シリーズ「潜在思考の原点・カタカムナ」~似て非なる「陰陽道」~

シリーズ「潜在思考の原点・カタカムナ」~似て非なる「陰陽道」~

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 wikipediaからお借りしました~
 
古代人の思考から可能性を探る、シリーズ「潜在思考の原点・カタカムナ
 
 古代人の思考と現代人の思考の違いを扱いました。
詳しくは・・シリーズ「潜在思考の原点・カタカムナ」~「カタカムナ」の世界観(2)~
をご覧下さい。
 
民族学者の折口信夫が示した、万物のあいだに類似性や共通性を見出す「類化性能」と物事の違いを見抜く「別化性能」、この両極端な思考の違いが、古代人と現代人の思考の違いと言えます。
 
それでは、なぜこんなにも古代人と現代人の思考方法は違うのでしょうか。
長い歴史の中でどこで変わっていったのか。
 
この思考が変化していった背景を今回は探りたいと思います。
  
前回紹介した折口氏は奈良時代の頃から別化性能が発達してきたと述べています。
そこで、古代人の思考:カタカムナと近い思想として、「陰陽説」を紹介しているブログを見つけましたので、まずはその記事を紹介します。
 
「カタカムナに学ぶ~食や性の本来性は宇宙の輻射エネルギーとのバランス」
ブログ:日本を守るのに右も左もない 
より

【3】宇宙の諸天体や地球が放出する輻射エネルギー(陽電子と陰電子)に適応するように(バランスするように)生物や人間はサヌキ(陽電子)アワ(陰電子)を摂取・排出しなければならない。それが食や性という機構の本質的役割(本来性)である。
そのことを指しているのが「食と性の本性は、宇宙の生気(イブキ)につながり、食本能、性本能の現象も、宇宙的広域からの作動によるものである」という一文であろう。
この点で、カタカムナの宇宙認識と似ているものとして陰陽説がある。おそらくは、中国江南地方の採集部族もカタカムナと同じような認識を持っており、陰陽説はその末裔ではないだろうか。
『体温を上げる料理教室』(到知出版社)の著者若杉友子氏は、宇宙は陰陽から成り立っており、人間の体も食物も陰陽の組合せであること、そして、陰陽の法則に基づいてそのバランスをとるような食生活が必要であることを提起している。
「この宇宙の万物は陰と陽からできている」
東洋には数千年も前から「万物は陰陽より成る」という哲学があり、そこでは陰陽は宇宙に存在して、万物を常に新しく創造して、動かして、破壊して、再び造り上げる根本的で相対的なエネルギーだと考えている。
「陽性は右回転のエネルギー、陰性は左回転のエネルギー」
宇宙は回転エネルギー、渦巻きによってできている。大きなものでは星雲や太陽、小さなものでは元素とか素粒子も回転している。人間の頭のつむじも指紋も渦巻きになっている。

 
このように、「陰陽説」は、万物が陰と陽の相対的な回転エネルギーによって出来ており、その収縮性と拡張性のエネルギーのバランスによって世の中は成り立っているという考え方です。
 
この考え方は、カタカムナの捉え方である、正反対称性とひずみ性に似ています。
シリーズ「潜在思考の原点・カタカムナ」~「カタカムナ」の世界観(2)~より

天然自然に存在するものには、すべて正と反(陰と陽)が存在している。究極の正反は「カム」と「アマ」の関係である。次の正反は、アマ始元量の究極粒子であるマリの正反である。マリの正反は、マリの回転方向の違い、すなわち右回りか左回りかによって生じている。

 
そして、万物を陰と陽という世界で捉えることは、物事の関連性、類似性を捉えて整理していく、万物を繋げていく類化性能の思考と言えるのではないでしょうか。
 
このように、「陰陽説」は古代人の思考を引き継いでいるものだと言えそうですが、この陰陽説を利用した陰陽道は少し違った傾向を示します。
 
陰陽道についてより

陰陽道とは??
陰陽道は太古に発生した中国の民間信仰で、天の動きと人の世の動きには関係があるという思想(天人相関)に立ち、万事に吉凶を天文の変化から予知し、これによってどう対処してゆくかを決めるものです。
陰陽道の核になっているのは、中国の戦国時代に発展した、万物に陰陽の二元的原理を立てる「陰陽説」と、五行という五つの概念を組み合わせることにより、すべての存在や現象を解釈することによりその意味を考える「五行説」を組み合わせて作られた「陰陽五行説」です。
陰陽師陰陽道の担い手)はそれらの考え方に基づき、天体を観測し、暦をつくり、時をはかり、各種の器具を考案して占いをします。

 

 wikipediaからお借りしました~
 
陰陽道は、陰陽説を応用しつつ五行説を加えて、物事を分類し体系化する形となっています。そして行ったのは行動の指標となる、吉凶の判断。
目的が吉凶の判断となったために、まずは物事を分類する思考に変わっていき、万物の繋がりではなく、分類のパターンを決める方向に向かった。
 
その背景には、当時(奈良・平安)の朝鮮渡来の支配層は私権意識が強く、支配層と庶民を分け、国家統治のために様々な階層を作り出していった状況が挙げられます。
奈良時代からの律令制、冠位十二階など)
つまり、分類していく思考、別化(異化)思考を好んだことは容易に推測できます。
そのため、私権意識の強い支配層の求める吉兆判断の手段として利用される陰陽道も別化思考に変質していったということでしょう。
 
つまり、陰陽道は私権意識の拡がっていく社会の中で、類化思考から別化思考に変化していく中で生まれてきた思想であり、それが現代人の思考にまで繋がっているのではないでしょうか。
 
そのため、陰陽道は古代人の思考とは似て非なるものであり、古代人の思考の名残を残した劣化態と言えると思います。
 
今回は陰陽道を通じて類化思考から別化思考への変遷を扱いました。
私権意識の拡大をきっかけに現代まで蔓延した別化思考は、私権の衰弱とともに見直されるのも必然と思われます。
私権時代以前の思考:類化思考の追求の重要性も高まりますね。
 
まだまだ古代人の思考:類化思考とその可能性の追求は続きます。

日本と中国は次代で共働できるか?15 エピローグ2~日本が中国と共働する必然とは

日本と中国は次代で共働できるか?15 エピローグ2~日本が中国と共働する必然とは

このシリーズではいくつかの投稿で中国と日本の協働の可能性について触れてきました。
日本と中国は共に倭人騎馬民族が作った国で、倭人は中国国内では江南地方に多数居住しています。その後の歴史の違いにより、双方の国民性は現在では大きく異なっていますが、それでも西洋や中東の人々との違いと比べれば極めて近く、文化や言語、生活環境も含めて同質の文化圏にあるといえます。協働できるか否かと点ではマクロ的には意思疎通が可能で、可能性は決して小さくないと思っています。
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日中学生会議実行委員会公式ブログ」より借用しました。
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しかし、巷の書籍では中国人や中国の問題は取り沙汰され、日本人は決して中国人を信用してはいけない、騙される、交渉上手な中国人には赤子の手を捻られるようにまんまと騙されるなどの紙面が踊ります。たしかにそういう部分はあるでしょう。しかし中国と日本の悪しき関係は近年作られた政治的色彩がかなり強い側面もあります。
現在は中国と日本の間にアメリカが割って入り両国の国交を決して前に進めさせないようにコントロールしています。さらに中国国内では共産党独裁の手法として対日戦略が取られ、中国国民のガス抜きとナショナリズム形成の為にアジアの経済大国である日本を目の敵にしてきました。
現在でも情報統制がなされる中、日本の実態や歴史の事実は大衆には正しく伝わらず、しばらくは日中の険悪な関係は継続すると思われます。
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一方で日本の国政も田中角栄を除いては中国に近づくことができず、近づけばアメリカからの要請や下手すれば失脚に繋がるわけで、小泉のように中国が最も嫌う靖国参拝をすることで己の親米意識を示すなど、反中国の政策が政治生命に直結してきました。
このようにアメリカの監視の中で日中の関係は常に緊張と反発を続けるのですが、すでにアメリカの力はこの間失われてきており、早晩ドル暴落と共に自国の事で目一杯になり、日中監視に手が回らなくなるはずです。
また、中国でも先の記事でその可能性を観たようにすでに共産党独裁の萌芽が始まっており、こちらも最大顧客のアメリカ崩壊に引きづられて国内の混乱、共産党の崩壊が進行するでしょう。未来論にはなりますが、共産党崩壊後は中国はいくつかの地域に分裂する可能性があります。
ここからは中国との協働の可能性基盤を見て行きます。
国レベルと民間レベル2つの視点で見ておきます。
国レベルの共働の可能性
アジアでは中国に限らず、先行している日本の状況を良くも悪くも注視しています
日本はバブル崩壊を経験し、低成長経済も経験、高齢化社会にも最も早く直面しました。また、政治の腐敗、機能停止もアジアの中である意味先行しています。
日本がさまざまな外圧にどう対処しているかはアジア諸国の先例になっているのです。中国が次に必ず直面するのがバブル崩壊です。さらにその後の低成長経済、マイナス成長経済です。
上記で示したように分裂した中国国内の中で日本と手を取る事を選択する地域が必ず出てくると思われます。それは私には台湾も含めた南の方の地域、稲作農耕地域を保有する郡、国ではないかと予想しますなぜならば南の地域はいまだに共同体性を温存させており、文化的交流、経済的交流を通じて中国の再建を支援していく形で日中は繋がっていく可能性が歴史的にもかなり高いのではないかと期待します。
一方、中国の北のほうはロシアに取り込まれ、日本との関係はより一層、緊張関係になるように思います。
民間レベルでの共働の可能性
日中民間交流は現在でもあらゆる分野で進行しています。2万5千社の日本企業が中国に進出し、1000万人以上の中国人労働者を雇用しています。中国から日本への進出はまだ少ないですが、それでも年々増加しています。
民間レベルでの交流は経済ベースではありますが、既にしっかりと協働しているというのが現在の時点で、今後アメリカ経済の崩壊に伴い、よりその協働は進行していくのではないかと思われます。
これまでも日本企業は中国を理解しなければ現地での商売はできないなどと言われて来ましたが、逆に言えば中国に同化し最も理解できる最右翼は日本でしかなく、欧米でも韓国でもないのではないかと思われます。先の記事に道教の例を挙げましたが、大衆レベルでは無宗教で西洋型個人主義に染まらず(相手にせず)バンといういびつな形とはいえ集団をベースに生活を営んでいる中国国民は共同体体質の日本とある意味共通性がなくはありません。
問題は現在も貧富の差が大きく、いまだに私権社会(お金が全て)が濃厚に残っている中国人と既に私権社会から共認原理(お金よりやりがい)に移行している日本人との価値観の差です。しかし、それも今後徐々に差が縮まり、長い目では中国が変わっていく事になると思います。

これら、非常に楽観的な予測かもしれません。もしうまくいかなかったらどうする?中国は核も持っているし、いざ国内が荒れたら日本に何をしてくるかわかったものじゃない、 :evil: などとお叱りの意見を受けるかもしれません。
しかし、これだけは言っておきたいという事があります
数年以内におとずれる可能性がある経済破局以後の世界は必ず様相が代わります
それまでの西側優位の市場社会が破綻混乱し、市場原理によらない社会が模索されていきます。一説ではアジアかイスラム圏から次の牽引国が登場すると言われています。日本に期待されているのは市場主義以後の社会の世界共認の先頭を走る事です。
私権原理から共認原理へ転換しつつある現在、共同体性を備える日本がその可能性を有していますが、現時点でアメリカという負の関係を維持し続けている日本はどの時点でその関係を解消して自ら歩き出すかが問題となっています。
しかし一旦歩き出したら、協働する国をいくつかみつけていかなければなりません。それが同じアジア圏での大国インドであり、中国であり、東南アジアの友好国なのだと思います。彼らとの協働なくして、世界共認は作れないでしょうし、次の流れは作り出せないと思います。その意味で、日本と中国とは必ずどこかで協働路線に移行していかなければならないと思うのです。
その為にも中国との関係の中で、まずは互いの国の史実をより深く理解し、現在覆っている国家的イデオロギーを除いていく必要があります。今回のシリーズはそのきっかけとして位置づけていきたいと思います。中国の方、中国関係者の方もこの記事を読んでおられると思います。日中は理解しあえる、その為には相手を否定せず、自ら事実を学ぼうとする事だと思います。
 

「日本人の起源」を識る~6.アイヌ民族の謎(縄文人D2の末裔か、狩猟系C3の末裔か?)

「日本人の起源」を識る~6.アイヌ民族の謎(縄文人D2の末裔か、狩猟系C3の末裔か?)

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画像はウィキペディアより

アイヌ民族とは何者なのか?
アイヌ民族の成立を巡る議論は、文化的特徴の類似点から縄文人の末裔であるという説や、DNA研究や人種、言語の研究からは独自に成立したという説など諸説交々です。

ただ、これまでの縄文時代前後の気候・地形状況、最初に列島に渡来した「C3」に加え、縄文人を形成したと推測される「D2」などを踏まえ、文化の融合を図ってきた歴史を見れば独自に成立したとする仮説には無理があるように感じていました。

そんな中、前回の日本に南方の風を吹き込んだ海洋の民「C1」では、気候変動(ヤンガードリアス期)による「D2」と「C1」の混血・融合について一定の方向性が示されました。

これはアイヌ民族にも当てはまるのでしょうか?
過去の投稿を参考にみていきたいと思います。
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1.アイヌ民族とは何者なのか?~その起源に迫る~
アイヌ民族の起源を難しくしているのは、その文法形態(抱合語:シベリアからアメリカ一帯のネイティブ住民の言葉、エスキモー諸語、インディアン諸語等)や寒冷地適応していない南方モンゴロイドが起源であるという様々な矛盾を孕んでいる点です。
しかし、この矛盾が多ければ多いほど、他民族との混血・融合が繰り返し行われたこと示しているとも言えます。

抱合語にみるアイヌ民族の起源>
日本語は膠着語(単語にくっつく助詞の違いで意味が異なる、「てにおは」を使う言語)なのに対して、アイヌ語抱合語と呼ばれ膠着語とは全く別系統の言語です。このシリーズで扱ったC3(参考:『前縄文時代の解明(狩猟・移動の民C3)』)が北海道から入り地続きの津軽海峡を経由して日本各地に拡散したことを考えれば、アイヌ民族の起源がC3とも言えそうですが、実はC3の文法も日本語と同じなのです。このことから、C3の流入以前にアメリカに渡った古いアジア系集団の特徴をもつ人々の一部が、北海道に入り抱合語を定着させた可能性が高いと言うことになります。

Y染色体ハプログループD2が主力のアイヌ民族

さらに、前述のようにC3が現在のアイヌ民族の主流を占めているかと言うとそうではありません。その後にやって来たと思われるD2が主流になっています。

 

  C1 C3 D1 D2 D3 N O1 02a O2b O3
アイヌ 0% 13% 0% 87% 0% 0% 0% 0% 0%

アイヌにおけるY染色体による系統分析は右記のようになっています。
これらのことから推測すると、まずは原住民とC3が、その後にD2(D2の文法も日本語と同じ)が融合したと考えられます。
なお、現在のアイヌ民族にはD2、C3以前に抱合語を使っていたと思われる先住民のY染色体は確認されていないということになります。これは調査固体の数が少ないこともありますが、そもそも先住民の数が少なく、徐々に北海度に流入してきたC3やD2と混血・融合することによって数が減っていった(絶滅していった)と考えられます。
つまり、抱合語を使っていたであろう先住民が居なくなっても、抱合語だけは使用され続けたのです。
これは、これまで考えられてきた民族の融合とは全く異なっていると思われます。
では、改めて融合とはどういうことなのでしょうか?

2.融合とはどういうことか?
先の日本に南方の風を吹き込んだ海洋の民「C1」で提示された融合の方法を再度みていきます。

D2はC1と遭遇し、その中で生きていく上でまず、相手方を注視し、彼らが用いていた言語を吸収、理解しようとした。さらには彼らと会話(コミニュケート)する為に言語を用いるようになった。D2がC1の言語を取り入れたのはそういう動機ではないかと考えるのです。
実際この事は私たちの生活体験からも容易に想像できます。例えば何らかの事情で急に大阪で生活する事になった東京の人の場合、特に子供であればあっという間に大阪の言葉を覚え、いずれ東京の言葉を忘れてしまい2年もすればほぼ完全な大阪人になっていきます。その時の意識は、友達を作ったり、皆と仲良くしたいと言う素朴な意識です。郷に入れば郷に従えという言葉にもありますが、その土地で暮らす為にはその土地(集団)のルールを身につけるというのは殆ど本能に刻印された同化能力の一つなのです。

ここで挙げられているD2とC1の融合のようなものが、アイヌにおいても実現された可能性が高いように思われます。
つまり、抱合語を使う先住民と最初に日本に渡来したと考えられていた「C3」縄文人を形成したと推測される「D2」、後のオホーツク文化を築いた「C3」などが、先住民の生活を真似るために抱合語を学び共にアイヌ文化を形成したと思われます。
その中でも特にアイヌ文化に影響を与えたと思われるのが、現在、最も多いY染色体ハプログループ「D2」ではないでしょうか。
では、「D2」はどのように融合していったのでしょうか?

「D2」は縄文時代早期には九州にしか居なかったと思われますが、落葉樹林帯の北上に伴い「D2」もよりそれまで徐々に北上し、縄文中期の6000年前までには三内丸山に代表されるように本州最北端、或いは一部は北海道に渡り採集漁労の縄文文化を花開かせたと考えられます。

1500年続いてきた三内丸山が4500年前に突如消滅しますが、これが「D2」と先住民が融合したきっかけになっているように思われます。原因は特定できませんが、三内丸山の「D2」の民たちは四方八方へと避難を強いられることになったと考えられます。
つまり、北海道の南部で生活していた「D2」の民も北方に向かわざるを得ない状況=生死を賭けた移動を行ったと思われます(どのような事が起こったのか不明ですが、三内丸山遺跡が突然消滅した状況を鑑みると、その影響範囲は大きかったと思われます)。
そのような状況下で北方移動したD2はアイヌの先住民と遭遇し、生きていくために先住民を注視し、言語を吸収し(上記のD2がC1と融合したように)融合していったと考えられるのです。

民族と言う捉え方をした場合、どうしても西洋のイメージが強く略奪や侵略によって言語などを含めて文化が一変するようなことを想像しがちですが、アイヌをはじめ日本列島で起こったそのような略奪や侵略ではなく、先住民に学び・同化するという争いのない融合と言うべきものであったように思われます。
そして、先住民に学び・同化しなければ生きていけなかった外圧状況であったが故に、先住民の言語が残り続けたと考えられます。

3.縄文文化(体質)を受け継ぐアイヌ民族
アイヌが何者なのか?」など民族の出自を考える場合、多くの学者はそのDNAなどの遺伝子学的な要素や、言語学などに偏った判断を行いがちですが、そのような判断は一面的であるように思われます。
前述したように、アイヌとは複数の民族が融合して出来上がった民族であると考えた方が、現在、判明している事象には整合しているように思われます。

現在のアイヌ民族に最も多い「D2」は同時に縄文人の起源であるとも考えられており、両者には以下のような共通点があります。
アイヌの創生神話にある二柱神による国生みは、列島の日本書記や古事記創世神話と類似していることや、この創世神話にみる自然界の様々な対象を神とするアニミズム的信仰や文字を持たずに口承で伝えられてきましたことも縄文人と同じです。
また、アイヌ民族の集団は近世まで首長を擁した共同体としての形態が取られており、縄文時代の集団形態を踏襲していたとの推論も立ちます。
このような共通点があるにも関わらず、言語の違いなどで全く別の文化であると言ってよいのでしょうか?

人間の意識は本能機能、共認機能、観念機能の三層構造となっており、初期人類が獲得した観念機能それぞれが、現在形においてその全てが作動している。
この観念機能(特に言葉)は多様で容易な共認を可能にし、共認内容の無限の組み替えを可能にしてきた。我々が「文化」と呼んでいるものも、民族毎の「共認内容」のことを指している。共認内容が民族を規定しているのであって、本能(=DNA配列)が民族を作っている訳ではない。

 

つまり、言語の違いがあるにせよ、言語によって「文化」が決定される訳ではなく、「文化」はその信仰や共認内容に規定されるものであると言えるのではないでしょうか。そう言った意味においてアイヌ人も縄文文化(体質)を受け継いだ民族であると思われます。

縄文人を形成したと思われるD2は、一方は江南文化(農耕)を受け入れて後の日本人、もう一方は北海道の一部で狩猟文化へと融合したアイヌ民族と考えられます。

「日本人の起源」を識る~6.アイヌ民族の謎(縄文人D2の末裔か、狩猟系C3の末裔か?)

「日本人の起源」を識る~6.アイヌ民族の謎(縄文人D2の末裔か、狩猟系C3の末裔か?)

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画像はウィキペディアより

アイヌ民族とは何者なのか?
アイヌ民族の成立を巡る議論は、文化的特徴の類似点から縄文人の末裔であるという説や、DNA研究や人種、言語の研究からは独自に成立したという説など諸説交々です。

ただ、これまでの縄文時代前後の気候・地形状況、最初に列島に渡来した「C3」に加え、縄文人を形成したと推測される「D2」などを踏まえ、文化の融合を図ってきた歴史を見れば独自に成立したとする仮説には無理があるように感じていました。

そんな中、前回の日本に南方の風を吹き込んだ海洋の民「C1」では、気候変動(ヤンガードリアス期)による「D2」と「C1」の混血・融合について一定の方向性が示されました。

これはアイヌ民族にも当てはまるのでしょうか?
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1.アイヌ民族とは何者なのか?~その起源に迫る~
アイヌ民族の起源を難しくしているのは、その文法形態(抱合語:シベリアからアメリカ一帯のネイティブ住民の言葉、エスキモー諸語、インディアン諸語等)や寒冷地適応していない南方モンゴロイドが起源であるという様々な矛盾を孕んでいる点です。
しかし、この矛盾が多ければ多いほど、他民族との混血・融合が繰り返し行われたこと示しているとも言えます。

抱合語にみるアイヌ民族の起源>
日本語は膠着語(単語にくっつく助詞の違いで意味が異なる、「てにおは」を使う言語)なのに対して、アイヌ語抱合語と呼ばれ膠着語とは全く別系統の言語です。このシリーズで扱ったC3(参考:『前縄文時代の解明(狩猟・移動の民C3)』)が北海道から入り地続きの津軽海峡を経由して日本各地に拡散したことを考えれば、アイヌ民族の起源がC3とも言えそうですが、実はC3の文法も日本語と同じなのです。このことから、C3の流入以前にアメリカに渡った古いアジア系集団の特徴をもつ人々の一部が、北海道に入り抱合語を定着させた可能性が高いと言うことになります。

Y染色体ハプログループD2が主力のアイヌ民族

さらに、前述のようにC3が現在のアイヌ民族の主流を占めているかと言うとそうではありません。その後にやって来たと思われるD2が主流になっています。

 

  C1 C3 D1 D2 D3 N O1 02a O2b O3
アイヌ 0% 13% 0% 87% 0% 0% 0% 0% 0%

アイヌにおけるY染色体による系統分析は右記のようになっています。
これらのことから推測すると、まずは原住民とC3が、その後にD2(D2の文法も日本語と同じ)が融合したと考えられます。
なお、現在のアイヌ民族にはD2、C3以前に抱合語を使っていたと思われる先住民のY染色体は確認されていないということになります。これは調査固体の数が少ないこともありますが、そもそも先住民の数が少なく、徐々に北海度に流入してきたC3やD2と混血・融合することによって数が減っていった(絶滅していった)と考えられます。
つまり、抱合語を使っていたであろう先住民が居なくなっても、抱合語だけは使用され続けたのです。
これは、これまで考えられてきた民族の融合とは全く異なっていると思われます。
では、改めて融合とはどういうことなのでしょうか?

2.融合とはどういうことか?
先の日本に南方の風を吹き込んだ海洋の民「C1」で提示された融合の方法を再度みていきます。

D2はC1と遭遇し、その中で生きていく上でまず、相手方を注視し、彼らが用いていた言語を吸収、理解しようとした。さらには彼らと会話(コミニュケート)する為に言語を用いるようになった。D2がC1の言語を取り入れたのはそういう動機ではないかと考えるのです。
実際この事は私たちの生活体験からも容易に想像できます。例えば何らかの事情で急に大阪で生活する事になった東京の人の場合、特に子供であればあっという間に大阪の言葉を覚え、いずれ東京の言葉を忘れてしまい2年もすればほぼ完全な大阪人になっていきます。その時の意識は、友達を作ったり、皆と仲良くしたいと言う素朴な意識です。郷に入れば郷に従えという言葉にもありますが、その土地で暮らす為にはその土地(集団)のルールを身につけるというのは殆ど本能に刻印された同化能力の一つなのです。

ここで挙げられているD2とC1の融合のようなものが、アイヌにおいても実現された可能性が高いように思われます。
つまり、抱合語を使う先住民と最初に日本に渡来したと考えられていた「C3」縄文人を形成したと推測される「D2」、後のオホーツク文化を築いた「C3」などが、先住民の生活を真似るために抱合語を学び共にアイヌ文化を形成したと思われます。
その中でも特にアイヌ文化に影響を与えたと思われるのが、現在、最も多いY染色体ハプログループ「D2」ではないでしょうか。
では、「D2」はどのように融合していったのでしょうか?

「D2」は縄文時代早期には九州にしか居なかったと思われますが、落葉樹林帯の北上に伴い「D2」もよりそれまで徐々に北上し、縄文中期の6000年前までには三内丸山に代表されるように本州最北端、或いは一部は北海道に渡り採集漁労の縄文文化を花開かせたと考えられます。

1500年続いてきた三内丸山が4500年前に突如消滅しますが、これが「D2」と先住民が融合したきっかけになっているように思われます。原因は特定できませんが、三内丸山の「D2」の民たちは四方八方へと避難を強いられることになったと考えられます。
つまり、北海道の南部で生活していた「D2」の民も北方に向かわざるを得ない状況=生死を賭けた移動を行ったと思われます(どのような事が起こったのか不明ですが、三内丸山遺跡が突然消滅した状況を鑑みると、その影響範囲は大きかったと思われます)。
そのような状況下で北方移動したD2はアイヌの先住民と遭遇し、生きていくために先住民を注視し、言語を吸収し(上記のD2がC1と融合したように)融合していったと考えられるのです。

民族と言う捉え方をした場合、どうしても西洋のイメージが強く略奪や侵略によって言語などを含めて文化が一変するようなことを想像しがちですが、アイヌをはじめ日本列島で起こったそのような略奪や侵略ではなく、先住民に学び・同化するという争いのない融合と言うべきものであったように思われます。
そして、先住民に学び・同化しなければ生きていけなかった外圧状況であったが故に、先住民の言語が残り続けたと考えられます。

3.縄文文化(体質)を受け継ぐアイヌ民族
アイヌが何者なのか?」など民族の出自を考える場合、多くの学者はそのDNAなどの遺伝子学的な要素や、言語学などに偏った判断を行いがちですが、そのような判断は一面的であるように思われます。
前述したように、アイヌとは複数の民族が融合して出来上がった民族であると考えた方が、現在、判明している事象には整合しているように思われます。

現在のアイヌ民族に最も多い「D2」は同時に縄文人の起源であるとも考えられており、両者には以下のような共通点があります。
アイヌの創生神話にある二柱神による国生みは、列島の日本書記や古事記創世神話と類似していることや、この創世神話にみる自然界の様々な対象を神とするアニミズム的信仰や文字を持たずに口承で伝えられてきましたことも縄文人と同じです。
また、アイヌ民族の集団は近世まで首長を擁した共同体としての形態が取られており、縄文時代の集団形態を踏襲していたとの推論も立ちます。
このような共通点があるにも関わらず、言語の違いなどで全く別の文化であると言ってよいのでしょうか?

人間の意識は本能機能、共認機能、観念機能の三層構造となっており、初期人類が獲得した観念機能それぞれが、現在形においてその全てが作動している。
この観念機能(特に言葉)は多様で容易な共認を可能にし、共認内容の無限の組み替えを可能にしてきた。我々が「文化」と呼んでいるものも、民族毎の「共認内容」のことを指している。共認内容が民族を規定しているのであって、本能(=DNA配列)が民族を作っている訳ではない。

 

つまり、言語の違いがあるにせよ、言語によって「文化」が決定される訳ではなく、「文化」はその信仰や共認内容に規定されるものであると言えるのではないでしょうか。そう言った意味においてアイヌ人も縄文文化(体質)を受け継いだ民族であると思われます。

縄文人を形成したと思われるD2は、一方は江南文化(農耕)を受け入れて後の日本人、もう一方は北海道の一部で狩猟文化へと融合したアイヌ民族と考えられます。

「日本人の起源」を識る~エピローグ~最後の渡来O2b,O3は何を与えたか?

「日本人の起源」を識る~エピローグ~最後の渡来O2b,O3は何を与えたか?

シリーズ「日本人の起源を識る」も今回でいよいよ最終回となります。
これまで7回の記事を重ね、日本人の出自、列島内での動きから日本人の形成過程を見てきました。今回の記事ではその流れを総括的に押さえると共に、現代にいたる日本人の連続性を見ていきたいと思います。
まずは現在の日本人のY遺伝子の分布状況です。
東京、徳島、九州で分布を見てみます
  C1:C3:D2:O2b:O3
東京 1 : 2:40: 26:14
徳島 10: 3:36: 33:21
九州 4 : 8:28: 34:24
上記でわかるのは、東京、徳島ではD2が最大勢力で九州に行くとO2bが最大勢力であるという事です。またいずれの地域もD2、O2b、O3で8割を占めています。
この3つの遺伝子が日本人の性質を形成している生物学上の遺伝子と言えるでしょう。
このシリーズではこれまでも提起してきたように縄文人を規定している遺伝子はD2であり、そのD2に言語と漁撈文化を与えたのがC1と想定しました。つまり、O2b、O3はかなり後になって日本人に加わってきた一派なのです。
ここから先の議論をわかりやすくする為にO2bは中国江南地方の稲作をもたらした江南人、O3は1700年前以降に日本にやってきた好戦的朝鮮系渡来民~いわゆる「騎馬民族遊牧民の末裔」としておきます。当然、O2bに朝鮮系渡来民もいればO3に農耕民もいるとは思いますが、その渡来経路と与えてきた文化から固定化しておいたほうが歴史が見えやすくなると思います。
笑顔、日本人で検索しました。
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また、この日本国内で4つも5つも共存する遺伝子群は他の地域、国に行くと様相が異なります。或いは日本では3つの主要な遺伝子系統が分散しているのに対して他の地域では多くて2つ、極端には1つの遺伝子に統合されています。
事例を紹介します。
以下は華北、台湾、朝鮮です。
    C3:O1:O2b:O3
華北  5 : 0: 2 :66
台湾  1 :69: 0 : 7
朝鮮  11 : 3:36 :38
華北や台湾はほとんど1つの系統、朝鮮でも主流は2つです。このように日本のような多様な分布を見せないのが世界の標準なのです。
なぜこのように遺伝子が整理されていくか?これはおそらく日本以外の地域と日本とで古代の戦争の度合いが異なるからだと思われます。中国も朝鮮も古代に激しい戦争を経験し、その生き残りが国家を形成してきました。逆に負け組みは奴隷として支配されるか、周辺地域に離散、それぞれの地で定着していきました。日本はその負け組みが到達した一地域だったのです。
これらの特徴を現すと日本の民族は以下のようになります。

・多様な遺伝子系統が並存する事のできた珍しい国である。
・多様な遺伝子系統が存在するにも関らず、国民の大きな差が発生していない。
・後着の遺伝子系統が先住遺伝子系統を駆逐していない。

これは日本が歴史的にほとんど戦争らしき争いを国民規模で行なっていないという事を言っているに過ぎないのですが、改めて日本人の起源、経路からその事実を押さえてみたいと思います。

 人類はアフリカで誕生しますが、約10万年前に脱アフリカし、中東、インドを経て現在の東南アジアが陸化したスンダランドに多数集合します。約5万年前の頃です。
スンダランド定着が進む一方で、インドガンジス川上流域に留まった一派がさらなる温暖化で北上する森林地帯に併せてチベット地域、中国長江流域を経て東へ広がって行きます。
彼らは総じて森の中で狩猟採集する特徴を有していました。彼らが後の日本人の源流になったD2の民ではないかとこのブログでは論じました。森の民で土器を擁したD2は1万6千年前の寒冷期に南下して日本列島(九州北部)に到達し、海流で大陸と列島が切り離されるとその後の縄文人の基層として定着拡大していきます。
また、同時期に武器を携えて大型動物を追って北上したのがC3の民であり、彼らはユーラシア大陸の草原地帯に広く分布、そのうちの一派は2万年前前後にアメリカ大陸に渡っています。日本にもまだ大陸と繋がっている時代に北海道上部から入り込み、縄文時代より前の旧石器時代に拡がって行きます。
一方、スンダランドに定着した一派は火山噴火、海面上昇により周辺地域に離散、その一派はC1系統として1万2千年前に日本列島に漂着、定住します。
日本列島ではこの1万2千年前前後にC3、D2、C1の3つの系統の民族が居住地を分かれて定着していたと思われます。その後最後の特殊寒冷期ヤンガードリアスが約1300年間続きますが、この時期に狩猟の民C3はほぼ絶滅、D2は南下して九州南端でC1と融合、南方的性質を有していたC1がD2に言語的影響を与え、その後の日本人の言語基層になっていきます。
縄文時代はヤンガードリアスを挟んで1万年前から温暖化していきますが、4千年間の温暖期に本州最北まで移動、定着し、南方的特性を引き継いだD2系統が南から北まで広く分布、そしてその一派は火山噴火などを契機に海を越えて北海道に渡り、現在のアイヌ民族の源流に繋がっていきます。同様に7千年前の歴史的噴火である鬼界カルデラの火山噴火により九州南端居住のD2が沖縄まで移住、同様に縄文人の末裔となっていきます。
縄文時代は温暖化が進んだ1万年前以降においても1000年単位で寒暖を繰り返し、その度に食糧源となる樹林地域が上下動、それに併せて民族も移動、縄文時代終盤には列島内の言語と民族がほぼ同化、統一していきました。その意味では海に囲まれて逃げ場のない中で激しい気候変動と縦長の地形が多民族の集合体である日本人を単一民族にした背景にあったとも言えます。
さて、O2b、O3の話に入ります。
後発で日本人の仲間となった02b、O3はこのような状況のなか、日本列島に入り込んできたのです。O2b、O3はすでに大陸で一定の成熟した文化を形成してきており、当然戦争やその結果としての私権社会の波にももまれています。
渡来した彼らが日本列島に新技術(稲作や製鉄)をもたらし、私権社会の仕組み(支配、制度、文字)をもたらしたのは事実ですが、彼らもまた基層であるD2民の縄文人に吸収され、同化していったのではないかと思われます。
個別に見れば、約4千年前から徐々に少数で渡来し、縄文人に融和していった江南人(O2b)は弥生人として日本人化し、1700年前に集団ごと渡来したO3は長くその独自の渡来文化を日本の中で天皇を中心とする貴族社会として存続させていきます。しかし、それとて、渡来して400年もすれば、日本人の共認域に同化し、渡来文化を日本流に変化させ広げていきます。
それが漢字文化のカナ化であり、仏教の大衆化であり、建築や絵画、文学などへ反映されていきました。そして何よりも彼らが日本風に変わっていったのが、同類の戦いを避けるシステムを国家運営で設けた事です。その結果、O3の渡来民は自らの勢力を国内で拡大する事を望まず、ひたすら京都や奈良の地域で定着していきました。
O3が中国ではほぼ全域に拡大し他の系統が排除されたのに対し、日本だけは03が2割も居ながら、その拡大には至っていません。文化は拡げたけど、民族間闘争はしなかった。結果、O3やO2bが日本で与え、拡げたのは単に大陸の技術や文化に留まったのです。
そう考えると、日本という地に訪れたいずれも民もこの地に馴染み、同化し、日本人になっていったと言えるのかもしれません。日本人の起源を困難にしている要因の一つに多民族が流入し、日本の風土に同化した~それほどこの極東の島には引力があったという事を上げてもよいように思います。
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日本人の起源インデックスです
「日本人の起源」を識る~プロローグ
「日本人の起源」を識る~1.日本海の形成によって始まる縄文文化
「日本人の起源」を識る~2.前縄文時代の解明(狩猟・移動の民C3)
「日本人の起源」を識る~3.縄文人を作った採集の民 D2
「日本人の起源」を識る~5.日本に南方の風を吹き込んだ海洋の民「C1」
「日本人の起源」を識る~6.アイヌ民族の謎(縄文人D2の末裔か、狩猟系C3の末裔か?)
長らくのおつきあいありがとうございました。
次回シリーズはこの多様な島~日本を統合した本質は何か?それはひょっとすると言語ではないか?という仮説を建てて検証していきたいと思います。お楽しみに。

 

シリーズ「潜在思念の原点・カタカムナ」~日本人の可能性1

シリーズ「潜在思念の原点・カタカムナ」~日本人の可能性1

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写真はこちらからお借りしました。

前回は、古代人の思考=万物の間に類似性や共通性を見出す「類化思考」と、現代人の思考=物事の違いに着目する「別化思考」の違いを見てきました。
その中で現代人の「別化思考」の起源は、私権意識を正当化するための陰陽道を契機として変化していった支配者層の思考にあったことを見てきました。
現在、私権意識、近代観念が社会全体に拡がり人々が別化思考を続けてきた結果、人類は滅亡の危機に直面するところまで来てしまいました。
そこで今回は、人類滅亡に対する突破口の可能性として、私権時代以前の思考方法=古代人の類化思考に着目して見ていきたいと思います。
先ずは応援お願いします。

 私たち現代人は、自分にとって都合の良いことを考え、都合の悪いことは捨象する思考方法を無意識の内に取っています。
例えば、自分の自由は何より大切にし同時に他人の自由も認めるかのように思考していますが、実際に他人の自由を認めれば自分の自由は阻害されること、つまり万人の自由はあり得ないということは捨象しています。
また、環境問題を重要視しながら、より環境を破壊する経済活動や快適な生活は手放したくないと考えています。
つまり、現実全てを対象化するのではなく、都合のよい一部だけを対象化してしまう思考方法を取っているのです。
その結果、現代社会は環境破壊、精神破壊、経済破綻など、人類滅亡の危機に直面するところまで来てしまいました。
一方、カタカムナ人に見られるように、古代人の徹底した類化思考(同化思考)とは、自分にとって都合の良いもの、悪いものという区別無く、現実全てを対象化し、自然や環境、同類に対して徹底的に同化していく思考であり、事実の追及そのものだと言えます。
  
  
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写真はこちらからお借りしました。  
  
カタカムナ人が到達した(現代科学を超えるほどの)自然法則まで見通す思考は、徹底した現実対象化の結果です。
都合の悪い事象は捨象し、細分化し限定した前提・仮定条件下で研究を行う現代の科学者とは、同化のレベルが全く違うと思われます。
現代人の思考方法は正に別化思考であり、それは近代観念そのものが別化思考だからです。
例えば自由、平等などの近代観念は、現実社会においては決して実現できませんが、私権意識を抱える以上、頭の中の自己正当化には不可欠なものとなっています。
日本において支配者層の思考は、陰陽道を契機として私権意識を正当化する別化思考となり、私権意識の深化と共に大衆にも広がり現代まで続いています。
一方、日本に色濃く残る共同体性には、類化思考の名残を多々見つけることができます。
いくつか具体的な事例を見てみましょう。
  

●自然災害によって醸成された日本人の意識
『緊急企画 「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか!」第7回 地震・災害は日本人の性格をどのようにかたちづくってきたか?』

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写真はこちらからお借りしました。

このような世界各国に驚かれる日本人の性格は、日本人の自然観に由来しているのではないか?という観点でまとめているブログがありましたので紹介します。
以下、『ぼやきくっくり 独特の災害史観を持つ日本人は何度も立ち向かい乗り越えてきた』より転載します。リンク 
 
(以下引用)
(中略)
そして、このような「脆弱な国土」と繰り返し起こる災害によってはぐくまれたのが、「自然災害史観」「震災史観」ともいうべき、日本人の独特の精神性であるというのです。
歴史をひもとけばわかりますが、日本の先人の多くは紛争ではなく災害で亡くなっています。中国やヨーロッパでは災害よりも圧倒的に紛争で亡くなった人が多いのだそうです。
紛争、つまり「人為」で命を落とした場合は、相手を恨んだり、なぜ負けたのかを考えます。次に備えて論理で考える思考が得意になり、それは都市設計にも影響してきます。
例えば中国の長安は高い城壁で町を囲んでいましたが、平城京は城壁を採用しなかった。その違いは、「外から敵が攻めてくる地かどうか」でした。
日本の場合は外壁がなくても誰も攻めてきませんでしたが、災害などの「天為」に見舞われてきました。
多数の死者が出ても、原因が災害では恨む相手がいません。
現代ならともかく、科学技術も発展していなかった時代ですから、災害への予測も備えもままならなかった。抗議する相手もいなければ、防ぐ方法もなかった。……
と、述べた上で、大石氏は論文をこうまとめています。
……このように、日 本人は中国や欧米のように理屈で説明できる「人為」でなく、「天為」で命を落としてきた民なのです。そして「天為」で命を落とした死者への思いは、「安ら かに成仏してください」というものにしかなりえない。人が大勢亡くなった時、あるいは愛する者の死に接したとき、人間は最も深くものを考えるものだと思う のですが、圧倒的な自然の力による災害で多くの人が亡くなる経験をしてきた日本人は、「ただひたすらにその死を受け入れる」民になったのです。
人間同士のいさかいではなく、自然のみが驚異であった日本人の精神性が、他国と違っていても全く不思議ではありません。  
日本人にとって自然とは、善悪の価値観で捉える対象ではなく、受け入れざるを得ないもの、決して自分たちの都合でどうこうできるものではない対象でした。
自然は畏敬の念で全面的に同化する対象であり、日本人が類化思考を色濃く残してきた一因だと思われます。

●『日本の婚姻史に学ぶ、共同体のカタチ』「夜這い婚って何?」

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写真はこちらからお借りしました。  
   
(以下「夜這いの民俗学赤松啓介著より引用)
梅雨どき、長雨にうんざりすると若衆たちは、気がねのいらぬ仲間の家の内庭や納屋へ集まって縄ないなどの手作業をした。君に忠、親に孝などというバカはいないから、娘、嫁、嬶、後家どもの味が良いの、悪いのという品評会になる。
「おい、お前、俺んとこのお袋の味、どないぞ。」
「わい、知らんぞ。」
「アホぬかせ、お前の帰りよんの見たぞ。」
「ウソつけ。」
「月末頃にまた留守にするで来てな、いうとったやろ。どアホ。親父に行くな、いうたろか。」という騒ぎになった。
「お前、今晩、うちのネエチャに来たれ。」
「怒られへんのか。」
「怒ってるわい、この頃、顔見せんいうとったぞ、味、悪いのか。」
「そんなことないけんど、口舌が多いでなあ。」
「そら、お前が悪い。いわせんように、かわいがったれ。」
(以上引用)
 一見、あけすけで品のない会話のようですが、貞操観念などという余計な観念を取り払って読めば、周りの女性達が充足できるように、皆で情報を交換し、性的な期待を掛け合っている姿は、非常に思いやりに溢れた光景であるといえます。
 これらの会話から、もともと日本では、性に対して開放的であり、戦後のように秘め事ではなかったことがわかります。
 最大の共認充足である性の充足は村の活力そのものですから、ムラ全体で性の充足を肯定的に共認し、共同体の規範として、皆が充足できるように期待を掛け合うのは当然といえます。
(中略)
 性の相手がみんなの期待によって決まり、性の充足がみんなの共認充足となっていた日本の性文化からみれば、現代の男発の独占欲から得られる性の充足とは、180度違う事が解ります。
 最初の問い「貴女のセックスの相手は誰ですか?」に対する本来の日本文化を受け継いだ女性たちの答はもうお判りでしょうか?
 女たちの充足を第一とした「夜這婚の基本は(性的年齢に達した者)みんなと充足」だったんです。
 日本の農村では、女たちが充足し、安心していることが共同体の維持・統制に必要不可欠であり、村の活力=皆の共認充足=性充足であることを皆で共認していました。
 したがって性充足を 村の重要な統合課題として、「性も公明正大」に男たちで課題共認し、皆が充足 できるような婚姻制度を作り上げたのが、夜這婚だったのです。

  
  
日本の農村では戦前まで(地域によっては戦後まで)「夜這い」が残っていましたが、好き嫌いや自分だけの充足を考えていては「夜這い」は絶対に成立しません。
村落共同体の人々にとっては、みんなの充足が自分の充足でもあり、自分の都合だけで思考し行動することは考えられない事だったのだと思います。
これも、日本人が類化思考を持ち続けてきた事例と言えます。
古代人の思考方法が類化思考(同化思考)であったのは日本だけではなく、私権闘争が始まるまでは、類化思考こそが人類共通の思考方法でした。
しかし現代社会においては、私権意識や個人主義を思考の原点としているのが当たり前であり、別化思考こそが人類の思考方法であるかのように世界中がなっていますが、その中で日本人だけは類化思考を色濃く残しているようです。
次回は本シリーズ最終回として、なぜ日本人が類化思考を色濃く残してこれたのか、そして世界中が直面している社会閉塞を突破する可能性は日本人にこそあるのではないか、を追求していきたいと思います

縄文考 “ヤマト”とは何か?本編① ~中心軸の設定~

縄文考 “ヤマト”とは何か?本編① ~中心軸の設定~

firstoilさんの新シリーズ『縄文考“ヤマト”とは何か?』に引き続き、本編です
本編は3つにわけてご紹介していきたいと思います。
まず、今回はその1投稿目、「中心軸の設定」です。
中心軸の設定とは・・・
“ヤマト“を解明する上で、”大和”という漢字の意味から考えるのではなく、“やまとことば”であるひらがなの“やまと“から紐解いていく、ということです。
日本人が大切にしてきた”ヤマト”を追求していきます☆

1.中心軸の設定
“ヤマト”は“大和”と表記しますから「和の心」を連想します。その他にも沢山のイメージが浮かび上がります。例えば
大和魂大和撫子  ○現在の奈良県
○日本の古い国名   ○戦艦 大和
大和朝廷      ○魏志倭人伝 邪馬台国
○倭
上記以外にも日本らしい事象や会社の社名に使われるなど多岐にわたっています。
日本人にはどこか誇りと郷愁を感じる“ヤマト”ですが、実は意味がわからない
“謎の言葉”になります。
漢字表記は“大和(ダイワ)”と書きますが、なぜか“ヤマト”と読みます。このことは
日本人の誰もが不思議に思うことです。いくつかの解明を試みた文章を読むと
→ヤマト
→オロモルフの論考
→「やまとごころ」とは何か 田中英道
“ヤマのフモト”を表すのではないかと考えられています。
きっと正しいのかもしれませんが腑には落ちません。
何かもっと“ヤマト”には祖先の特別な思いがあるのではないかと考えたくなります。
これから“ヤマト”の意味を推論します。
たくさんの資料を参考にするため軸(ポジション)を設定します。
中心軸は国学になります。そして縄文を含めます。
軸の外周に考古学、文化人類学民俗学脳科学を配置し、もっとも外側に生活実感を
設定します
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国学は正確には古学(いにしえまなび)といいます。国学は安定した時代を築き上げた江戸時代中期に産まれました。社会が安定しなければ自らのルーツを探すことや
“いにしえ”に思いを馳せることはできません。
→やさしく読む国学 中澤伸弘著
国学には『漢字渡来以前のヤマトコトバこそ重要』という考えがあります。
この考えを基礎にして漢字の意味にたよらず音声言語としての日本語(ヤマトコトバ)で推論します。そのためカタカナ表記を多くします。それと意味を探る場合も漢字表記を
極力避け、英語表記を使います。
日本語(ヤマトコトバ)にべったり貼りついた漢字表記を洗い落としながら奥に光る
「何か」を探っていきます。
もうひとつ、軸に設定した縄文ですが考古学の区分という使い方ではなく概念と考えます。その概念とは「縄文文明論」になります。
以上の軸から、なぜ“ヤマト”を解明するのか?目的を述べます。
日本の国柄を“和”という漢字(外国語)で表わすことに満足せず、
日本の国柄は“ヤマト”だと考え、日本語で意味を解明することを目的とします。