社会はこれから先どうなる?と言った生存の危機を感じたとき、すなわち生存圧力を感じた時なのです。

私権が終焉したのをきっかけに、お上は暴走を始め、マスコミは偏向報道を繰り返し、社会が何かおかしい。さらに自分自身といえば、目先の会社の経営で頭がいっぱい・・・。 未知なる外圧に対して、全うな人間であれば、そこできっと目の前の現実を直視するでしょう。現実否定に走らず、現実を直視すれば、「どうにかしなければ」「どうする?」「どうやって家族・地域を守る?」と可能性探索に向かはずです。

つまり未知収束回路は、生存圧力をきっかけとした、可能性探索回路でもあるのです。

これについては、皆さんも日々実感しておられると思いますが、なぜ私たちは生存の危機を感じると未知収束⇒可能性探索に向かうのでしょうか?生物史に遡り、過去人類がどうやって生存の危機を突破してきたのかを掘り下げて確認します。

追求のススメ1.未知なる世界への収束と追求(3)  リンクはこちら

足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちがそうであるように、足の指で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った結果、想像を絶する様な過酷な自然圧力に直面した。とうてい外敵に対応できない原始人類は、洞窟に隠れ棲むしかなかったが、彼らは恒常的に飢えに苛まれていた。

(中略) 彼らは常に生存の危機に晒されており、当然「どうする?」⇒「世界(自然)はどうなっている?」という未知への収束と追求回路に全面的に先端収束する。そして、人類は、直面する未知なる世界=不整合な自然世界を「なんとしても掴もう」と、自然を凝視し続けた。それは、生命の根源をなす適応本能(整合本能)と共認機能を深く結びつけることになった。そのようにして、みんなで毎日毎日追求し続ける、その中で、追求共認⇒追求充足の回路が、共認回路の奥深くに形成され、その共認充足が更に強く皆を追求に向かわせていった。

そして遂に、未知なる自然(例えば、一本一本の木)の背後に、整合する世界=精霊を措定する(=見る)。人類が万物の背後に見たこの精霊こそ、人類最初の観念であり、人類固有の観念機能の原点である。直面する未知なる世界(例えば自然)の背後に精霊を見るのも、物理法則を見るのも、基本的には全く同じ認識回路であり、従って精霊信仰こそ事実認識=科学認識の原点なのである。

このように、人類は、その最先端の観念内容を組み換えることによって、極限的な生存圧力に適応してきたのである。

 

まとめ

以上から、 ★皆で現実直視(家族、職場、地域、社会)→現代社会における生存の危機を感取・共認することで、未知収束回路を作動させることが出来る ★新しい社会をつくっていくために、未知収束回路⇒可能性探索に向かうには、皆の潜在思念をどれだけ言葉化し顕在化出来るかにかかっている。

新しい地域共同体のあり方を追求していく上で、地域統合のための理論化は必要不可欠です。次はシリーズ7「先端の意識潮流」に焦点をあて、追求していきます。 シリーズ7へ

日本婚姻史に学ぶ共同体のカタチ シリーズ2 「目交い~見つめあう充足の性」2012年02月25日

第一章では、日本の近世・近代を通じ庶民に根ざしてきた「夜這い婚」を中心に、日本人に残されていた共同体性や、性を含む共認充足が、婚姻関係の根底にあったことを紹介しながら共同体のカタチを学んできました 「日本の婚姻史に学ぶ、共同体のカタチ」 夜這い婚って何? 夜這い婚を支える【学び】と【導き】 祭りにみる日本人の最大期待とは? 第二章では、歴史を更に遡り、各時代の日本の婚姻様式についてさらに詳しく見ていきたいと思います。 私たち日本人に残る共同体性は世界でも特異なものですが、各時代ごとの状況にあわせ、多様な婚姻様式を塗り重ねてきています。その多様な婚姻様式を深く見ていく中で、大転換期に直面している私たち日本人の行くすえを、歴史に学び、今後の可能性を模索していく材料にしていきたいと思います。。

  • 婚姻様式とはどのように決まり、どのように変化するのでしょうか? 一般的には、婚姻様式は生産様式(狩猟、採取、牧畜、農耕、遊牧など)によって決まるという説がありますが、まず最初に、婚姻様式を規定する要因について、もう少し深く捉えなおしてみると、

例えば、一対婚は農業生産という生産様式に規定されたものだったのか? 農業生産だから一対婚になるという論理は繋がっていないし、実際、農業生産の時代でも日本の夜這い婚など、一対婚ではない事例もある。 私権時代は万人が私権第一であるが故に一対婚になった。つまり、私権獲得というみんな期待⇒私権統合という社会の統合様式に規定されて一対婚になったと考えた方が整合する。 (:人類の婚姻制もみんなの最大期待によって規定される)

のように、「外圧⇒みんなの最大期待⇒婚姻様式」という図式が見えてきます。 つまり、時代時代で私たち人類が直面してきた ・外圧とはどのようなものだったのか? ・それらの外圧に適応するためにどのような期待が生じたのか? ・その期待に対しどのような婚姻様式が適していたのか? に着目することで、先人達の「性の捉え方」や多様な「婚姻様式」への同化、理解が深まり、今後の可能性のヒントが見つかるのではないでしょうか。 そこで、第1回では、まず人類史500万年の99.9パーセントを占める、有史以前の婚姻様式について、2回にわたり記事にしていきます。 教科書で教えられてきた、約6000年前から始まる文明史は、実は人類史のほんの僅かであり、人類史の実に99.9パーセントは、文明が始まる以前の時代にあります。 従って、この時代の状況を知ることからはじめていきたいと思います。 Q:古来から日本ではセックスを「目交い」と呼んでいたのを知っていますか?

************************************************************** 目交い( 三省堂提供「大辞林 第二版」より) (1)目を見合わせて愛情を通わせること。めくばせ。 (2)情交。性交。 ************************************************************** ○まぐわいとは…→心の交歓 お互いの目と目を交し合う事で、肉体的な快感は元より、心の交歓充足が得られるのが、人類ならではなんです。 ○心の交歓充足って? 極めて静的な関係。お互いが向かい合い、抱き合い、ただ見詰め合っているだけでも、充分に充足できる機能を、人間は持っているんです。 (本来のセックスってなに?~男と女は充たしあうためにある~)

古来から、人類にとってセックスとは単に子孫を残すためのものだけではなく、心の充足や安心感を得るためのものだったのです。 そして、このような性の捉え方は人類特有の現象なのです。 ●このような人類特有の性はどのようにしてつくられてきたのでしょうか? 一般的な哺乳類(サル・人間以外)の性のあり方は、本能次元に刻印された生殖行為=子孫を残すためだけのものです。従ってそこに充足感なるものがあったとしても、それは本能的な充足ということになります。 一方、サル・人類は本能次元を超えた共認機能を獲得しています。

共認機能とは、相手に同化する、サル・人類に固有の機能。元々は、サル時代に形成された不全から解脱する為に形成された機能で、相手の不全(期待)と自分の不全(期待)を同一視する共感回路を原点としています。そこで相手と同化することによって充足(安心感等)を得ることができます。(るいネット:共認機能)

つまり、この共認機能に、人類特有の性の秘密があります。 では、まずは冒頭にもあるように、婚姻様式を規定する、この有史以前の外圧状況とみんなの最大期待について見ていきます。

足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちと同様、足で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った結果、想像を絶する様な過酷な自然圧力・外敵圧力に直面した。そこで、本能上の武器を失った人類は、残された共認機能を唯一の武器として、自然圧力・外敵圧力に対応し、そうすることによって、共認機能(≒知能)を更に著しく発達させた。(実現論:前史)

このように、有史以前の人類は、現代人の想像を超える凄まじい生存圧力が生じる環境下に置かれたため、当然強い生存期待が、みんなの最大期待として存在しました。 ※想像を絶する外圧状況という意味で、極限時代と呼びます。

参考:極限時代の住処や食事 人類はつい一万年前まで、まともに地上を歩くことが出来ず洞窟に隠れ棲むしかない様な、凄まじい外圧に晒されていた。 石器に残った痕や、石器を使った痕跡のある動物の骨などの分析から、石器を使った対象は、狩をして得た獲物ではなくて、死んでからしばらく時間がたった動物であることがわかってきました。

そして、サル時代に獲得した、足の指で枝を掴むという本能上の武器を失った人類が、このような過酷な時代を数百万年も生き延びてこられたのは、唯一残された共認機能に全面的に収束し強化することで、自他の不全を同一視し充足・安心感を得、かろうじて極限的な不全感を和らげる(不全解消)ことができたからなのです。 整理すると、 極限的な生存圧力の環境に晒された⇒強い生存期待がみんなの最大期待として生じる⇒唯一残された共認機能に全面収束し共認充足により不全を和らげようとする⇒すべての行為(性も含めて)が共認充足を得るための方向に収束していく ということになります。 つまり、人類特有の性は、性行為そのものが他の哺乳類のように本能次元での行為から、共認次元の行為に上昇しているところに起因しているのです。 もう少し具体的に言うと、性の場面は当然ながら相手合ってのことですので、子孫繁栄という本能的なものに加え、共認機能をフルに稼動した相手との同一視から生じる充足感や安心感を得るための行為としての意味が塗り重ねられているのです。 (例えば、一般哺乳類はごく限られた生殖期にのみ発情するのに対し、人類は年中発情期であることや、セックスの際相手の表情と正対した正常位とするところからも、単なる生殖行為ではなく、共認充足を得るための行為であることがわかります) また、見方を変えれば、人類の性とは、肉体的(本能的)な充足に限定されるものではなく、見つめ合うことや、身を寄せ合うこと、存在に感謝するなど、お互いを肯定視することから生まれる心の充足や安心感や感謝などの、心のふれあいの領域も含まれています。

目交い ○人間の活力源の原点 人類は、昔から仲間との共感・同一視が常にお互いの安心感を与え合える事が活力源となり、本能を超える機能を積み重ねてこれたんです。 相手を肯定視しようと思った場合、まずは目を見る。同一視から共感、そして共認=同化が出来たとき、心と心が通じ合い、全的な安心感・充足が得られる。この時、感謝の涙や自然な笑顔が、きっと浮かび上がっているはずです

これが、前段で述べた「目交い」と通じる、人類特有の性の本質であり、太古の昔の極限時代から数百万年間引き継いできているものなのです。 そして、当然現代人もこの構造を下敷きにして生きているのです。 このように人類の性は、共認充足を得るためのものであり、極限時代には共認充足を得ることが最大の生存課題であったことからすると、性こそが生存のための最大の活力源だったのです。 今回の記事では、人類特有の性とはどのようなものなのかについて、始原人類が生きた極限時代に遡ってみてきました。 次回の記事では、そのような極限時代の人類はどのような婚姻様式を生み出したのか?について見ていきたいと思います。

 

1:日本人のルーツ    平成29年2月22日 日本人のルーツが核DNAからほぼ解明された。アイヌ、沖縄 の混血種族は少数ゆえ淘汰で ご時世深く追求せず、縄文、弥生人、日本人はグローバル化で純潔日本人がいなくなった。数千年後?南北アメリカ、オーストラリアの原住民を思うと数百年後もあり得るのでは?

2:縄文人弥生人 縄文人

一般的に日本人のルーツは縄文人弥生人によって出来上がったとされています。縄文人とは今から約1億6000年から約3000年前までの約1億3000年という気の遠くなる長い年月を生き抜いて、北海道から沖縄まで日本全土に定住して縄文文化を各地に残し、狩猟や採集を中心とした縄文時代を築きあげて来た。いずれにしても旧石器時代後の新石器時代縄文文化を築きながら生き抜いてきた私たち日本人のルーツとして重要な時代であった事は間違いないようだ 弥生人 一方、弥生人と呼ばれる人々は、弥生時代つまり今から約3000年以降に大陸から日本列島に渡来し在来の縄文人と交わりながら弥生時代を築きあげて来た人々を差します。つまり弥生人には、縄文人弥生文化という新たな文化を受け入れた人々(縄文系弥生人)と純粋に大陸から渡来してきて新文化を形成した弥生人(大陸系または渡来系弥生人)、そして、その両者が交わり混血となって生まれて来た人々とその子孫(混血系弥生人)とに分けられるというのです。要するに、現在の日本人はおおよそ縄文人弥生人の混血で出来上がったものと思われ、彫りの深い顔立ちの縄文系や”テルマエロマエ”でそう呼ばれてように”平たい顔族”の弥生系、またはストレートな髪の人、くせ毛の人など中国人や韓国人と比べても多少違う顔立ちの人が目立つようです。 

あなたは縄文系?それとも弥生系?

ちなみに僕は南方系日本人?ったぶん”ブチャイク、平たい顔族”の代表みたいだからでしょうか?

上記表をご覧になるとおおよそどちら系の血が濃いのかわかるようです。但し、混血には違いがありませんからどちらの特徴もほとんどの人が持っているものと推測されますが。私を例に挙げるとすると、背が低く青年期はやせ形、髪の毛はくせ毛、ウィンクはでき、耳垢は湿っています。

そして、血液型はA型であることから縄文系の様ですが、残念ながら顔は前述の通りで平たく鼻も高くありませんね。

全体の2割程度は縄文系の様ですが他は弥生系の血を引いたようです。ざっくりですが、興味のある方はそれぞれに照らし合わせてみたら面白いかもしれませんね。 ・核DNAとミトコンドリアDNAの違い

核DNAとミトコンドリアDNAの違い、さて、一昨年NHK、「サイエンスZERO」で日本人のルーツを探る上でとても興味深い話をしていました。 なんと、核DNAを解析する事で縄文人の謎を解き明かすことが出来たというのです。これは正にビッグニュースなのだといいます。考古学=発掘=遺物照合=年代推測~~~が推測方法? 番組にそってその謎に迫ってみたいと思います。 これまでも、縄文人のDNAは解析されてきたのですが、それはDNAのほんの一部でしか無かったようです。 Y染色体と石器や土器の研究から、バイカル湖付近から数万年前に渡ってきた人々が日本人の祖先。その後、米とともに長江流域から渡ってきた人々との混血。 一般的にDNAと言うと、核の中にあるDNAを指しますが今まで分析されてきたのは、ミトコンドリアという機関の中にあるDNAでした。ミトコンドリアDNAは一つの細胞の中に数百から数千もあるといわれており、沢山あるからこそ残りやすく分析もしやすいと言われているのです。しかし、ここに大きな問題がありミトコンドリアDNAの塩基の数は約1万6000個とサイズが非常に小さかったことです。

 

それに対し、核DNAの塩基は約30億個と非常に多くの情報量を有しておりそのDNAの解析が出来れば、その謎に迫ることが出来るのですが核は細胞の中にたった一つしかなく残りにくくて解析も非常難しかったようです。 ところが、2014年国立遺伝学研究所のチームリーダーである斎藤成也教授を中心として貴重な縄文人の骨を利用する事で今までのミトコンドリアDNAだけでなく核DNAの分析に成功する事が出来たというのです。 核DNAの採取に成功生命の設計図、DNAはあらゆる核の中に存在していますが、DNAを構成するのは延々と並ぶ4種類の物質で、塩基と呼ばれています。塩基はA,T,G,Cであらわされ、生きている人からは唾液などから容易に採取することが出来るのですが、古代人の場合には残された骨からDNAを採取するしかありませんでした。 ところがその骨の多くは、分解がすすんでいてDNAがほとんど残っていない為に分析できる可能性はほぼ不可能だと考えられて来たのです。 そこで、斎藤教授は縄文人の核DNAの解析をするために、ある作戦を立てたのです。それは、全国各地に残っている縄文遺跡の内で骨が多く残っている遺跡の内で、DNAが分解されずに残っているだろう寒冷地の遺跡に狙いを定めたわけです。 そこで選ばれたのが、福島県の三貫地貝塚に目を付けました。1950年代に発掘された、三貫地貝塚は今からおよそ3000年前の遺跡であり人骨の出土数は国内最大規模を誇り、これまでに100体以上も見つかっているのです。 研究チームの一人で人骨の管理をしてきた東京大学総合研究博物館の諏訪 元教授は、どうすれば人骨から効率よく核DNAを採取する事が出来るかと斎藤教授と話し合いを進めたきた結果として、歯の内部からDNAを採取することを思いつきました。歯の内部は、顎の骨により覆われているために外気にあたる事が無く核DNAの残っている割合が極めて高かった事から、歯の歯根部(根本)を切断して中を採取することを相談のうえ提供をしたのです。

引用:NHK”サイエンスZERO” 以下の画像も同様に引用いたしました。そこで、艶があり保存状態の良い奥歯に狙いを定めて男女2体の核DNAを採取することに成功したのでした。ところが、その後の作業も困難の連続でした。 作業を担当したのは、国立博物館の神澤秀明研究員でしたが、日本では古代人のゲノム分析をやった前例がなかったことから、歯の内側を削り取ってその中から核DNAの採取を試みたのです。 しかし、調べてみると本来数百万から数千万繋がっている塩基が百以下までバラバラになっていたのです。

 

その上、抽出した97パーセントまでがバクテリアなどの別なものだったのですが、それでも残り3パーセントの中から縄文人の核DNAを読み解くことに成功したのです。 解明された核DNAの凄さとはこれまでミトコンドリアDNAから古代人を研究してきた専門家の国立科学博物館人類研究部長の篠田謙一さんは、核DNAから塩基を読み解く方法がこれまでのミトコンドリアDNAから読み解く方法とはまるで変わったことなど革新的な進歩であることを話されていました。「技術革新により、大量のDNAを読み解くことが出来るようになったことが大きく、縄文人の解析にも大いに役立つことができました。」

これは、核DNAから読み解いた塩基の極一なのですが、実際には一億以上もあるのだそうだが、縄文人の塩基は30~50個くらいにブツブツと切れておりどうしてもこのように隙間が出来てしまう様なのです。

さらにこの核DNAの塩基配列には、量だけではなくミトコンドリアDNAと比較して親から子にどの様に受け継がれていくのかに注目すべき点があったのです。

まずは、ミトコンドリアDNAの特徴ですが、母親から娘にしかDNA伝わって来ず父親のDNAデータは伝わって来ないと言うのです。

 ところが、核DNAからは、両親のDNAデータが取り出せるとともに、過去の沢山の祖先のDNAに至るまでそっくりとその情報を読み取ることが出来るのだと言うのです。つまり核DNAを調べることで私たちの体の中に入っている様々なご先祖様のDNAまでも知る事が出来るという正に言う事なしの情報というわけなんです。

私たちのルーツは?

さて、先の項でもお話ししましたが、これまで日本人のルーツは約3000年以降に大陸からやって来た渡来系(大陸系)弥生人とこれまで1万3000年もの長い間延々と日本に定着し続けて来た縄文人の子孫ではないかと考えられてしました。これらの考え方が推測の域を脱する事が出来るのも、核DNAを調べることでハッキリと分かる訳です。

こちらの図をご覧ください。このグラフは、現代の東アジアの人々500人の遺伝的な特徴を2次元的に表示したものになりますが、渡来系弥生人のDNAはまだ解析されていない為にこれらの東アジアの人々のDNA情報を利用し、渡来系弥生人に見立てて分析を行ったのです。

一方で、現代の日本人の遺伝子はどうかといいますと、東アジアの人々のそれとは少し離れた場所に表示されます。

これは何故かといいますと、おそらくですが渡来系弥生人という人たちは、大陸から渡って来たので、中国の人々と同じようなところに遺伝子は表示されると思われますが、日本人の遺伝子が、これら大陸系の人々から少しずれている理由としては縄文人のDNAを持ち合わせているからではないかと考えられているんですね。

実際に今回分析した縄文人のDNAをプロットしてみるとこのようにかなりかけ離れた位置に表示されました。という事から、縄文人のDNAが私たち日本人のDNAの中にあるために、大陸系の人々のDNAから少し離れた場所に表示されたことが証明されたと言っていいのではないでしょうか?

結果として、私たち日本人のルーツは縄文人と渡来系弥生人の混血する事で出来上がっている事を示していると言って良いかと思われるのです。

実際に縄文人のDNAの一万か所を調べた結果がこのような表示になったのですが、ミトコンドリアDNAで同じ調査をしようとすると一万人のデータを調べる事が必要だったことと同じ意味を成すことになる訳です。また、この一万か所のDNAと私たち日本人のDNAがどれだけ共通点があるかを調べる事で縄文人の何パーセントを引き継いでいるかもわかってくるのです。

現状調べた結果からみますと、おおよそ20パーセント程を引き継いでいるらしいという事が分かって来ました。この事が、核DNAを調べてことで分かった最大の収穫と言えるのです。ですから、残り80パーセントのDNAは、渡来系弥生人から繋がっていると思われるのです。

驚きの縄文人のルーツも分かる!

今から20万年前、アフリカで誕生し世界中に拡散していった人類。この中に、勿論アジアに向かった集団もいたのです。

そして、アジア人のもととなった原アジア人は、東アジア人と東南アジア人に分かれていったと考えられています。その中で、渡来系弥生人は東アジア人から途中で分かれて日本にやって来たと思われます。 けれども、縄文人はどのようにして日本にやって来たのかはずっと謎であったのです。そして、これまでは骨の形態からは、東南アジア人に近いと思われていたのですが、別の解析結果からは、北方の東アジア人に近いという説もあってどちらに起源があるのかは、論争がずっと続いていたのです。

そして、先に紹介した斎藤教授は縄文人のデータを分析した中で、驚きの結果を得ました。

こちらの図は、世界の人々がどのように分かれて行ったかをDNAをもとに推定した図なので、横方向は遺伝的な距離を表しているのですが、分析の結果縄文人が枝分かれしたのは、東アジア人と東南アジア人が分岐する以前にアジアの共通祖先から分岐していることが分かったのです。

そして、縄文人はより古い時代に日本にやってきて、全く違うもっと古い系統の子孫が独自の道を歩んだ可能性もあると言うのです。今では、ユーラシア大陸の何処から来たのかすら分からない様で、また振り出しに戻った雰囲気だというのです。

縄文人のDNAは現代人には全く見られないどころか、アジア中を探しても何処にも存在しないといいます。そんな人々を見つけてしまったという正に不思議としか言いようのない事態になっています。

「一つの解釈として、古い時代に日本列島に定着した縄文人がその後何処にも移り済まずにずっと「日本列島のなかだけで生活をすることで、数千年から1万年以上の間外部との交わりを持たなくなっことから、独自のDNAが形成されたのではないかと考えられてもいます。」

「もう一つの考え方とすると、もっと古い時代にあちこちから渡来した人々が交わる事で日本の中だけで独自の人種としてのDNAを形成したのではないかという考え方もできるようです。」

また縄文人のルーツを考える中で人類がアフリカで誕生した後、約4万年前に東アジアに人々が入って来たと考えますと、縄文時代まではさらに2万年以上の開きがあります。その間にユーラシア大陸の中での人の動きは非常に複雑であったと考えると、おそらくその複雑な結果から日本にたどり着いた人々が縄文人だったと考える事も出来ます。 1万6000年前と聞いただけでも気の遠くなる時間の流れがそこにはあったわけですが、さらに2万年以上の長い、長~い時間の経過の中で複雑に交じり合った結果と聞けば、何があっても不思議ではなくなると思う様になりました。

縄文人はお肌の悩みがあったらしい?

福島県の三貫地貝塚の人骨から初めて解析された縄文人の核DNAだが、この成功を受けて日本全国の遺跡の人骨の解析が進められています。 青森県の洞窟から発掘された縄文人骨からは核DNAの8割もの配列が読み取られました。 そしてその結果、現代日本人のお肌の悩みと縄文人の体質にそれはそれは深い関係がある事が分かって来たのです。

>>核DNAとミトコンドリアDNAの違い化粧品会社でお肌の研究をしている本川智紀博士によりますと、12年前にある遺伝子を発見したのです。

それは、16番染色体にあるMC1Rと呼ばれる領域にありました。この場所が左右する体質が実はシミになりやすい事に大きく関係していたのでした。

シミになりやすい遺伝子か通常型かは上記のようにMC1Rの1か所の塩基配列の違いで変わるのです。

日本人の多くは”A”であるの対して、シミになりやすい体質の人の配列は、ここが”G”になっていたのです。

アイヌ、沖縄の方々の民族衣装を着た古い写真には 特徴のある風体の方々がさらに、日本人のシミ型遺伝子を調べた本川さんは、その遺伝子を持つ人の多くが、東北・北海道と九州地方に集中している事に気が付きました。確かに、ガレッジセールのゴリさんやアイヌの人たちは、顔の彫りが深く体毛が長いという印象がありますよね。

元々、「北海道と沖縄の人は遺伝的に縄文人に近いのではないか?」と言われていましたので、「シミと縄文人には何か関連があるのではないか?」と考えた本川さんは、縄文人のDNAの配列を調べました。

そして、出て来た結果は、シミ型遺伝子を表す”G”の文字だんたんです。

配列を確認した5人の縄文人全員が”G”の配列を持っていました。

つまり縄文人は、シミになりやすい体質だったと考えられるのです。

まあ、それ以前の話としてシミに対して気にかけていたのかどうかは知る術はないですが・・

核DNAの研究では、この様なことまで類推する事ができ、他にもいくつか縄文人から引き継いだのではないかという特徴が分かってきました。

縄文人の特徴

冒頭でもお話ししましたが、弥生人と比較して大きな違いが分かってきました。

おもしろい特徴としては、「ウィンクが出来る事」が挙げられますが、ウィンクなんて少し練習すれば誰でもできると思われがちなのですね。

詳しくお話ししますと、顔の表情を動かしている筋肉は顔面神経なのですが、その主たる動きが瞼の開閉と口を動かす事が挙げられますが、日本人はこの両方が分課していないためにウィンクをすると同時に口まで動いてしまう人が多いようです。

そのため、うまくウインクが出来ない人もいるらしいのです。私は、かろうじてウインクはできますが、何となく口も連動している感じですね。

また、耳垢がウェットという特徴をもともとの発祥の時にはもっていた事から、アフリカの人もヨーロッパの人もその特徴を持っていたのですが、アジアのどこかでその遺伝子を持たない

弥生人が形成されたのではないか?

そして、それ以前に分化した縄文人は、ウェットな特徴を持ち続けていたと考えると説明がつきやすいようです。

この様な特徴を私たちはそれぞれが受け継いでおり、人によって受け継いだ遺伝子が少しづつ違っているため、髪の毛や瞼、そして耳垢までもが違っているのが日本人の特徴ともいえるようですね。 >まとめ

日本人のルーツについてはいろんな分野で研究がされていますが、今回の核DNAを分析する事で、新たな情報がたくさん得ることができ、「日本人はこの様に出来上がった」というシナリオを提示する事が出来ました。このシナリオに他の学問の定説が合わない事もおそらくあると思われます。例えば、そもそも渡来系弥生人はどれくらい来たのだろう?という問題があります。人類学者は、比較的沢山来たであろうと考えており、8割が渡来系弥生人の遺伝子が入っていると考えて来ました。影響が強いという認識ですが、考古学的にみますと土器の形などを見てもそんなに沢山の人は来なかったのではないか?と考えているようです。 日本に定着した年数から見ても、縄文人の歴史は1億3000年もあったわけですからね。ですから、核DNAから作ったシナリオが解釈できるのか否かは、これからいろんな分野の研究者が検証を重ねていかなければならないのではないかと考えています。

実際に5~6か所の遺跡から縄文人を調べた結果から見てもそれほど均一ではなく、生活していた場所によっても又時代差によっても異なる特色があるのでその中のどの遺伝子が私たちに伝わって来たのか?をこれからの研究に期待したと思っています。

サイエンスZERO「日本人のルーツ」

日本人はどこから来たか!?遺伝子から分かる真実日本最大のミステリーは実は、我々、日本人そのものである。といえる。 アフリカで誕生した人類が安住の地を求めて世界中を旅した。これが世界初の旅。 現在ではさまざまな方法でグレートジャーニーの足跡がたどられている。 ここでは、嘘をつかない遺伝子で日本人のルーツを知ろうと思う。強者の倫理で、権力闘争で、食糧事情で、自然災害で、戦争で宗教戦争で、解釈の違いで 1.)母系遺伝子ミトコンドリアDNAの系統 まず、母系遺伝子を調べるため、ミトコンドリアDNAの系統を調べる。 ミトコンドリアDNAは、母系遺伝をする。だから、女性の祖先をたどった系図を調べることができる。 DNA配列は短期間に変化しやすいため、分岐の時期をかなり詳しく知ることができる。 世界的に見たこの日本人のミトコンドリアDNAの2重構造の位置付け。 これを知るために、アフリカ人(いわゆる黒人)、ヨーロッパ人(いわゆる白人)と、日本人の間で系統の関係を分析する。 すると、すごく興味深い結果が現れる。 研究当初、縄文人弥生人の区別を実証する目的でこの研究を行なったらしいんだが、その分岐が世界3大人種を区別するほどの根元のほうにあるグループが日本人の中に存在した。(他のアジア人にはない) これはどういうことか! 縄文人弥生人のDNAの差ってのは、実はそれほど差はない。 共に東アジアに広く分布するアジア系で、どちらが北でどちらが南から来たかという地域差がないことが分かってきている。 しかし、他のアジア人にはみられない日本人のミトコンドリアDNAが、人種(黒人、白人、黄色人)の分岐、すなわち、かなり早い段階で別れた人々がそのまま日本に移動して定住したといえるわけだ。 日本人グループに注目すると、その分岐点はヨーロッパ人よりもはるかに根元のアフリカ人グループの間にあるので、この日本人のミトコンドリアDNAは、聖書による3大祖先 ハム、セムヤペテ のうちの、セム系直系に相当すると考えられる。 ※ここで説明しよう。 旧約聖書にあるノアの方舟。このノアの3人の息子セム、ハム、ヤペテは、 大洪水の後のすべての民族の先祖といわれている。 世界のすべての民族は、ノアの3人の息子セム、ハム、ヤペテから分かれ出た。 これが、「黄色人種、黒色人種、白色人種」という分類、いわゆる「モンゴロイドニグロイドコーカソイド」であり それと合致するという意味で、ハム系とは黒色人種、ヤペテ系とは白色人種で、セム系とは黄色人種(アジア人)となるわけだが、 黄色人種いわゆる中間色の人々は、モンゴル人、中国人、日本人などの東洋人と、 アラブ人などの中近東や、東南アジア、ポリネシア人などの肌が褐色な人々もいるわけだ。 ちなみに エジプト人はハム(黒人系)で、 イラン等のペルシャ人やインド人はヤペテ(白人系統)である。 だから、肌の色、特に中間色、褐色はすべてノアの時代のセム、ハムになるかというとまた違うわけだ。番外編.)ちなみに、ひとつ、おもしろい話がある。 1986年、アメリカのフロリダ州でミイラ化した約7000年前のヒトの脳組織が発掘された。 従ってこの脳組織はアメリカ大陸に7000年前にいた人間、いわゆるアメリカ・インディアンの祖先のものとされた。 カリフォルニア大学で、この脳組織からまず、微量のmtDNA(ミトコンドリアデオキシリボ核酸)の抽出に成功した。 次に当時最新の画期的なDNA増幅技術・PCR法を使って、mtDNAの一部を増幅し塩基配列(DNAの文字列)の決定にも成功した。 その結果、大部分の現代人では、≪GGGCCC≫という文字列になっている塩基配列がこのミイラには ≪GGACCC≫となっていた。 そこで、まず現代のアメリカインディアンの中に ≪GGACCC≫の塩基配列を持つ人がいないかを調べだが、誰のDNAにも見いだせなかった。 ところが、遺伝子研究の権威である日本人の故・宝来聡博士が調べた日本人の中の多くが、ミイラと同じ≪GGACCC≫という配列であることが明らかとなった。 このような変異型のDNA配列を持つミイラと現代日本人の一部が一致するというようなことは偶然では起こり得ないことで、現代日本人と7000年前に生きていたこのミイラが、遺伝子レベルで共通の基盤を持っているとわかった。 はるか昔、アメリカインディアンの祖先よりも前に、あるいは、それとは違うグループが 日本から太平洋を 渡って北米大陸に移住した民族集団がいたという事実を、図らずも証明したことになった。 2.)Y染色体DNAの系統 Y染色体のDNAは 父系遺伝する。 これは男系子孫にのみ伝わっていくため歴史的な調査に用いられ、人種のルーツの祖先を正確に辿っていくことができる。 私達はモンゴロイドであり、中国や韓国と同じ民族だと思われてる人々が多い。 しかし、最新の遺伝子研究により、私達日本人は、中国や韓国とはDNAの中身が若干違うことがわかっている。 世界では珍しい、古代血統とされる、Y染色体D系統が日本人に多いからだ。 黒人固有のA系統、B系統、 中央アジアなどのアルタイ系のC系統、 日本人や地中海に特徴的なDE系統、 中近東などのJ系統、 オセアニア・南アジアのK系統、 ウラル諸族のN系統、 東アジアのO系統、 イヌイットなどのQ系統、 アーリア系のR系統 などがある。 そしてまた、同じD系統であっても、 チベットや東南アジアがD1とD3系統であるのに対して、 日本人のD系統はほぼ100%がD2系統。 もちろん、同じD系統だから近縁であることは間違いないが、D2系統は世界の中で日本人にしか存在しない固有の系統。 さらに大きな意味な持つのが、日本の近隣諸国にはY染色体D系統が存在しないこと、 そして現代の日本人にも、相当に高い頻度で残っていること。特にアイヌ人には9割近くも集積している。(本土の山間部にもやや多い。)  ということは縄文人の特徴ということだ。(沖縄本島には多いが、八重山諸島にはいない。) このD2系統には、特徴的な変異:「YAP」(ヤップ)とよばれる挿入部分(300塩基)をもち、 これは D、E系統のみに含まれ他には存在しない。 (以下番外編) E系統を持つのは、イスラエル、いわゆるユダヤの民。 調査結果から、イスラエルの失われた12部族のうちの、エフライムとマナセだけがYAPなどの挿入部をもつD系統である。他はE系統。 日本人のみ(他のアジア人にはみられない)持っているタイプの系統は、古代イスラエル、古代ユダヤのものと同じなわけだ。 ということは、やはり、はるか西のほうからシルクロードを通って、そのまま日本まで父系を保ちつつ独自に移動してきたと考えられる。 やはり、イスラエルの失われた十支族の末裔が日本人である可能性が高い。整理して考えると。。。 古代イスラエルから、日本へ、3度に渡ってたどり着いたといえるかもしれないのだ。 ・一度目 日本人のルーツとなる縄文人が日本に定着。彼らは中近東から比較的早い段階で来たと思われる。 人類のグレートジャーニーの動き、人種が別れたばかりのセム系直系の遺伝子的に色濃い人々が日本を目指して移動したことがわかる。 ・二度目 北イスラエルのいわゆる失われた十支族が日本へ。 きっと、古代の自分達の祖先が日本へ渡ったことの伝承をたどって日本まで来たのだろう。 シルクロード各地にそのような伝説が残っていることからもその可能性は高い。 このY染色体DNAから、失われたイスラエル十支族が日本人である確証となる。 それに文化的にも、古代イスラエルで信仰されてた古代ユダヤ教神道そっくりである。ということは天皇家は?。。。 ・三度目 キリストの教えを直接受けた原始キリスト教徒であるネストリウス派キリスト教徒、いわゆる景教徒である秦氏が日本にやってきた。 これは歴史的な事実から確証があり、判断できる。 キリストの時代はエルサレムには南イスラエルの人々、いわゆる南イスラエル2支族、すなわちユダヤ人しか住んでいない。 原始キリスト教徒であるネストリウス派キリスト教徒のユダヤ人である秦氏は、 中国の西にあった弓月の国を建国ししばらく留まり、その後、日本に来ているのは歴史的に正しいわけだ。 きっと、日本に来た目的は、失われた十支族を追ってのことだろう。そして彼らは、この日本で出会った。失われた兄弟達と再会したのだ。 10支族がやってきて、後から2支族が来たことで、 イスラエルの12支族すべてがこの日本に来ていたということになるのだ。 この時点で、旧約聖書の預言は成就されていたことになる! 京の都は『平安京』これは秦氏が協力して天皇を祭るために作った都ヘブライ語で『平安』は『シャローム』、『都』は『エル』すなわち、『平安の都』とは『エルシャローム』。京都は『エルサレム』だったのだ! 『エルサレム』で、もうすでに1千何百年前にイスラエル12支族がすべておちあった! 秦氏は、旧約聖書の預言を日本で成就するために、京都を作ったのだ!ということになる。 ユダヤ三種の神器もすべて日本にある。(これについては後日) 旧約聖書の預言はこれによってこの日本で成就される! 。。。これは大変なことを知ってしまった。。。 (番外編) 海草を消化出来るのは日本人だけ 日本人の腸内細菌には、中国人、韓国人も持っていない、もちろん北米人では見られない 海藻を消化する酵素をつくる遺伝子が見つかった。 こんな研究結果をフランスと カナダの研究グループがまとめ、8日付英科学誌ネイチャーに発表した。 のりに潜んでいた海の微生物が持つ能力を腸内細菌が取り込んだ可能性が高いという。 まさに、孤高の特殊な民族、日本人 3.)YAP遺伝子の系統 D系統遺伝子はY遺伝子YAP型に分類される。 YAP型はY遺伝の中でも古い系統の一つであり、日本人は東アジアの中でも最も古い人種の一つである事がわかる。 ちなみに他のアジア人(中国人、韓国人など)の主流であるO系統は、最近分岐した最も新しい系統の一つである。 Y染色体のDNAの塩基配列の型から、Alu配列と呼ばれる約300個の特定の塩基配列(YAP+因子)を持つのは、Dグループと、Eグループで、 Dグループが相当な頻度で存在するのは、日本とチベット、インド洋のアンダマン諸島のみ(日本で30~40%、アイヌと沖縄ではさらに頻度が高く、チベットでは約30~50%)であることがわかっている。 他方、Eグループが相当な頻度で存在するのはアフリカと地中海沿いの中東からイタリア南端にかけてである。 だから、Y染色体にAlu配列(YAP+因子)を持つ者が相当頻度で存在する地域は、 アフリカと地中海沿いの中東からイタリア南端にかけてと、チベットと日本のみであり、 日本人のY染色体の30~40%については、DNA塩基配列が近縁関係にあるものは周辺国等にほとんどなく、 チベットやアフリカや中東のY染色体と近縁関係にある事が分かっている。 YAPは縄文人固有の遺伝子ではなく中東から発祥したものなのか? これは中国人、韓国人、フィリピン人にもない遺伝子であり、YAP遺伝子は縄文人固有の遺伝子ではなく、中東から来たという。 古代イスラエル人と日本人くらいしかいないともいわれ、Y染色体DNAのD系統を高度で持つことで有名であり、Y染色体DNAのD系統は、日本人とチベット人や中近東の人の他には、世界のどこにもほとんど存在しないそうだ。 Y染色多型体の分析による最新の結果では、 旧石器時代にシベリア経由で北海道に来た系統、 縄文時代華北朝鮮半島経由で来た系統、 弥生時代に同じく華北朝鮮半島経由で来た系統、 南方から沖縄経由で来た系統。 アフリカをあとにして広がった人類は大きく3つのグループに分かれたが、 日本列島にはその3つのグループのすべてが集まっていて、これは全世界的に見て他に類の無い特徴である。D系統は、本土で40%、沖縄で56%、北海道アイヌで88% つまり、縄文系の血を濃く残すと言われるアイヌ人の実に9割がユダヤ人と近縁のD系統で、 渡来人の遺伝子的影響を受けやすい本土人では4割しかユダヤ人と近縁の遺伝子がいないことになる。古代イスラエル人の渡来は、どんなに早くとも、紀元前8世紀以降。(北イスラエル王国の滅亡が紀元前722年だから。) 大陸から、中国・韓国系の大量にO系統の人間が移動してきた弥生時代と近接している。(日本人の半分はD系統で、残り半分がO系統) では、縄文人の末裔の方がユダヤ人と遺伝子タイプが似ているというのはいったいどうしてか。。。 逆に、縄文人(D系統)が大陸に渡りイスラエルに行き、突然変異してE系統(イスラエル人)になったという方が、合理的だ。ということは、失われた十支族が日本に来た理由は、日本から発祥したその自分達のルーツをたどるために、日本に先祖帰りの旅に出たのではないだろうか? だから、彼らは預言に従って日本までたどりついたのではないだろうか?。。。だとしたら。。。ユダヤ人たちのシルクロードを通しての情報伝達能力は凄かった。そのためにシルクロードを作ったともいえるということは、イエスキリストの空白の期間に、エジプト、チベット、と旅をしていることはわかっているのでひょっとしたら、そのユダヤ人の足跡を追ってイエスシルクロードを日本まで来ているかもしれない。 秦氏とともに。聖徳太子はイエスキリストのことかもしれないのだ。 今のユダヤ人たちはそのことを知らない。彼らは、その他の2支族の末裔であり、 10支族の宗教、伝承、他は、知らないからだ。 日本人は、それを知っている。いや、知っていた。 しかし、歴史は捻じ曲げられ、隠され、今日に至る。 でも、日本中の埋もれ隠された古史古伝、神社、祭り事、言語、わらべ唄、そういったものの中に ハッキリと古代イスラエルの文化が生き延びていて、証拠となって今も現存する。 なーんていろいろ考えると、すべては日本から始まったという、竹内文書もまんざらではなくなってくるから、恐ろしくもある。。。 実に不思議だ。。。日本の最大のミステリーは日本人そのものである 番外編.)日本人特有のM7aグループ 日本には世界で日本人にしか見られないM7aというグループがある。 これは台湾付近で発生したと考えられ、琉球諸島アイヌに多く本州で少ないという特徴的な分布をしている。 いわゆる縄文人の遺伝子で、これは、与那国島海底遺跡を作った人々 縄文人が高度な文明を持っていて、日本全体にすんでいたということになる。 失われた大陸ムーの祖先か? >番外編.その2)奈良人は朝鮮系? 「奈良」の語源について 「古代に朝鮮半島からの移住者が奈良の辺りに多く住み着き、そこに王朝を作って韓国語で"国"を意味する"ナラ"と名付けた」と言う説がある。 奈良人のDNAを検査した結果、周辺の県より突出して朝鮮系のDNAを持つ人の割合が多かった。 奈良に朝鮮系の渡来人が大勢住んでいたのは確かである今売れに売れているこの本だが、自分の視野を広げるという点においては、 この記事を読んで日本人のルーツについて興味を持った人はぜひ読んでみるといい。 日本人はどこから来たか!?遺伝子から分かるグレートジャーニーの真実

日本最大のミステリーは 実は、我々、日本人そのものである。といえる。 番外編.)日本人特有のM7aグループ 日本には世界で日本人にしか見られないM7aというグループがある。 これは台湾付近で発生したと考えられ、琉球諸島アイヌに多く本州で少ないという特徴的な分布をしている。 いわゆる縄文人の遺伝子で、これは、与那国島海底遺跡を作った人々 縄文人が高度な文明を持っていて、日本全体にすんでいたということになる。 失われた大陸ムーの祖先か? 番外編.その2)奈良人は朝鮮系? 「奈良」の語源について 「古代に朝鮮半島からの移住者が奈良の辺りに多く住み着き、そこに王朝を作って韓国語で"国"を意味する"ナラ"と名付けた」と言う説がある。 奈良人のDNAを検査した結果、周辺の県より突出して朝鮮系のDNAを持つ人の割合が多かった。 奈良に朝鮮系の渡来人が大勢住んでいたのは確かである。今売れに売れているこの本だが、自分の視野を広げるという点においては、 この記事を読んで日本人のルーツについて興味を持った人はぜひ読んでみるといい。

「縄文人ゲノム解読 私たちのルーツは」

日本人の祖先と思われている縄文人。そのイメージが大きく変わろうとしています。 福島県で発掘された人骨からゲノムが解読され、「縄文人はアジアの他の地域の人たちと大きく異なる特徴を持っていた」とわかったのです。そればかりか、現代の日本人とも予想以上に違いが大きかったと示されました。 では一体、縄文人とは何者だったのか?私たちのルーツにも関わる最新科学の意味を3つのポイントから読み解きます。

まず、「核DNA解析」と呼ばれる今回の手法が、これまでと何が違うのか整理します。 続いて、解析の結果つきつけられた「縄文人とは何者か?」、さらには「では私たちは何者なのか?」 という謎を読み解きます。 そして、「科学が変えた人類観」。DNA解析の進歩は、人類がどんな存在なのか?というイメージ自体を変えてきました。それをどう受け止めればいいのか考えます。 先月、国立遺伝学研究所などのグループが「縄文人の核ゲノムを初めて解読した」とする論文を 専門誌に発表しました。この「縄文人」とは、福島県新地町にある三貫地貝塚で発掘された3千年前の人骨です。三貫地貝塚は、昭和20年代に100体以上の人骨が発掘された、縄文時代を代表する貝塚のひとつです。研究グループは、東京大学に保管されていた人骨・男女2人の奥歯の内側からわずかなDNAを採取し、解析に成功しました。 DNA解析と言えば、今や犯罪捜査から薬の副作用の研究まで様々な分野で使われていますが、今回の研究では「核DNAの解析」というのがポイントです。実はこれまで「古代人のDNA」というと、行われてきたのは「ミトコンドリアDNA」というものの解析でした。 私たちの細胞には「核」があってその中に「核DNA」が入っていますが、これとは別にミトコンドリアという小さな器官の中にもDNAがあります。ミトコンドリアはひとつの細胞に数百個もあるため分析に広く使われてきました。ただ、ミトコンドリアDNAの持つ情報は限られていて、文字数に例えると2万文字以下の情報しかありません。これに対し、核DNAは32億文字にも上り、私たちの姿形や体質など膨大な情報を含んでいます。技術の進歩で新たな分析装置が登場したこともあって、今回、日本の古代人では初めて核DNAの一部が解読されたのです。 では、縄文人とは何者だったのか?こちらは解析の結果、三貫地縄文人が現代のアジア各地の人たちとどれぐらい似ているのか、プロットした図です。近い場所にある人同士は核DNAがより似ていることを示します。すると、縄文人はアジアのどこの人たちとも大きな隔たりがあるとわかりました。それだけでなく、現代の日本人ともかなり離れています。現代の日本人は、縄文人よりむしろ他のアジアの人たちに近い位置にあるのです。 こうした距離は、人々が共通の祖先から別れて別々に進化を始めた時代の古さを示すと考えられています。DNAには時間と共に突然変異が起きるため、別れてからの時間が長いほど違いが大きくなるためです。 そこで、この結果を共通祖先からの分岐の古さを示す「進化の系統樹」にするとこうなります。「ホモ・サピエンス」と呼ばれる私たち現生人類は20万年前にアフリカで誕生し、その後他の大陸に進出しました。ヨーロッパに向かった人たちと別れ、東に進んだグループのうち、最初に分岐したのはパプアニューギニアからオセアニアへ渡った人たちです。そして解析の結果、次に別れたのが縄文人だったのです。これは、縄文人が他のアジア人ほぼ全てと別のグループであることを意味します。他のアジア人はその後、中国や東南アジア、さらにはアメリカ大陸に向かう集団へと別れました。現代の日本人もこちらのグループに入っています。これを見る限り、縄文人は日本人の祖先には見えません。ただ同時に、この矢印は、縄文人と現代の日本人のDNAのうち12%は共通だということを示しています。一体どういうことなのか?研究者が考えるシナリオです。 およそ4万年前から2万年前の間に、大陸から日本に渡った人々がいました。大陸とは海で隔てられていたため、この人々はその後大陸のアジア人と交わること無く進化を遂げ、縄文人の祖先になります。その間、大陸のアジア人も様々に別れていきました。 そして、縄文時代の末以降、再び大陸から日本に大勢の人が渡ってきました。いわゆる渡来系の弥生人です。稲作文化を持ち込んだ渡来系弥生人は人口の多くを占めるようになりますが、その過程で縄文人と幾らか交わりを持ったため、現代の日本人には12%だけ縄文人のDNAが伝えられたのです。従来の研究では、現代日本人には縄文人の遺伝子が2割~4割ほど入っているとも考えられていましたので、それよりかなり少ないという結果です。 ただし、これはあくまで福島県・三貫地貝塚のわずか2人のDNA解析の結果です。「縄文人の中にも多様な人達がいて三貫地縄文人は現代人との共通性が低かったが、西日本の縄文人はもっと共通性が高いかもしれない」と考える専門家もいます。現在、国立科学博物館などのグループでも、北海道から沖縄まで各地の古代人の核DNA解析に取り組んでおり、今後、日本人のルーツはより詳しく解明されていくでしょう。 さて、こうした科学の進歩は私たちが抱く「人類観」さえ変えてきました。 発端は1987年、ミトコンドリアDNAの解析から、アメリカの研究グループが衝撃的な発表をしました。それは、「世界の人々の母方の祖先をさかのぼると、20万年前のアフリカにいた、たった一人の女性に辿り着く」というものでした。この女性はミトコンドリア・イブ」と名付けられました。 このことは、それ以前から各地にいたはずの古い人類たちを、あとからアフリカを出た我々ホモ・サピエンスが全て絶滅させ、置き換わった証拠だと考えられました。 しかし、これをくつがえす人類観も、今度は核DNAの解析から生まれました。2010年、ドイツのグループがおよそ4万年前にヨーロッパにいたネアンデルタール人の核DNAを解読。「我々はネアンデルタール人からDNAの数%を受け継いでいる」と発表したのです。 この発見は、ホモ・サピエンスネアンデルタールと共存し交わりを持って子孫を残した、それが我々の祖先だということを意味します。私たちは他者を滅ぼすばかりの攻撃的な種では無く、異なる人々を受け入れ、それによって豊かな多様性を持つようになったのではないか?そんな可能性を科学が示したのです。 こうした発見の積み重ねの先に、いつの日か「私たちはいかなる存在なのか?」そんな根源的な問いにも答えが出されるかもしれません。

今回の調査では、核DNA解析など今までにない最新の科学的手法が試された……。

その結果、私達の先祖である縄文人の遺伝子中に縄文人特有のDNAが見つかったという。それは中国大陸系の遺伝子(DNA)とは全く別の場所からやって来たDNAだった…。研究結果を受けてこの新しい縄文人DNAが一体どこからやって来たのか?という新たな課題も見えてきた。

縄文時代とは?

縄文時代とは、記録に残る最も古い時代で今からおよそ1万6,000年前から3,000年前にあたり、その後の「弥生時代」へと続く。

約1万3000年の間、北海道から沖縄まで日本全国をカバーする時代だった。

縄文人の核DNA解析に成功

 

今回縄文人の核DNAの解析に成功した。今までも解析はされてきたがほんの一部だけ。これまで分析対象にされてきたのはミトコンドリア内部のDNA。「ミトコンドリアDNA」は数が多く残存しやすいため分析が容易だ。しかしDNA塩基の数は少なく1万6000個しかない。( 得られるデータ量が少ない) ところが、核DNAには約30億個もの塩基の数があり、解析に成功すれば非常に多くのデータが得られるという。ただし核は各細胞に1つしか無いため非常に残存しにくい。…今までは解析が非常に難しかった。

国立遺伝学研究所)のチームが解析

今回、国立遺伝学研究所の 齋藤成也教授をリーダーとするチームが核DNAの解析に成功した。DNAは生きている人間であれば唾液などから大量に採取する事ができる。しかし古代人の場合は、骨に残されたDNAを採取するしかない。そしてそのほとんどは分解が進み、残っていないため分析出来る可能性は低い。

外気に触れない歯の根からDNAを採取

そこで齋藤成也先生が狙いをつけたのは「歯」だった。状態の良い歯を入手するため、1950年代に発掘が開始された福島県三貫地貝塚(ふくしまけん さんがんじかいづか)へ……。この貝塚では縄文人の骨が多数発掘されており、人骨の出土数は国内最大でこれまでに100体以上出土している。しかも比較的寒冷な地域だ。出土した骨を管理研究している 諏訪元 教授(東京大学総合研究博物館)は齋藤成也教授に「成人の男女二人の歯の根」の部分を提供。果たして狙い通りに外気に触れることなく温存された部分から核DNAを調べることが出来るだろうか……

非常に難かったDNAの取り出し作業

しかし実際のところ、歯の根の内部からDNAを取り出す作業には困難が伴った。神澤秀明(国立科学博物館研究員)さんは、歯の内側を削り取り、その中からDNAを取り出そうとしたが、本来繋がっているはず塩基はバラバラ。しかも外部から入ってきたバクテリアなど別の生き物のDNAも混じっていた。その中から縄文人のDNAを選り分けて取り出すのは、苦難の連続だったという。

核DNAであれば日本人のルーツも調べられる

従来解析に使ってきたミトコンドリアのDNAは母方の先祖からのDNAしか受け継がない。(父親側のDNA情報は解らない)そのため母方のルーツしかわからなかったが、核DNAには両親のDNAが受け継がれているため、より正確に日本人のルーツを調べることも可能になったという。

我々は「オリジナル縄文人」の祖先?

3,000年前、縄文時代が終わり弥生時代になると、中国大陸より「渡来系弥生人」が渡って来た。 つまり私達のご先祖様は、渡来系弥生人だと思われていた。しかし解析の結果、我々現代日本人のDNAには中国大陸の人々のDNAとは違うルートからのDNAも混ざっている事がわかった。それが本州独自(オリジナル)の”縄文人DNA”。DNAの性質別に分布図で示すと中国大陸(ベトナム=キン族、中国=ダイ族(雲南省)、中国=漢民族(北京)など)の大陸系のDNA分布とは少し離れた場所に現代日本人が表示される。

縄文人のDNAは分布図の更に離れた所に有り大陸系DNAとは大きく性質が異なっていた。現代日本人が大陸系DNAの集団と少し(性質が)離れているのはこの「縄文人」のDNAの影響が色濃く反映された為と推察された。大体2割位が縄文人DNA、8割が大陸系DNAとして混血し現代の日本人に受け継がれているという。

では”縄文人DNA”はどこからやってきたのか?

20万年前、アフリカで誕生した全人類の先祖。その後、アフリカ大陸からアジアに向かった集団がいた。

この集団「原アジア人」はさらに、東アジアに向かった集団と東南アジアに向かった集団に分かれる。「渡来系弥生人」は「東アジア」の集団から別れ日本に到達した。今回判明したのは、「縄文人」は「東アジア」「東南アジア」の分岐よりも前にすでに分岐が始まっていたということ。”オリジナル縄文人”は、中国人の先祖やベトナム人の先祖よりさらに古い時代に日本にやってきて独自の文化を作った可能性があるという。オリジナル縄文人のDNAはアジアのどこにも見つからないもので全く新しい場所から発生している可能性があり、ユーラシア大陸のどこからやってきたのかもわからず、調査も振り出しに戻ってしまったという。

現在考えられている仮説は…

  • 南北にとても広い日本列島で数多くの色んなDNAが混血し全く新しいDNA(今までに発見されていないDNA)を作った可能性

 

アフリカ大陸からまだ知られていない全く未知のDNAが縄文人として存在した可能性などがある。

縄文人はどんな姿かたちだったのか?

福島県三貫地貝塚から初めて解析された縄文人の核DNA。この成功により、青森県の遺跡などの人骨からも次々と新しい解析が進んでいる。(青森では8割もの核DNA解析に成功)その結果、縄文人はシミが多いことがわかった。本川智紀さん(ポーラ化成工業)は、12年前「染色体MC1R部分のシミに関する塩基配列」を発見。日本人の体質=縄文人の体質は「シミ」になりやすい肌を持つことがわかった。データによれば縄文人の体質の特徴は以下のようになる

>髪はストレート … 弥生人の遺伝子

  • シミになりやすい
  • 耳垢が湿っている
  • くせ毛
  • 二重まぶた
  • ウインクができる(ウインクするときに口が動かない)

 

 

南沢奈央の遺伝子は、縄文人の遺伝子が優っているように思えた。アフリカ大陸から来た当初人類はウインクが出来たという。日本人は、2割が縄文人のハイブリット。それが日本人の多様性を受け継いでいるという。

核DNAが人類学を変える

渡来系弥生人のさらなる詳細なども今後わかるようになり、噂とされていたことが科学的に立証できるようになれば、人類のルーツを知ることができるかもしれないと話した。

さて、こうした科学の進歩は私たちが抱く「人類観」さえ変えてきました。

発端は1987年、ミトコンドリアDNAの解析から、アメリカの研究グループが衝撃的な発表をしました。それは、「世界の人々の母方の祖先をさかのぼると、20万年前のアフリカにいた、たった一人の女性に辿り着く」というものでした。この女性は「ミトコンドリア・イブ」と名付けられました。

このことは、それ以前から各地にいたはずの古い人類たちを、あとからアフリカを出た我々ホモ・サピエンスが全て絶滅させ、置き換わった証拠だと考えられました。

しかし、これをくつがえす人類観も、今度は核DNAの解析から生まれました。2010年、ドイツのグループがおよそ4万年前にヨーロッパにいたネアンデルタール人の核DNAを解読。「我々はネアンデルタール人からDNAの数%を受け継いでいる」と発表したのです。

この発見は、ホモ・サピエンスネアンデルタールと共存し交わりを持って子孫を残した、それが我々の祖先だということを意味します。私たちは他者を滅ぼすばかりの攻撃的な種では無く、異なる人々を受け入れ、それによって豊かな多様性を持つようになったのではないか?そんな可能性を科学が示したのです。

こうした発見の積み重ねの先に、いつの日か「私たちはいかなる存在なのか?」そんな根源的な問いにも答えが出されるかもしれません。 ヒト=カタワのサル~サルからヒトへは退化であり進化である2007-02-02

「祖先の物語シリーズ」は「サルから人類へ」の秘密に迫る。これまでしてきたことをまとめ、発展させてお送りしています。 >いつも興味深く読ませていただいております。 直立歩行、謎ですよね。渚原人とか際物学説もありますが。 突然変異ありきで、確かに、おもしろい学説です。しかし、少数の突然変異の個体が生まれた場合、生存の危機になるような形質が受け継がれるような集団が形成可能でしょうか?弱者こそ生き残るという話もありますが。ご教示ください。 >渚原人はアクア説のことだと思いますが、アクア説については、 あの栗本慎一郎もアクア説を近著「パンツを脱いだサル」で協力にプッシュしています。栗本氏といえば「双極的世界観」や「市場社会以前の経済構造」について、有意義な理論を展開しており、最近は「小泉の同級生」として激しい小泉批判を展開するなど、理論家として、また政治評論家としても今改めて注目の存在かと思います。(やや論理の飛躍があるところには注意が必要ですが・・・。) そこで、今日は栗本氏の「パンツを脱いだサル」を引用しつつ、人類進化のナゾに迫ってみたいと思います。

>サバンナ説によれば・・我々の祖先は当初アフリカ大陸の森林地帯に暮らしていたが、気候の急激な変化が起こって森林地帯にサバンナ化が進行した。そこで、一部の類人猿のなかからは、木から降りて、サバンナでの暮らしを選び取るものが現れた。狩をする必要に迫られた彼らは、獲物を見つけるために直立し、両手に武器を持って二足歩行することを選び、道具を工夫することで脳が発達し、大きくなった。 >しかしこの説にも、やはりおかしな点がある。足が短く、全速力で走っても大型哺乳類の何分の一の能力もないヒトが、たかだか立ち上がって周りが見渡せるようになったところで、生きるのに決定的に役立つわけではない。・・ラマピテクスの身長は1.2メートル程度で、背骨も曲がっていた。それでは遠くまで見渡すことはできないし、仮に獲物や敵を見つけたとしても、二足なので走るのが遅くて何にもならない。 そうですよねえ。これ、本当にそうだと思いますよ。大の学者がなんでそんなこともわからんのか、学者だからわからんのか・・ほんと不思議でしかたがないですよね。 >確かに、ヒトとチンパンジーの遺伝子は酷似している。しかし違いをよく見てみると、サルに比べてむしろ「退化」したのではないかと思える要素が実に多いことに気がつくであろう。実際、サルから進化したはずのヒトは、サルには身体的に可能なことのほとんどができなくなってしまった。ヒトの下肢は物をまったく掴めないし、何かにぶら下がることも不可能だ.上肢もサルに比べて非常に短く、確かに器用に動かせるようにはなったが、筋力が著しく減衰して、上肢一本で体を支えることはできなくなった。 >サルだって必要なときは二足歩行ができるし、たまには両手で物を掴んだり、簡単な道具を使うこともできる。しかし、何かに追われて逃げるときや早く走りたいときなど、自らの生存にかかわるような場合には、必ず四足を使う。 >なぜ、ヒトは直立姿勢を選び、さらに体毛も捨てて、あえて危険が選んだのか。少なくとも、それを「進化」として選んだといえるのであろうか。ヒトがヒトとなることで失われてしまったもの、退化としか考えられないものはたくさんある。そういうテーマの研究書はすでにたくさんだされているのだが、お偉い学者のほとんどがそれを気に入らないため、公然とは論じられなかった。それはまさしく(サルからヒトへの変化を進化だと考えたいという)土俵の問題であり、その土俵は信奉者の飯の種であるからだ。 栗本氏のいうとおりであろう。人類への進化とは「カタワのサル」への退化とそれによってもたらされた逆境の克服の過程であったのだろう。ただし、栗本氏はここからアクア説を採用する。もしかすると今後、考古学がアクア説を証明する可能性はないとはいえない。しかし、人類とサルを分かつポイントを考える上では、「人類はカタワのサル」で十分ともいる。いずれにせよ、栗本氏が指摘している通り、サバンナ説を覆っている「直線的な進化観」では、答えにならない。進化とは逆境と適応の塗り重ねであるとの見方を持つことで「人類の観念そのもの」もはじめて、真っ当に働き出すのではないか? >「弱者こそ生き残る」のです。

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実現塾「サル・人類史年表4」~共認充足を命綱にして生き延びたカタワのサル=人類2016年01月14日

「サル・人類史年表」 大型化・凶暴化した制覇種が類人猿だが、同類闘争圧力が衰弱した特殊環境に棲息するチンパンジーの亜種ボノボでは、凶暴性は影を潜め、性充足(共認充足)によって統合されている。では、人類はどうであったのか?

人類の起源説の一つに、アフリカ東部の草原説がある。アフリカ東部の大地溝帯両側の山脈が隆起して大西洋からの湿った風を遮った結果、乾燥によって森林が減退し草原化した。類人猿は大地を歩かざるを得なくなって直立二足歩行を身に付け、完全に空いた手は道具を扱うようになったから脳が発達して現在の人類が誕生したという説である。この説はあたかも真実であるかのように流布されてきたが、近年、全くの嘘であったことが明らかになり、提唱者(イブ・コパン)自身が撤回宣言を出している。

大地溝帯が本格的に隆起したのは400万年前で、500万年前に人類が登場した、その後の話である。しかも、それによってアフリカ東部はそれほど乾燥化したわけでもなく、森林は十分あったとのこと。そして決定打は、アフリカ西部のチャドから二足歩行する上に600-700万年前のトューマイ猿人の化石が発見されたこと。このトューマイ猿人が棲息していた環境は「魚やワニの化石」が残っている事からして、湿潤な環境だったと考えられる。「直立二足歩行する人類の発祥、有名な仮説が崩れていた」

人類は足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちと同様、足で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサルである。樹上に棲めるという本能上の武器を失った結果、人類は想像を絶する様な過酷な自然圧力・外敵圧力に直面した。そこで、本能上の武器を失った人類は、残された共認機能を唯一の武器として、自然圧力・外敵圧力に対応し、そうすることによって、共認機能(≒知能)を更に著しく発達させた。 『実現論前史』「人類:極限時代の観念機能」

学者は先の草原直立説だけでなく、洞窟内からマンモスの骨が出土することを以て原始人類がマンモス狩りをしていただとか嘘を並べ立てているが、彼らは原始人類が置かれた極限状況を全く理解していない。草原になったからと云って、樹上という楽園を捨て、好き好んで危険な草原に出てゆくはずがない。森林の移動に合わせて移動すれば終いである。このように、草原化したから二足歩行になったという学者の論理は全く整合していない。 人類が地上に棲むようになったのは、突然変異によって樹上機能を失ったからだと考えるしかない。樹上機能を失った人類は、キツネなどの小動物にも負ける弱い存在なのであって、マンモスのような大型動物を狩れるはずがない。もし、それだけの力があれば、他の動物も棲まない劣悪な環境である洞窟に500万年間も隠れ棲むはずがないだろう。洞窟から動物の骨が出土するのは、他の動物が喰い残した動物の死骸の骨を拾い集めて、脳髄や骨髄を主食として啜っていたからに他ならない。

では、人類はどのようにして圧倒的な極限状況を突破しようとしたのか?

本能上の武器を失った人類は、残された共認機能を唯一の武器として、自然圧力・外敵圧力に対応し、そうすることによって、共認機能(≒知能)を更に著しく発達させた。 もちろん、共認機能の発達によってすぐさま、他の動物と互角に闘えるようになったわけではない。が、絶望的な状況下に置かれたカタワのサル=人類が、その極限時代500万年間を生き延びることが出来たのは、強力な親和共認充足を形成し得たからであり、もしそれがなければ、人類は生きる希望を失って早々に絶滅していたであろう。 その充足源(活力源)の中心が性であり、とりわけ人類の雌は性充足機能を著しく進化させている。もう一つ、日々の充足源となったのが踊り(祭り)である。その副産物として、左右交互に足を踏み鳴らす踊りが歩行訓練にもなり、結果として直立歩行できるようになったのである。そして、直立によって両手が自由に使えることになった人類は、石器をはじめとして様々な道具類を作り出し、生存様式を進化させていったのである。

このように、共認充足を命綱として極限状況を生き延びてきた人類は、類人猿由来の凶暴性を封鎖したと考えられる。加えて、極限状況ゆえに人類は単独集団として生存しており、人類史500万年のうち499万年は同類闘争を行っていない。つまり、DNAに刻印された凶暴性を発現する契機はなかった。

もちろん、共認充足機能を強化しただけでは、外敵動物と互角には闘えない。実際、つい1.5万年前までは人類は洞窟に隠れ棲んでいた。 では、原始人類はどのようにして、極限的な生存圧力に適応していったのか?

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「人類=カタワのサル」再考2007年09月13日

サル⇒人類誕生時、地上生活が始まる要因について、専門家vsるいネットでは180度見解が異なっています。 【専門家;地上に進出した】vs【;樹上に住めなくなった】 専門家たちの見解には色々あって‘定説’にまで至っていないようですが、主流とされているのはおおよそ以下のような見方のようです。 「人類の肢指の形が変わったのは、地上生活に順応するため」 「直立2足歩行~足親指が他の指と同方向に動いた方がより早く歩ける」 「地上で生活するようになってから後に、足親指が対向して動かないかたちになった」 これらは大雑把に『地上生活順応説』という呼び方で括れると思います。 すなわち、本能(肉体)的にも、猿より高等(適応的)に進化したという見解です。 これに対し、るいネットでは『実現論‐第1部前史‐ヘ.人類:極限時代の観念機能』で 「足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちと同様、足で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った結果、想像を絶する様な過酷な自然圧力・外敵圧力に直面した。」としています。 本能(肉体)的には猿→小型哺乳類レベルに逆戻り(退化?)した という見解です。 はて、どちらが事実なのか?

シンエイFootLabよりチンパンジー足指の「母趾対向性」 木があるのに積極的に地上に出て行く。そのためには木の上に代わる防衛力を身につける必要があります。しかし、初期人類の化石からはサルを上回る肉体的な防衛力を手に入れたような痕跡は見られません。脳の容量が増えるのも地上に降りてからです。 にもかかわらず、「樹上⇒地上に進出した」とする専門家の見方には “進化”という先入観があるように思われます。 たしかに「進化」と言うと『より適応的に変異する』ことをイメージしがちです。 中でも「種の進化」というのは、従前種には無いなんらかの‘新たな適応原理を開発or発見する’方向に変異したことに違いありません。 しかし「種として進化する=爆発的に個体数が増え、数世代以上その種として安定・継続できるようになる」までの間は、360度あらゆる方向への突然変異の試行錯誤があって然るべきだと思います。 この探索過程を抜きにして「現在の適応形態に一直線に進化した」とか、「全ての進化はより高等な方向に進むはず」「人類の種としての優越性」というような先入観で物を考えるのは危険だと思います。 以上より、個別現象事実間の整合性が高い=事実の成立構造に肉薄しているのは『実現論』です。 以下、地上生活順応説への主だった反証を引用しておきます。 『肢の指の退化=適応説への反論』

おそらくこのような疑問の背後には現在の人類学者に見られる、地上に降りたこと或いは直立したことが、あたかも素晴らしいことであると言う思い込み(その背後にある人類の種としての優越性という錯覚)があるような気がします。 木の枝を肢の指で掴めなくなった、つまり樹上で暮らせなくなった、ことが如何に決定的に生存にとって不利な状況であったかをリアルに想像してみる必要があるのではないのでしょうか?人類は鋭い爪も牙も力も走力も他の哺乳類に比して圧倒的に劣ります。つまり樹上を追われたサルは到底適応できる存在ではありません。 また地上で暮らすようになったから、その必要性が無くなった、というのも矛盾です。実際ニホンザルなどは地上での生活時間のほうが長いのですが、相変わらず樹上で暮らす機能は退化していません。言うまでもなく、いざと言うときに樹上に逃避できることは大きな武器だからです。 またサルは実際ある程度の時間直立歩行することが可能です。そして直立に必要なのは主に腰骨の機能であって、それさえ変化させれば、肢の指の形状を変えなくても直立歩行は可能です。つまりどこから考えても、肢の指で木を掴める機能を退化させる積極的必要性はどこにもありません。 かつこの肢の指の変化は突然変異と言っても、新しい機能が生まれたわけではありません。肢の指が木の枝を掴めなくなる=指が対角線上に曲がらなくなる、という否定形の変化です。つまりある遺伝情報が発現しなくなる、というだけの変化ですから。ウィルスであれ、ホルモン物質→内分泌の変化であれ、遺伝情報を撹乱・破壊する環境要因の変化があれば、一定の確率で、ある地域の集団内の複数の個体に充分起こり得るものだと思います。 もちろんこの変化は元々非適応的なものですから大多数のケースは絶滅したでしょう。その中で共認機能だけを頼りに奇跡的に生き延びてきたのが始原人類です。加えてあくまでも、本能でも共認でもどうにもならない事態に直面したからこそ、それを突破し得る最先端機能=観念を生み出したことも忘れてはならないと思います。

『サルからヒトへの足の指の変異:『地上生活順応説』には物証もなければ論理的反証が多すぎる』

逆に専門家が言うように、地上生活が先であったとしたら、ほとんど木に登らず地上生活を営んでいるゴリラやヒヒは、なぜその生活様式に順応した足の指になっていないのか?という疑問が浮上します。 しかも、ゴリラもヒヒも真猿類の進化系統樹上は、ヒトが原チンパンジーから枝分かれする遥か以前に登場しており(この点は最近のDNA解析の成果として証明済み)、地上生活をする霊長類としては彼らの方が先輩ですから、順応するための時間という観点からは、ゴリラやヒヒの方が有利です。ならば、人類の祖先は原チンパンジーではなく地上派のゴリラやヒヒである可能性の方が高くなるはずです。ついでに言うなら、ゴリラやヒヒから枝分かれしてヒトに進化した種がいたと言うなら、チンパンジーよりもゴリラやヒヒに近いDNAを持った人類の化石が発見されていてもいいはずです。 しかし、これらの点は最近のDNA解析という言わば物証から、人類の祖先は原チンパンジーであることがほぼ明らかになりました。つまり、地上生活に順応するために足の指の形質が変わったという認識には、物証がないだけではなく、他の多くのサルの生活様式と進化論的思考との照合からも、論理的反証が多すぎるのです。

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シャーマンとは何か11~性充足が部族和合を実現する最強の贈与だった2018年11月01日

前稿「人類の観念機能の土台となったドーパミン」では、人類では快感物質ドーパミン回路が発達し、それが人類の探求機能~観念機能の土台となったことを紹介した。

樹上機能を失い、絶望的な状況下に置かれたカタワのサル=人類は、性と踊りをはじめとする強力な充足回路を形成した。それが人類がドーパミン回路を発達させた理由であり、それがなければ、人類は生きる希望を失って早々に絶滅していたであろう。 『実現論』「前史ト.人類の雌雄分化と人類の弱点」

その名残りが、古代のシャーマン(巫女)の性と踊りのエクスタシーである。

以下は、『皇統と鵺の影人検索キーワードダイジェスト集』「巫女(みこ/シャーマン)」を要約したもの。 ------------------------------------------- シャーマニズムにおいて「神懸り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣」を下す事である。巫女舞の「神懸り」とは、巫女に過激な舞踏をさせてドーパミンを発生させ、エクスタシー状態となる事である。それによって、神が巫女に降臨し「神懸り」状態となる。

現代でも、夜通し踊ればベータ・エンドロフィンが脳内に作用してダンシング・ハイの興奮状態になるが、陰陽修験に伝わる呪詛行為の術では、巫女に過激な性交をさせてドーパミンを発生させ、脳内麻薬のベーター・エンドロフィンを大量に発生させる。巫女がオーガズム・ハイの状態になれば、その巫女の様子から周囲が神の降臨を認め、「神懸り」と成る。

日本には古来から女神が多いが、女神の資格は性交の儀式を執り行う事であった。

大和合の国(日本列島)黎明期の女神は、神の言葉を天上から受け取り、御託宣として下界の民に伝えるのが役目、つまり巫女(シャーマン)だった。そこに介在したのが、神事として奉納する性交の儀式である。五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛として、巫女の神前性交行事が神殿で執り行われていた。

弥生時代古墳時代まで、日本列島は縄文原住民族と多数の渡来部族が混在する人種の坩堝(るつぼ)だった。 そこで、部族間の争い事を回避する呪術が、性交に拠る人種的和合の「誓約儀式(うけいぎしき)」である。それによって次代が混血し部族が和合する。異部族間の性交が人種的和合の呪術だったからこそ、巫女に拠る神前性交儀式や神前娼婦などの文化が残った。

弥生期初期の頃は、本来の先住民・蝦夷族(縄文人)、加羅族(農耕山岳民族系渡来人、呉族(海洋民族)系渡来人の三系統に分かれ、その三系統も部族集団に分かれていた。最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段として始まった。そこで和解手段として最も実効があったのが誓約(うけい)の性交に拠る血の融合なのである。 ----------------------------------------------- ここで注目すべきは、原始人類の性充足が、ドーパミン回路を発達させ探求機能~観念機能の土台となっただけでなく、その後の採集部族に至っては、性充足が部族間の同類闘争を回避し、部族和合を実現する最強の手段となったという点である。 採集部族は平和友好を維持するために様々な贈与をしたが、とりわけ性充足こそが部族社会を統合する最強の贈与だったのである。

赤ちゃんの言葉の発達過程から、人類の言語の登場過程を推定する2017年06月22日

胎児→乳児→幼児に成長していく過程は生命の進化過程をなぞっている。ということは、言語の登場過程を解明する鍵も、赤ん坊にある。

『赤ちゃんの進化学』(西原克成著)によると、赤ん坊は一歳までは身体構造上、気管と食道が分かれている。これは、サルをはじめとする哺乳動物と同じであり、身体構造的に言葉を発することができないらしい。

胎児では、受精後、単細胞から始まって、心臓が動き出し、受精後30日ぐらいから魚類になり、両生類になり、手が生まれ、爬虫類になり、哺乳類になり、やがて刻々と人間(ヒト)になっていく。

しかし、一歳までの赤ちゃんは、ホモ・サピエンスではなく、他の哺乳類と同様の特徴をそなえている。

一歳を過ぎた頃から、赤ちゃんは段々に人間になっていき、二歳半の頃になってようやく「ホモ・サピエンスの子供」になる。

赤ちゃんは、母親の乳首に吸いついて数分間、息継ぎもせずにお乳を飲む。これは、人間以前の哺乳類に出来るが、大人の人間にはできない。つまり、大人は食べ物や飲み物を飲み込むとき息を止めるが、赤ちゃんは息を止めないでも飲み込める。

大人は、食道と気管が交差しているが、赤ちゃんは、この食道と気管が分かれていて、食道と気管がそれぞれの働きを同時にに行うことができるからである。サルやイヌ、ネコなど他の哺乳動物は、赤ちゃんと同じように、息継ぎせずに、食べ物を食べ続けることができる。ということは、赤ちゃんの身体構造は、他の哺乳動物と同じ段階にある。

成長した人間だけが他の哺乳動物と異なる喉の構造になったのは、人間が言葉を話すようになったためである。 声を発するメカニズムは、肺にある空気を、鼻ではなく、口へ向かって吐き出すことで、哺乳動物は声を発する。このとき、気管から鼻へ向かうべき空気が、喉の交差点で、口へと向かう。動物が吠えるときは喉を激しく緊張させ、かつ運動させ、気管を強引に喉の方に近づけ、食べ物の道である口につなぎ、さらに声を発する(吠える・鳴く)。これは、かなり努力を要する特別な作業である。赤ちゃんが泣くときも、全身に力をこめるほどの大変な作業をすることで泣くのである。他の哺乳動物と同じように、気管を強引に喉につなげることで泣き声を発するからである。

これが成人になると、食道と気管が喉で交差し、つながってしまうので、私たちは苦しまずに、声を発することができるのである。赤ちゃんが言葉を話すのは、構造的に無理なのである。

気管と食道が交差してある程度、人間の構造を備えてくるのが、一歳ごろだといわれている。 二歳半といえば、言葉もだいぶ話せるようになった頃であり、自分のアンヨで立って歩くことも楽にできる頃である。したがってこの時期までは、「この子は今、必死で進化の過程を歩んでいるのだ」と考えることが大切である。そして、三~五歳ごろに脳細胞が急激に発達する。

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だとすれば、①人類が言葉を話し始めたのは赤ん坊の成長段階でいうと1歳頃に相当する。②2歳に相当する段階でかなり言葉を話せるようになり、③3~5歳に相当する段階で急速に頭脳が発達した(言葉がしゃべれるようになっていきなり脳が発達するわけではない。おそらく、この3~5歳の脳発達に相当するのが現生人類の数万年前の急激な知能進化→道具や壁画の進化であろう)。

赤ん坊が1歳になる前に焦点を当てると、もう一つの顕著な変化がある。

生後数ヶ月の赤ちゃんはあらゆる言語の音を聞き分けられるらしい。それが、1歳を迎える前に大きな変化が起き、自国語に応じた脳構造に変化するらしい。

「赤ちゃんは、あらゆる言語の音を聞き分けられる」

東京の赤ちゃんと シアトルの赤ちゃんについて 「ra」と「la」を聞き分けるテストを行なった所、生後6~8ヶ月の赤ちゃんでは違いが見られなかった 。それが2ヶ月たつとアメリカの赤ちゃんは成績が良くなり 日本の赤ちゃんは悪くなる。 赤ちゃんの頭の中で言語の統計処理が行なわれており、赤ちゃんは言語の統計を吸収し それが脳を変化させる。

第2言語に接したことのないアメリカ人の赤ちゃんに、生後8~12ヶ月の言語習得の臨界期に初めて中国語に触れさせると、10ヶ月半ずっと中国語を聞いてきた台湾の赤ちゃんに劣らぬ、良い成績になった。赤ちゃんは、新たな言語に対して統計処理をしている。何語であろうと赤ちゃんは接した言語を統計処理する。

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まとめると、こういうことになる。

一歳になるまでに、①赤ん坊の身体構造(喉)は、気管と食道が交差するようになり言葉が話せるようになる。②それまでは、赤ん坊はあらゆる言語の音(波動)を聞き分けられる脳機能を備えているが、生後8ヶ月~1歳までの間に周囲で話されている言語に特化した脳構造に変化する。

原始人類が言語機能を獲得した時も同じ過程を踏んでいるはずである。

赤ん坊生まれた時が、500万年前カタワのサル=人類が登場した時だとする。3~5歳の急激な脳の発達が10~3万年前の現生人類だとする。それから推定すると、人類の言語機能の発達過程は次のようになる。

1歳児≒350~300万年前に喉の気管と食道が分かれた。同時に、それまで人類はあらゆる波動を聞き分ける聴覚(脳機能)を備えていたが、言語機能に特化した聴覚(脳機能)に変わる。小脳の発達と照準力を司る左脳シフト⇒右脳の抑制制御)もこの段階で進んではず。

2歳児≒200~100万年前の間に、かなり言葉を話せるようになり、

3~5歳時≒10~3万年前に急激に脳が発達し、道具や壁画が発達する。

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グループ追求は孤高の天才に勝る~江戸時代の自主追求グループ「連」

「グループ追求は一人の天才に勝る」という趣旨の書籍を紹介します。2016年08月14日

『凡才の集団は孤高の天才に勝る--「グループ・ジーニアス」が生み出すものすごいアイデア』キース・ソーヤー著 金子 宣子(翻訳 ダイヤモンド社) *****************************************

2009年3月22日毎日新聞に掲載された田中優子氏の書評を転載します。◇日本の伝統とも共通する創造力の秘密

 ビジネス書の書棚には近づかない方なのだが、この本の題名を見て思わず手にとった。それは私が、江戸時代の都市部で展開していた「連(れん)」というものに関心を持ち続けてきたからである。連は少人数の創造グループだ。江戸時代では浮世絵も解剖学書も落語も、このような組織から生まれた。個人の名前に帰されている様々なものも、「連」「会」「社」「座」「組」「講」「寄合」の中で練られたのである。

 私はこの創造性の秘密は、日本人固有のことではなく、人間の普遍的なありようではないのかと、常々考えていた。江戸時代では、個人が自分の業績を声高に主張しなかったので、連による創造過程があからさまに見えるのではないだろうか。コーディネイターとして人と人をつなげながら自分の能力を発揮した人こそが、日本の文化史には残っている。

 さて本書は原題を「グループ・ジーニアス」という。著者は経営コンサルタントを長く経験し、企業にイノベーション(革新)の助言をすることを仕事にしてきた。同時に心理学博士で、そしてジャズピアニストだ。この組み合わせには納得。江戸の連はジャズのコラボレーションに酷似している、と私も考えてきたからだ。そういう著者であるから、本書には即興演劇集団がどのようなプロセスで芝居を作ってゆくのか、ジャズセッションはどういう過程をたどるのか、著者自身の詳細な記録に基づいて述べられている。それと全く同次元で、ポスト・イット(付せん)がどう生まれたか、ATMやモールス信号がどのように発明されたかを書いているのが面白い。そこから見えるのは、個人の発明だと思っていたものが、実は様々な人々からの情報提供と深い意見交換を契機にしているという事実である。また個人のレベルでは十中八九失敗であるものも、最終的には画期的な発明がなされている。失敗が新しい時代につながる理由こそ、コラボレーションの力なのだ。

 江戸の連には強力なリーダーがいない。町長や村長など「長」のつく組織は明治以降のものであって、町や村もピラミッド型組織にはなっていなかった。それは短所だと言われてきた。戦争をするには、なるほど短所であろう。しかし新しいアイデアや革新を起こすには、社員全員で即興的に対応する組織の方が、はるかに大きな業績を上げている。本書はブラジルのセムコ社やアメリカのゴア社の事例を挙げ、現場のことは現場で即時対応することや、規模を小さくとどめるために分割することに注目している。それが伝統的な日本の創造過程とあまりにも似ていることに驚く。

 本書で提唱しているのはコラボレーション・ウェブ(蜘蛛(くも)の巣状の網の目)である。その基本の一つが会話だ。事例として日本の大学生の会話も収録されている。そこに見える間接的な言い回しが、可能性を引き出し創造性につながるものとされている。日本語(人)の曖昧(あいまい)さと言われるものが、実はコラボレーションの大事な要因なのだ。相手の話をじっと聞き、それを自分の考えと連ねることによって、新たな地平に導く可能性があるからだ。これは相手まかせではできない。能動的な姿勢をもっていてこそできることである。人を受け容(い)れるとは能動的な行為なのだ。

 江戸時代までの日本人は、集団的なのではなく連的であった。本書もピラミッド型集団とコラボレーションとの違いを明確に区別している。こういう本を読んで、日本のコラボレーションの伝統と力量に、今こそ注目すべきだ。 ***************************************** (引用以上)

ここで挙げられている「連」「会」「社」「座」「組」「講」「寄合」とは、江戸時代の庶民による自主追求グループであろう。 リサイクル技術をはじめとして、江戸時代の日本人の技術力が世界トップレベルであったことが明らかになりつつあるが、その追求力をはぐくんだ母胎が自主グループ「連」や「講」であったことは想像に難くない。 そして、追求充足が創造の源泉であったことは、江戸時代固有の話ではなく、人類の普遍的な在り様である。それは原始時代から歴史貫通的に当てはまる構造である。

『追求のススメ(サルから人類へ:観念機能の創出)』 足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちがそうであるように、足の指で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った結果、想像を絶する様な過酷な自然圧力に直面した。とうてい外敵に対応できない原始人類は、洞窟に隠れ棲むしかなかったが、彼らは恒常的に飢えに苛まれていた。 彼らは常に生存の危機に晒されており、当然「どうする?」⇒「世界(自然)はどうなっている?」という未知への収束と追求回路に全面的に先端収束する。そして、人類は、直面する未知なる世界=不整合な自然世界を「なんとしても掴もう」と、自然を凝視し続けた。それは、生命の根源をなす適応本能(整合本能)と共認機能を深く結びつけることになった。そのようにして、みんなで毎日毎日追求し続ける、その中で、追求共認⇒追求充足の回路が、共認回路の奥深くに形成され、その共認充足が更に強く皆を追求に向かわせていった。

チンパンジーと人類の違いから ~追求充足が進化の源泉~2016年04月26日

1頭のチンパンジーが蟻塚の前で立ち止まり、小枝を拾った。そして、巣の入口を覆っている柔らかい土に小枝の片端を挿し込み、蟻塚の兵隊アリが攻撃してくるのを待った。アリの群れが小枝を10cm程登ってくると、チンパンジーは巣から枝を抜き、枝の向きを手際よく変えて巣に刺した片端を自分の口に向け、群がっていたアリを食べた。たらふく食べるまでその過程は繰り返される。

チンパンジーは様々な道具を巧みに使う。石で木の実を割ったり、葉を使って木のうろにたまった水を吸い取ったり、棒で栄養価の高い植物の根を掘り出しできる。しかし、彼らはこの知識をもとに前進したり、もっと高度な技術を生み出したりはできないようだ。例えば、棒を使ったシロアリの狩猟法を仲間に教えることはできるが、別の物を挿し込んでみようということはなく、同じことを繰り返すだけだ。

一方、現生人類はそのような限界はない。実際、私たちは日常的に他人のアイデアを拝借し、それに独自の工夫を加えて改良し、最終的には新しくて非常に複雑なものにする。例えば、一個人だけではノートパソコンに投入されている複雑な技術のすべてを思いつくことはできない。そのような技術的偉業は何世代にもわたる発明の塗り重ねによって出来上がっている。

人類学者はは、私たち人類のこの特技を「分化の累積(カルチャル・ラチェッティング)」と呼ぶ。これには何よりもまず、ある人から別の人へ、あるいはある世代から次の世代へと、誰かが改良のアイデアを思い付くまで、知識を伝えていく能力が必要となる。

何故、人類は知識の伝達・応用ができ、サルはできないのか?

2012年、英国の霊長類学者が、ある実験を行った。実験用パズルボックスを設計し、チンパンジーとオオマキザル、そして英国の幼稚園児の集団にやってもらった。このパズルボックスには難度レベルが3つあり、あるレベルの問題はその下のレベルの問題を解いた後でないと解けない仕組みになっている。

55頭のサルのうち最高レベルにたどりついたのは1頭のチンパンジーだけで、しかも30時間以上もかかった。 しかし、幼稚園児たちははるかに上手くやった。サルの集団と違って、園児の集団は話し合ったり、励ましたり、正しいやり方を教え合うなど協力して取組んだ。2時間半後、35人のうち15人が最高レベルに到達した。 (写真はイメージです)

こうした認知能力と社会的スキルを私たちの祖先は、なぜ獲得することができたのか。前述の実験を受けて、ロンドン大学の進化遺伝学者たちは「人口密度」が関係しているのではないかという仮説を立てている。

集団規模が大きいほど、技術を進歩させるアイデアを誰かが思いつく可能性が高まる。さらに、隣接集団と接する可能性が高いほど程、新しい技術革新に触れる機会が高まる。しかし、文化的な革新には、個人どうしが密に結びついた特別な社会状況が存在していたのではないかと考えられている。

『追求のススメ(サルから人類へ:観念機能の創出)』 足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちがそうであるように、足の指で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った結果、想像を絶する様な過酷な自然圧力に直面した。とうてい外敵に対応できない原始人類は、洞窟に隠れ棲むしかなかったが、彼らは恒常的に飢えに苛まれていた。

彼らは常に生存の危機に晒されており、当然「どうする?」⇒「世界(自然)はどうなっている?」という未知への収束と追求回路に全面的に先端収束する。そして、人類は、直面する未知なる世界=不整合な自然世界を「なんとしても掴もう」と、自然を凝視し続けた。それは、生命の根源をなす適応本能(整合本能)と共認機能を深く結びつけることになった。そのようにして、みんなで毎日毎日追求し続ける、その中で、追求共認⇒追求充足の回路が、共認回路の奥深くに形成され、その共認充足が更に強く皆を追求に向かわせていった。

追求充足の回路が、共認回路の奥深くに形成されてきた結果、幼稚園児どうしがが話し合ったり、励ましたり、正しいやり方を教え合うなど協力して取組んだ実験結果に繋がっていると考えられます。 そのように考えると、追求共認⇒追求充足回路の獲得が、人類進化の源泉といえるのではないでしょうか。

【参考】「別冊日経サイエンス ~化石とゲノムで探る人類の起源と拡散』

「まつり」は本来、目に見えない神や精霊の世界とつながる場2016年02月25日

今回もシャーマニズムの続きです。:

シャーマニズムは、ヒトと自然界とのつながりを保ちつづけるための深層の絆人類はコトバの獲得と文化の形成によって自然から離れてしまった

・「まつり」は本来、目に見えない神や精霊の世界とつながる場だ。 ・ヒトは太古からシャーマニズムの文化を発達させ、変性意識状態になることで目に見えない精霊(スピリット)の世界とのつきあいを保ってきた。 ・シャーマンと呼ばれる人たちは規則的な音や幻覚性植物の力などによってある種の変性意識状態(シャーマン的意識状態とも呼ばれる)に入り、自然界の精霊や祖先の霊などと交流する。 ・太鼓の音やドラッグなどで変性意識に入ることによってその枠組みが 一時的に外れると、日常の世界の思考や行動をまるで違う視点から眺めることができたりする。

 太古のヒトにとって、自然界の精霊と交流することは特別なことではなかった。 その入口は、踊りやうたによる「まつり」によって生まれる変性意識状態にあり、現代人は身に付けてきた様々なコトバや枠組みにより、自然界の精霊と交流するような自由な思考を失ってしまった。 現代人も「踊り」によって得られる変性意識状態により、様々な枠組みから自由になれるのだろうか、、、

 踊るヒト科の、明日はどっちだ?(リンク)より

「踊る」という行為が、現代社会でよみがえりつつある。 その最たるものが、90年代から盛り上がったダンスミュージックやレイヴパーティーのシーンだ。 レイヴパーティーとは、野外のキャンプ場などでトランスとよばれるテクノミュージックを大音量でかけ、一晩中踊り明かすイベント。レイヴ(rave)とはもともと「うわごとを言う、荒れ狂う」という意味。80年代の終 わりにイギリスで起きたアシッド・ ハウスの野外パーティーのムーヴメントに端を発し、ヨーロッパ各国やアメリカなどの先進諸国、そしてインドのゴアや地中海のイビザ島など伝統的なヒッピー の楽園にも飛び火していった。日本では96年頃から本格的な盛り上がりをみせ、「レインボー2000」をはじめとする大規模な野外レイヴも行なわれるようになった。レイヴの場では、同じリズムを共有しながら、集団で踊りという原初的な快楽に身をゆだねる。踊り方はまさに好き勝手。誰もが、一番気持ちいい状態、一番「ハマれる」状態にどっぷりと漬かるのだ。

ヒトは太古から、集団で踊るという行為を続けてきた。 幕末に 広がった「ええじゃないか」や、鎌倉時代に流行した「踊り念仏」、アメリカでは1969年のウッドストック・フェスティバル。時代時代に形を変えて「踊る記憶」は受け継がれてきたとも言える。昨今のレイヴやダンスシーンの盛り上がりは、その再来とも言える。それは、ヒトという種が秘めている内的な衝動・エネルギーのある種の噴出なのかもしれない。

そして、うたもリズムも、踊りとともにあった。 現在の世界各地の先住民族たちもそれぞれに自分達の踊りとうたとリズムを持っている。文字を持たないヒトはいても、踊りと音楽を持たない民族はないといっていいだろう。そして彼等にとって踊りと音楽は、共同体を維持し、ヒトを自然や宇宙と結びつける重要なメディア(媒介)なのである。

心臓の鼓動を思わせるリズムに身を委ね、仲間たちとともに身体をゆする。素足で大地を踏み、飛び跳ねる。嬌声をあげる。笑う。そしてその光景は面白いことに、コンピュータで生み出された音楽が鳴り響く先進国のレイヴのありさまと驚く程似通っているのだ。 思えば近代人はこういう快楽的な踊りをこれまで長い間、自らに禁じてきた。というか、「気持ちいいこと」そのものを罪悪視してきたフシがある。しかし近代的なシステムのほころびが誰の目にも明らかになりはじめた今、「気持ちいい」ことを徹底的に追求する若者たちが大量に発生しはじめたというわけだ。

僕にとってこれまでで最良のレイヴは、98年7月に岐阜で行われた、イクイノックスというオーガナイザーによるパーティーだ。湖のほとりのキャンプ場を借り切って、3日間にわたって開かれた。みんなテントやバンガローに思い思いに陣取り、気が向いたら踊りの輪に加わる。手作りアクセサリーや食べ物の店もいろいろあったし、外国人もたくさんいた。 いいレイヴでは、参加者の身体がシンクロし、気持ちがひとつになる。この岐阜のパーティーで僕は心底生まれてきてよかったと思ったし、今生で一度きりのこの場に居あわせることができたことを感謝した。そこにいるすべての人が、生えている草木が、飛んでいるすべての鳥がいとおしく思えた。土埃と汗にまみれて踊っていた参加者のだれもが笑顔に輝き、だれもがとてつもなく優しかった。これこそがヒトという動物の本来の姿だと思えた。すべてがリアルだった。感動のあまり涙が出てきた。

この岐阜のパーティーではいろんなことを感じ、考えた。そこには なぜか懐かしさが感じられた。時空を越えた既視感とでもいうべきだろうか、「こうして皆で身体全体でリズムを感じて踊るということを、僕たちの祖先は営々と行ってきたのではないか・・・」という気がしてしかたがなかったのだ。森林を出て直立歩行を始めアフリカの大地を踏みしめたヒトの祖先がその生の喜びを身体全体で表した時、そこに踊りが生まれたのではなかったか。石器時代から縄文時代へと何万年にもわたって受け継がれてきた遺伝子レベルの「踊る記憶」が、しばしの中断を経て再び呼び覚まされた・・・そんな思いを抱かずにはいられなかった。

現存する 世界中の民族舞踊をみると、狩猟採集民と農耕民ではそのスタイルに傾向の違いがみられる。農耕の民が大地から足を離さずに静かに動く水平的な踊り方をする(能や日本舞踊の摺り足などその典型)ことが多いのに比べ、狩猟採集民では大地から跳びあがる垂直的な動きが多い。生業のスタイルとしてはもちろん狩猟採集の方が古いのであって、政治・宗教権力や経済システムの発生も農耕が行なわれて からの話である。おおざっぱに言って、農耕の開始とともに社会システムの高度化がはじまり、それと同時に原初的な踊りも徐々に変貌し様式化していったのではないだろうか。だとすると、日本列島でも数千年前の縄文時代までは原初の踊りの営みが日常的に行なわれていたのかもしれない。縄文遺跡からは、有孔鍔付土器という、太鼓とも思しき土器が見つかっている。

今後、ヒトはますます「踊ること」に目覚めていくのだろうか。理屈ではなく、そういう身体的な次元から世の中が変わっていったらすばらしいと思う。

文字を持たないヒトはいても踊りと音楽を持たない民族はない、というのはなるほど興味深い。 共同体において、踊りの持つ意味は極めて大きいに違いないが、どのようにして生まれたのか? >森林を出て直立歩行を始めアフリカの大地を踏みしめたヒトの祖先がその生の喜びを身体全体で表した時、そこに踊りが生まれたのではなかったか< というのは本当だろうか。

 原始人類集団のリーダーは、精霊信仰⇒祭祀を司る女であった】より

まず、この原始人類の生存状況に同化してみよう。 足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちと同様、足で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った。そして、人類は1~2万年前まで、まともに地上を歩くことが出来ず洞窟に隠れ棲むしかない様な、凄まじい外圧に晒されていた。 洞窟の中で餓えに苛まれなが暮らしている。つまり、大半の時間を洞窟の中で過ごしていたわけで、原始人類はその間、何をしていたのか? まず考えられることは、エネルギー源としての充足の追求であり、それによって人類は充足機能を発達させてきた。カタワのサルである人類は地上で適応するために直立歩行の訓練を始め、それが踊りとなり、この右・左と足を踏み鳴らす踊り=祭りが日々の充足源(活力源)となった。 この踊り=祭りの中でトランス状態に入り、そこで観た幻覚の極致が精霊である。人類が万物の背後に見たこの精霊こそ、人類最初の観念であり、人類固有の観念機能の原点である。

2015年01月01日

高齢者が先導する新たな共同体!~シリーズ6 地域共同体構想の実現基盤と実現手法 その2~未知収束

「実現の年」として、これまで以上に追求を深めて行きたいと思います。 「お上の暴走」→秩序崩壊を感取した人々の本源回帰の潮流は、3.11を契機として一段と勢いを増し、遂に「何かやりたい」という実現期待が、学生・主婦・老人の間から広範に生起してきています。自給自足のイメージに近い、自給志向(自分で賄う)や自考志向(自分で答えを出す)等の追求に向かう根幹には、潜在思念が未知の外圧を感取しているからだと考えられます。

その様な未知の外圧に対して可能性に向う潮流は、どのようにして生起するのでしょうか?今回は未知収束回路の構造を解明して、皆の追求活力を生み出し、地域や社会を牽引していく手がかりを掴みたいと思います。

早速、「未知収束」の全貌を解明していきましょう!!

 

◆2-1未知への収束と追求(充足)の構造

まず、未知の外圧→可能性に収束する潮流は、どのようにして生起するか触れてみます。 自給志向・自考志向をはじめとする、現在生起している未知収束事例は、未知の外圧に対する先端収束にあたります。

これらの収束事例の発端は、市場縮小・私権の衰弱→バブル崩壊に始まり、不正選挙や原発事故などのお上とマスコミの暴走です。もうお上には頼れないという現実と、これからは自分たちで社会をつくっていかなければいけないという未知なる外圧の突破口として、人々の未知収束回路が作動し始めています。

未知収束回路は、人を「これからどうする?」という追求に向かわせます。現実を捨象・否定し、平等や自由を要求する民主主義的な価値観とは正反対の関係にあり、これに陥っていては未知収束回路は作動せず、一向に追求には向かえません。 自分たちの手で自分たちの社会をつくっていく地域共同体にとって、追求力は大きな推進力となります。

「家族を守りたい」、「社会の役に立ちたい」、「パートナーを勝たせたい」といった、追求共認こそが追求充足を生み出す源泉になります。

ここで未知収束が活力源となった背景をおさえておきましょう。

未知収束が活力源になったのはなぜか?   リンクはこちら

全ての生物にとって、世界の状況を把握する機能=外圧認識機能は、生存していくために不可欠の機能であり最先端機能となります。そして、外圧を認識した生物は外圧に適応するために本能を発達させます。一度、本能で外圧に適応すれば、適応態である生物にとってその本能と外圧は整合しており、世界は本能で単純に対応すればよい対象であり未知なものではなくなります。

しかし、猿と人類は本能で外圧に対応できなくなったことが他の生物と大きく違います。猿は樹上という最高の生産力と防衛力を持つ第三の世界を獲得したことで、本能では対応できない集団での同類闘争という外圧にさらされ、本能を超えた共認機能を獲得します。(詳細は実現論参照)

そして、人類は木に登れなくなったカタワの猿であり、最高の生産力も防衛力も失い、本能でも共認機能でも適応できない極限状態にさらされます。人類は本能で外圧に適応できない不適応体なのです。従って人類にとって外圧は「いつ何が起こるかわからない」未知の世界であり、当然、未知なる物の把握が最先端課題となったのです。

この未知収束回路はDNAに深く刻印されています。だからこそ未知なる物(当時は自然)の追求が第一義課題となりその結果、追求共認→追求充足の回路が形成されたことによって一段と追求力を上昇させ、ついに未知なる外圧の中心に精霊を見る(観念回路を形成する)に至ったのです。

この未知収束こそ追求充足と観念機能を生み出した源泉なのです。 すでに追求回路が作動している最先端層では、保育・介護・環境等の事業に取り組んでいる層もいますが、それぞれが専門領域の枠組みに留まっており、追求力不足、理論不足なのが現状です。

追求力をフルに発揮させるには、皆が感じていることを言葉化し、追求共認を図っていけるか。全ては潜在思念の未知収束をどれだけ言葉化できるかにかかっていると言えるでしょう。 以上の未知収束と追求(充足)の構造を図解にして固定しておきます。

◆2-2未知収束回路は生存圧力発

次に未知収束回路をどうやって生起させるかを解明していきます。 未知収束回路が作動して、「これからどうなる?」と考える時は、いつ何が起こるかわからない、将来像が見えない、社会はこれから先どうなる?と言った生存の危機を感じたとき、すなわち生存圧力を感じた時なのです。

私権が終焉したのをきっかけに、お上は暴走を始め、マスコミは偏向報道を繰り返し、社会が何かおかしい。さらに自分自身といえば、目先の会社の経営で頭がいっぱい・・・。 未知なる外圧に対して、全うな人間であれば、そこできっと目の前の現実を直視するでしょう。現実否定に走らず、現実を直視すれば、「どうにかしなければ」「どうする?」「どうやって家族・地域を守る?」と可能性探索に向かはずです。

つまり未知収束回路は、生存圧力をきっかけとした、可能性探索回路でもあるのです。

これについては、皆さんも日々実感しておられると思いますが、なぜ私たちは生存の危機を感じると未知収束⇒可能性探索に向かうのでしょうか?生物史に遡り、過去人類がどうやって生存の危機を突破してきたのかを掘り下げて確認します。

追求のススメ1.未知なる世界への収束と追求(3)  リンクはこちら

足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちがそうであるように、足の指で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った結果、想像を絶する様な過酷な自然圧力に直面した。とうてい外敵に対応できない原始人類は、洞窟に隠れ棲むしかなかったが、彼らは恒常的に飢えに苛まれていた。

(中略) 彼らは常に生存の危機に晒されており、当然「どうする?」⇒「世界(自然)はどうなっている?」という未知への収束と追求回路に全面的に先端収束する。そして、人類は、直面する未知なる世界=不整合な自然世界を「なんとしても掴もう」と、自然を凝視し続けた。それは、生命の根源をなす適応本能(整合本能)と共認機能を深く結びつけることになった。そのようにして、みんなで毎日毎日追求し続ける、その中で、追求共認⇒追求充足の回路が、共認回路の奥深くに形成され、その共認充足が更に強く皆を追求に向かわせていった。

そして遂に、未知なる自然(例えば、一本一本の木)の背後に、整合する世界=精霊を措定する(=見る)。人類が万物の背後に見たこの精霊こそ、人類最初の観念であり、人類固有の観念機能の原点である。直面する未知なる世界(例えば自然)の背後に精霊を見るのも、物理法則を見るのも、基本的には全く同じ認識回路であり、従って精霊信仰こそ事実認識=科学認識の原点なのである。

このように、人類は、その最先端の観念内容を組み換えることによって、極限的な生存圧力に適応してきたのである。

 

まとめ

以上から、 ★皆で現実直視(家族、職場、地域、社会)→現代社会における生存の危機を感取・共認することで、未知収束回路を作動させることが出来る ★新しい社会をつくっていくために、未知収束回路⇒可能性探索に向かうには、皆の潜在思念をどれだけ言葉化し顕在化出来るかにかかっている。

新しい地域共同体のあり方を追求していく上で、地域統合のための理論化は必要不可欠です。次はシリーズ7「先端の意識潮流」に焦点をあて、追求していきます。 シリーズ7へ

日本婚姻史に学ぶ共同体のカタチ シリーズ2 「目交い~見つめあう充足の性」2012年02月25日

第一章では、日本の近世・近代を通じ庶民に根ざしてきた「夜這い婚」を中心に、日本人に残されていた共同体性や、性を含む共認充足が、婚姻関係の根底にあったことを紹介しながら共同体のカタチを学んできました 「日本の婚姻史に学ぶ、共同体のカタチ」 夜這い婚って何? 夜這い婚を支える【学び】と【導き】 祭りにみる日本人の最大期待とは? 第二章では、歴史を更に遡り、各時代の日本の婚姻様式についてさらに詳しく見ていきたいと思います。 私たち日本人に残る共同体性は世界でも特異なものですが、各時代ごとの状況にあわせ、多様な婚姻様式を塗り重ねてきています。その多様な婚姻様式を深く見ていく中で、大転換期に直面している私たち日本人の行くすえを、歴史に学び、今後の可能性を模索していく材料にしていきたいと思います。。

  • 婚姻様式とはどのように決まり、どのように変化するのでしょうか? 一般的には、婚姻様式は生産様式(狩猟、採取、牧畜、農耕、遊牧など)によって決まるという説がありますが、まず最初に、婚姻様式を規定する要因について、もう少し深く捉えなおしてみると、

例えば、一対婚は農業生産という生産様式に規定されたものだったのか? 農業生産だから一対婚になるという論理は繋がっていないし、実際、農業生産の時代でも日本の夜這い婚など、一対婚ではない事例もある。 私権時代は万人が私権第一であるが故に一対婚になった。つまり、私権獲得というみんな期待⇒私権統合という社会の統合様式に規定されて一対婚になったと考えた方が整合する。 (:人類の婚姻制もみんなの最大期待によって規定される)

のように、「外圧⇒みんなの最大期待⇒婚姻様式」という図式が見えてきます。 つまり、時代時代で私たち人類が直面してきた ・外圧とはどのようなものだったのか? ・それらの外圧に適応するためにどのような期待が生じたのか? ・その期待に対しどのような婚姻様式が適していたのか? に着目することで、先人達の「性の捉え方」や多様な「婚姻様式」への同化、理解が深まり、今後の可能性のヒントが見つかるのではないでしょうか。 そこで、第1回では、まず人類史500万年の99.9パーセントを占める、有史以前の婚姻様式について、2回にわたり記事にしていきます。 教科書で教えられてきた、約6000年前から始まる文明史は、実は人類史のほんの僅かであり、人類史の実に99.9パーセントは、文明が始まる以前の時代にあります。 従って、この時代の状況を知ることからはじめていきたいと思います。 Q:古来から日本ではセックスを「目交い」と呼んでいたのを知っていますか?

************************************************************** 目交い( 三省堂提供「大辞林 第二版」より) (1)目を見合わせて愛情を通わせること。めくばせ。 (2)情交。性交。 ************************************************************** ○まぐわいとは…→心の交歓 お互いの目と目を交し合う事で、肉体的な快感は元より、心の交歓充足が得られるのが、人類ならではなんです。 ○心の交歓充足って? 極めて静的な関係。お互いが向かい合い、抱き合い、ただ見詰め合っているだけでも、充分に充足できる機能を、人間は持っているんです。 (本来のセックスってなに?~男と女は充たしあうためにある~)

古来から、人類にとってセックスとは単に子孫を残すためのものだけではなく、心の充足や安心感を得るためのものだったのです。 そして、このような性の捉え方は人類特有の現象なのです。 ●このような人類特有の性はどのようにしてつくられてきたのでしょうか? 一般的な哺乳類(サル・人間以外)の性のあり方は、本能次元に刻印された生殖行為=子孫を残すためだけのものです。従ってそこに充足感なるものがあったとしても、それは本能的な充足ということになります。 一方、サル・人類は本能次元を超えた共認機能を獲得しています。

共認機能とは、相手に同化する、サル・人類に固有の機能。元々は、サル時代に形成された不全から解脱する為に形成された機能で、相手の不全(期待)と自分の不全(期待)を同一視する共感回路を原点としています。そこで相手と同化することによって充足(安心感等)を得ることができます。(るいネット:共認機能)

つまり、この共認機能に、人類特有の性の秘密があります。 では、まずは冒頭にもあるように、婚姻様式を規定する、この有史以前の外圧状況とみんなの最大期待について見ていきます。

足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちと同様、足で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った結果、想像を絶する様な過酷な自然圧力・外敵圧力に直面した。そこで、本能上の武器を失った人類は、残された共認機能を唯一の武器として、自然圧力・外敵圧力に対応し、そうすることによって、共認機能(≒知能)を更に著しく発達させた。(実現論:前史)

このように、有史以前の人類は、現代人の想像を超える凄まじい生存圧力が生じる環境下に置かれたため、当然強い生存期待が、みんなの最大期待として存在しました。 ※想像を絶する外圧状況という意味で、極限時代と呼びます。

参考:極限時代の住処や食事 人類はつい一万年前まで、まともに地上を歩くことが出来ず洞窟に隠れ棲むしかない様な、凄まじい外圧に晒されていた。 石器に残った痕や、石器を使った痕跡のある動物の骨などの分析から、石器を使った対象は、狩をして得た獲物ではなくて、死んでからしばらく時間がたった動物であることがわかってきました。

そして、サル時代に獲得した、足の指で枝を掴むという本能上の武器を失った人類が、このような過酷な時代を数百万年も生き延びてこられたのは、唯一残された共認機能に全面的に収束し強化することで、自他の不全を同一視し充足・安心感を得、かろうじて極限的な不全感を和らげる(不全解消)ことができたからなのです。 整理すると、 極限的な生存圧力の環境に晒された⇒強い生存期待がみんなの最大期待として生じる⇒唯一残された共認機能に全面収束し共認充足により不全を和らげようとする⇒すべての行為(性も含めて)が共認充足を得るための方向に収束していく ということになります。 つまり、人類特有の性は、性行為そのものが他の哺乳類のように本能次元での行為から、共認次元の行為に上昇しているところに起因しているのです。 もう少し具体的に言うと、性の場面は当然ながら相手合ってのことですので、子孫繁栄という本能的なものに加え、共認機能をフルに稼動した相手との同一視から生じる充足感や安心感を得るための行為としての意味が塗り重ねられているのです。 (例えば、一般哺乳類はごく限られた生殖期にのみ発情するのに対し、人類は年中発情期であることや、セックスの際相手の表情と正対した正常位とするところからも、単なる生殖行為ではなく、共認充足を得るための行為であることがわかります) また、見方を変えれば、人類の性とは、肉体的(本能的)な充足に限定されるものではなく、見つめ合うことや、身を寄せ合うこと、存在に感謝するなど、お互いを肯定視することから生まれる心の充足や安心感や感謝などの、心のふれあいの領域も含まれています。

目交い ○人間の活力源の原点 人類は、昔から仲間との共感・同一視が常にお互いの安心感を与え合える事が活力源となり、本能を超える機能を積み重ねてこれたんです。 相手を肯定視しようと思った場合、まずは目を見る。同一視から共感、そして共認=同化が出来たとき、心と心が通じ合い、全的な安心感・充足が得られる。この時、感謝の涙や自然な笑顔が、きっと浮かび上がっているはずです

これが、前段で述べた「目交い」と通じる、人類特有の性の本質であり、太古の昔の極限時代から数百万年間引き継いできているものなのです。 そして、当然現代人もこの構造を下敷きにして生きているのです。 このように人類の性は、共認充足を得るためのものであり、極限時代には共認充足を得ることが最大の生存課題であったことからすると、性こそが生存のための最大の活力源だったのです。 今回の記事では、人類特有の性とはどのようなものなのかについて、始原人類が生きた極限時代に遡ってみてきました。 次回の記事では、そのような極限時代の人類はどのような婚姻様式を生み出したのか?について見ていきたいと思います。